はじまりの日

@otaku

第1話

 国立駅からまっすぐ伸びる大学通りを巡る所有権は少々複雑で、道路自体は都道であるが、それに付随する歩道は国立市が、そして緑地帯はプリンスホテルが保有している。しかし、恐らく住人ですらそのことを知る人は少ないだろうし、またそんなこと知らなくても満開の桜並木は美しい。

 それが4月1日に抱いた僕の感想だ。電車を降りるとホームから見事な桜並木が途切れることなくどこまでも続いているのが見えた。多くの人が携帯を取り出して写真を撮っている。僕もそれに習って一枚撮る。春に来るのは初めてだった。今まで夏に1回、冬に2回だけだった。

 今日は新入生対象のガイダンスが大学で行われる。余裕を持って来たつもりだったが、国立駅で僕と同じような若者が沢山降り立った。既にある程度コミュニティが出来ているのか、大抵数人連れである。僕は3月のサークル新歓に行かなかったことを後悔した。

 去年の3月、ホームページに自分の番号が無いことを確かめてから1年間、殆ど毎日自室に籠って受験勉強だけをしてきた。携帯を解約し、家族以外と接する機会も無くなった。やり過ぎなのかもしれないが、それだけに今年の喜びは大きかった。ただ、僕は人とどうやってコミュニケーションをとればいいかをすっかり忘れていた。それで、行くのを億劫に感じてしまったのである。

 国立駅を中心とした町内半径1.3キロは文教地区に指定されているため、街並みは騒がしくなく、上品で、木漏れ日のような温かさに満ちている。そんな景色に包まれると、段々自分の輪郭があやふやになってくるようで、「ご入学おめでとうございます」と至る所に貼られている大学通りを僕は足早に去った。

 西キャンパスの講堂に辿り着くと1階はもう満席で2階へと案内された。一番端の席を確保し、英単語帳をチェックして時間を潰す。ガイダンスの後にプレースメントテストが行われる予定で、それをもとに英語のクラスが振り分けられるらしい。

「お隣良いですか?」

「あ、え、はい」

 不意に話しかけられ、変に上擦った声が出てしまった僕は恥ずかしくなって、太腿に置いたバックパックに突っ伏してその場をやり過ごすことにした。そうすると周囲の喧騒が一層大きく聞こえる。早くガイダンスを始めてくれ、と心のうちで念じる。永遠にも感じるような時の中、しかしいつの間にか眠気が僕を襲い、意識が戻るともうガイダンスは佳境だった。僕は自分の要領の悪さが嫌になる。

 テストが終わったあと、サークル新歓があたりでは行われていたが、ビラだけ数枚貰って帰る。今日はどっと疲れた。駅に着くと丁度電車が行ったあとで、十分少々待たされる。

 ホーム階行きのエレベーターを待っているとある女性が息を切らしてやって来た。両の手には先程のガイダンスで配布された紙袋、そこで僕は漸く自分がその紙袋を講堂に置き忘れていたことに気がついた。

「あ……すみませんでした」

「いえいえ、間に合って良かったです」彼女はそう言って微笑みかけた。

 そして僕たちは一緒に帰ることになった。彼女は去年まで都内の女子校に通っていて、進路希望調査で将来ジャーナリズムに携わりたいと書いたら先生に勧められてこの大学を受験することにしたらしい。

「あなたは何で受験したんです?」

「僕は……きっかけは祖父の母校で、幼い頃一番初めに名前を知った大学だったことです。祖父は大学やその周辺の話を僕によくしてくれて、その内に何となく僕も行くものだと思うようになっていました」

「お爺ちゃん子だったんですね」

「分からないです。去年落ちたときこっ酷く叱られて、それが悔しくて猛勉強しました」

「じゃあ、今年はさぞかし喜んでくれたんじゃないですか!」

「それも、分からないです。祖父は去年の暮れに亡くなってしまったので」

「すみません……」

「いえ、大丈夫です。ただ、僕は何か大学でやりたいことのあるあなたが羨ましい」

 彼女は吉祥寺で降りて行った。僕は荻窪で丸ノ内線に乗り換える。携帯を開くと叔母からメールが来ていた。


件名: 大学はどうでしたか?

本文: 朝聞くのを忘れていたのですが、今日は夕飯要りますか? 因みにカレーです。


 僕の実家は静岡にあるので、大学4年間は中野坂上にある叔母の家に居候させて貰うことになっている。僕は夕飯が欲しい旨と、それから少し考えて、友達が1人出来たと書いて送信した。駅に着き、外に出るともう日は暮れかけていた。

「やりたいことは、これから見つければいいと思います。それでは!」

 去り際渡されたメモ用紙には彼女の連絡先が書かれている。それと、今日の夕飯がカレーであるという、本当に、たったそれだけで今日はすごく良い一日であるように心の底から思える。さっき撮った桜並木を見返すと、やはりそれは象徴的にどこまでも続いているのだった。

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