第2話 桔梗の咲く庭(1)

 『紫(ゆかり)』という名は、亡き母がつけたものだ。病気が判明するまで高校で古文の教師をしていた母は、源氏物語が殊更に好きで、中でも紫の上がお気に入りだった。容貌も心馳せも優れ、更には知性溢れる完璧な女性である紫の上は、源氏の最愛の女性として描かれている。

 何を思って母が初子にこの名をつけたのかは、結局分からないままだ。幼い頃は「お母さんが大好きな物語に出てくるお姫様の名前」と言われ、素直に嬉しく思っていたが、中学生になって源氏物語を読むようになり、彼女の人生を知って、酷く裏切られたような気がした。

 源氏の妻となるまでの、少女期の頃の紫の上は利発でお転婆で、好感が持てる姫君だったが、その後の人生は可哀想としか言いようがない。夫の度重なる浮気に悩まされ、切望した実子には恵まれず、代わりに愛人の子を育てることになった。深く懊悩する日々を送りながらも、優れた器量から実質の正夫人とされ、「北の方」と呼ばれることに誇りを持ち、支えとしていたのに、源氏は四十路過ぎにもなって正妻を迎えてしまった。

 最愛の女性だなんて称号は、何の名誉にもならない。以前某アイドルが歌っていたように、ナンバーワンよりオンリーワンなのだ。そんなこと、子どもでも知っている。幾ら平安の昔とはいえ、世の中の有り様が現代とは全く違うとはいえ、女が男に望むことまで異なるとは思えない。

 当然名付けた真意を問い質したいと思ったが、その頃には母は深刻な病と闘う身となっており、責め立てるような話をする訳にはいかなくなっていた。

 紫の彼は夕貴という。夕方に生まれた大切な子という意味で、彼の弟の名は朝陽(ともはる)と朔夜らしい。

「もっと捻りようがなかったのかなって思うよ」

と本人は苦笑していたが、紫は名前なんてそのくらいがちょうど良いと思っている。紫のように誰かの名前に由来していると、生き様まで名前に左右されそうで不愉快だ。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 七月十七日。今日は山鉾巡行前祭(さきまつり)の日だ。七月一日から一か月を掛けて行われる祇園祭のメインイベントであり、京都のメインストリート四条通、河原町通、御池通を、国宝級の装飾品に彩られた二十三基の山や鉾が、「コンチキチン」という祇園囃子を奏でつつ、華やかに巡行する。

 一昨年から約五十年ぶりに二回に分けて行われることになったが、十七日の前祭の方が巡行する山鉾の数も多く、注連縄切りや籤改めといった見どころもあり、一週間後の後祭(あとまつり)よりも圧倒的に盛り上がる。

 巡行の前夜祭を、宵山(よいやま)と呼ぶ。四条通が歩行者天国となり、たくさんの夜店が出揃い、毎年必ず観客動員数がニュースになる程の賑わいを見せ、昨夜は三十二万人だったと発表された。ちなみに宵山の前夜が宵々山、更にその前が宵々々山だ。

 昨夜は紫も夕貴と共に出掛けた。宵山に恋人や友人と連れだって出掛けるのは、京都の若者たちの定番行事のようなものだ。京都で生まれ育った紫にとっては特に目新しいものではなく、余りの人の多さに辟易したが、他府県の出身である夕貴は、それすらも楽しんでいたようだった。




 二十歳になった記念に、今年は浴衣を新調した。昨年までは白地に赤紫の撫子の花が散り咲いたものを着ていたが、今年は少し大人っぽく、紺地にしてみた。明るい紺色の地に咲く大振りの朝顔は、古典的な柄ではあるものの、華やかで垢抜けている。なにより紫の白い肌によく似合って、「綺麗だよ」と夕貴も照れ臭そうに褒めてくれた。

 紫の母は大層な衣装持ちで、亡くなった後に祖母の家に移された桐の和箪笥には、ぎっしりと着物が収められていた。昨年祖母が亡くなって独り暮らしを始めた時、全部を持って行くのは無理だと判断し、半分程を処分したが、残した着物もそれなりの量で、浴衣だけでも四~五枚はある。

 その中で一番のお気に入りが、黒と見間違えそうな濃紺の地に、桔梗の花が白く染め抜かれたものだ。母はこれに、山吹色の博多織の半幅帯を合せて着ていた。

 一昨日、着付けの準備の為に小物を出しておこうと、和箪笥の引き出しを開けた時、久し振りにこの浴衣に対面した。懐かしさから思わず手を伸ばし、鏡の前で身体に当ててみたが、今の紫が持つ雰囲気とは釣り合っていないように感じた。背伸びをして無理に着ても滑稽なだけだと諦めたが、その反面、大人になる猶予を貰えたような気がして、少しだけホッとした。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 御所の東側、梨木神社と寺町通を挟んだ向かいに、小さな寺がある。廬山寺という。こじんまりとした山門の門柱には『源氏物語執筆地 紫式部邸宅址』と書かれた看板が掛かっており、遙か平安の昔、この地に紫式部が生まれ育った邸宅があったことで知られる寺だ。

 境内には『源氏庭』という、平安貴族の邸を思わせる、小さいながらも風情ある庭がある。一面に敷かれた白砂の中に、まるで小さな島のように、たおやかな曲線を描く苔地がぽつぽつと浮かんでいて、今の時期は苔地に群れ咲く桔梗の紫が加わり、白と濃緑の鮮やかなコントラストに彩りを添える。




 三年前、母が亡くなった。長い闘病の末のことだった。

 そして昨年は、祖母が亡くなった。今日と同じく、空気中の水分が飽和したような、酷く蒸し暑い日だった。病院から連れて帰った時、下鴨の祖母の家の庭には、桔梗がぽつぽつと咲いていたのを覚えている。茹だるような日差しの中で、しゃんと背筋を伸ばし、涼しい顔をして立っていた。

 祖母が特に好きだった花なので、庭の中でも一番日当たりが良い場所を与えられているが、先月家の風通しに行った際は、まだ固い蕾の状態だった。今ならどうだろう。初盆のこともあるし、そろそろまた家の様子を見に行かねばならないが、なんとなく億劫で、足が遠のいている。

 今日この寺を訪れたのは、久し振りに母の浴衣を目にして、懐かしい紫色の星型の花を見たくなったからだった。

 秋の七草に数えられているせいか、秋に咲く花と思われがちだが、桔梗の開花期は長く、梅雨頃に始まって夏を越え、九月の初めまで続く。

 この寺には母や祖母に連れられて、何度か来たことがあった。いづれも桔梗が見頃を迎える時期、七月から八月末に掛けてのことだった。その頃になると、毎年山門前には『桔梗見頃』という看板が出る。恐らくこの寺を訪れる人の大半が、桔梗を目当てにしているのだろう。

 勿論紫もその一人なのだが、タイミングが良かったのか、未だかつて他の参拝客に出会ったことが無く、いつも貸切状態だった。七月八月といえば、一年で一番過酷な気候であり、特に盆地である京都の蒸し暑さは筆舌に尽し難い。炎天下の下、桔梗以外これといった見どころが無い寺へ、わざわざ足を運ぶ人はそうはいないのかもしれない。




 しかし今日は、珍しいことに先客がいた。社会人らしき年頃のカップルが、濡れ縁に並んで座っている。場所を弁えていないのか、女がしな垂れかかるようにして、べったりと男に寄り添っている。不快に思いながらも好奇心には抗えず、紫は二人の側を通る時、横目でじっくりと観察してしまった。

 男は真っ直ぐに前を向いて庭を眺めながら話をしているが、女は隣に座る男の顔しか見ていない。真っ黒のアイラインを太くしっかりと引いた、所謂囲みアイメイクの女は、肩や鎖骨を大きく露出した、やたら丈の短そうなワンピースを着ていた。足を折って座っているから太腿が見事に曝け出され、もしも隣に座っていたら、女の紫でも目のやり場に困りそうだ。前屈みになったら、間違いなく胸の谷間がばっちり見えるだろう。

(もう少し、時と場所を選べばいいのに…)

 紫は彼らからなるべく距離を置いて、濡れ縁に静かに腰を下ろした。男の顔はあまりよく見えなかったが、ピンクのシャンブレーシャツにブラックデニムという、至って普通の服装ながら洗練された大人の雰囲気で、露出度ばかりを追求したファッションの女と並んでいると、どうにもちぐはぐな印象を受ける。

「…今度は…」

「…………」

「……駄目?」

「…………」

 しばらくして、女の声が漏れ聞こえてきた。男の方は声が小さくて、何を言っているかさっぱり分からないが、他の参拝客に気を遣っている分、真っ当なのかもしれない。人様の会話を盗み聞くなんて行儀が悪いとは思ったが、女の、やたらねっとりとした甘え声が気になって、紫はついつい耳をそば立ててしまう。

「……って言ったじゃない」

「…………」

「……くれなきゃ嫌…」

 どうやら痴話喧嘩の真っ最中らしく、女が駄々を捏ねているようだった。見たところ二十代半ばくらいなのに、あれではまるでスーパーで菓子を強請る小さな子供だ。内心「みっともない…」と思ったが、ひょっとしたら、世の中の男性はああいう物言いを可愛く感じるのかもしれないとふと思った。恐らく自分には、逆立ちしても出来そうにない。

 母が仕事を持っていたので、紫は主に祖母に躾を受けて育った。祖母の家は紫が通う小学校の学区内にあったから、下校後はいつもそちらで過ごし、母が迎えに来るのを待った。たった一人の孫娘だというのに、祖母はなかなか躾に厳しく、世間でよく言うような「孫に甘いおばあちゃん」とはまるで違った。勉強も家の手伝いもきっちりさせられたし、外出先で我儘を言おうものなら、容赦なく叱られた。それでもいつも傍にいてくれる祖母のことが紫は大好きだったし、頼る人がいなくなり、一人で暮らすようになった今、曲がりなりにもどうにかやっていけているのは、祖母の教育の賜物だと感謝している。

 目の前にいる囲みアイメイクの女は、紫が最もいけ好かない種類の人間だった。その感情のごく一部に、コンプレックスが含まれていることには、敢えて気付いていない振りをした。

 庭を眺めるついでに、思わずちらりと彼らに視線を遣った時、やれやれといった調子で女の方に顔を向けた男と、ばっちり目が合ってしまった。恐ろしく見目の良い男だった。くっきりとした二重の瞳、太く濃い眉、真っ直ぐに通った鼻筋。彫りの深い精悍な顔立ちは綺麗というより端正という言葉の方が合っていて、こういう人を「美丈夫」と言うんだろうなと素直に感心する。

 不躾な視線を受けた筈の男は、どういう訳か、紫に向ってにやりと笑ってみせた。目尻にできた笑い皴が、これまた男臭くて格好いい。恐らく三十は超えているだろう。

「もういいっ!」

 突然、甲高い声が堂内に響き渡った。何事かと思えば、どういう訳か、さっきまで甘ったれた声を出していた女が酷くいきり立っていて、ダンダンと乱暴な足取りで出口に向かっていく。あまりの変貌ぶりに、紫は唖然として女の後姿を見送った。

 それにしても、やはりワンピースの丈は不自然なくらい短い。駅の階段を上る時はどうするんだろう。もしも自分の前に居たら、誘惑に負けて、ついつい見上げてしまいそうだ。




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