幸運の指輪

アイリーン・アドラー

 シャーロックの婚約者と名乗るその美女は観測史上有数の豪雨と共に訪れた。

「すみません、先生いま少し出払っていて」シャーロックは携帯に出ない。着信の取り方を覚えろと、いつか彼の古馴染みが眉根を寄せていたことを思い出す。

「……あの、よろしければ伝言伺います」

 ワトソンは女性と天気を代わる代わる眺めながらおどおどと提案した。豪雨の中帰れと言うのは酷な気もしたが、シャーロックが泥酔して戻らないとも限らない。果たしてこの女性にどちらがより失礼なのか、測りかねていた。

「ほんの少し、待たせていただいてもかまわないかしら」

 薔薇色の唇が笑みを形作る。花が綻ぶような、カーテンの隙間から陽光が溢れるような美しさを持っていた。しかしワトソンは上司のことが気がかりで、彼女の微笑みに見とれる余裕がなかった。

 先生早く帰ってきてください、できれば素面で。ワトソンは心の中で強く祈る。

 キャスリンと名乗った女性は、客だからといっておとなしく座っているわけでもなく、本棚からシャーロック・ホームズ全集を取り出してはぱらぱら眺めていたりする。ブロンドの髪の隙間に清楚で涼やかな耳飾りが覗く。ラインの出るシャツにスカート、高いヒール。シャーロックの婚約者を名乗るにはかなり若いように見えた。

 ワトソンが彼女のカップに三度コーヒーを注ぎ、四度目をどうすべきか悩み始めたタイミングで階下に鼻歌が聞こえた。シャーロックだ。ほっと息をついたワトソンの首元に、キャスリンの腕が回った。同時に扉が悲鳴を上げる。

 キャスリンとシャーロックが撃鉄を上げたのはほとんど同時だった。

「久しいな。元気そうで何より」

「ご無沙汰しておりました、シャーロック先生」

「あの、先生、この方は」

 首を締められたまま、ワトソンが問う。この状況にあってなお、相手は女性なのだからという気がして抵抗が躊躇われた。

「私の古馴染みだ。何か用かアイリーン?」

「お仕事の依頼に」

「では銃を降ろせ」

「そちらこそ」

 二人の声は静かながらほんのりと愉快そうだった。古馴染みというのは事実だろう。おそらくはバルテン警部と同じか、それ以上にはお互いの懐が知れている。そんな気がした。ただし、視線も銃口もお互いに突きつけたまま逸らすことはない。

「君が人質を撃ったことは無かったな」

「ええ。あなたも私の依頼を断れたことが無かったわね」

「色仕掛けにゃ弱ええんだよ。まーたそんな短いスカートなんか履きやがって」

「ごめんなさいね、仕事着のままなの」

「あの先生」

「どうしたワトソン?」

「助けてください」

 ワトソンが嘆願すると、アイリーンと呼ばれた女性は笑いながらその体を開放した。どこにいていいのかがわからず、取り敢えず二人の銃口が向いていない位置へと避ける。

「うちの助手を怖がらすんじゃねえよ、まだ新人なんだから」シャーロックが引き金を引く。弾は出ない。

「ごめんなさい、随分待たされたものだから、退屈でつい」アイリーンが引き金を引く。同じく弾は出ない。

「先生の婚約者っていうのは」

「彼女がよく使う嘘だ」

「あら、だって先生、そのために籍を空けていてくださるんでしょう?」

 シャーロックは肯定も否定もせず、ただ喉を鳴らして笑った。これが嬉しい時の笑い方であると、ワトソンは既になんとなく知っている。

「依頼は?」

「指輪を無くしたの。探してくださらないかしら?」

「興冷めだ。うちじゃなく質屋でもあたってみたらどうだ」

 アイリーンは首を振る。

「価値を知らないなら盗まない。価値を知っているなら手放すはずがない」

「なるほど」シャーロックは会心したように唇を舐めた。「君の主人も元気そうで何よりだ」

「請けてくださるかしら、先生」

「さっき言った通りだ、色仕掛けにゃ弱い」

「あの、その指輪ってどんな」

 ワトソンがようやく口を挟む。弾が装填されていなかったとはいえ、つい先程まで互いに実銃を向け合っていたはずの二人が普通に会話しているのはどうにも釈然としなかったが、その点は一旦横に置いた。どちらに話を聞いてもまともな返答は期待できそうにない。

「幸運の指輪よ」

 アイリーンの返答は的を得ない。うっそりと歪められた双眸は美しい青をしている。

「持っているだけで巨万の富と権力が手に入る。指輪としての価値は二束三文、道端に落ちていても拾おうなんて思わない、か」

「先生はどうしてわかるんです?」

「あの男のやりそうなこった。で? 勿論分け前は貰えるんだろうな?」

「ええ。けれど今は持ち合わせがないの。後払いで構わないかしら」

 言いながらアイリーンはシャーロックに歩み寄り、鼻が触れるか触れないかというところまで顔を近づけて指先でその口元を撫でた。

「お金じゃなければ払えるものもあるけど」

「ちょ、ちょっと」

 お金じゃなければって、つまり。慌てるワトソンと対象的に、シャーロックは笑みを崩さないままで両手をひらひら振った。

「遠慮しよう。火遊びは嫌いじゃねえが、リスキーが過ぎる。これでも命が惜しいもんで」

「あら残念。随分耄碌したのね」

「そろそろ齢五十だ。そこで顔真っ赤にしてるガキもいることだしな」

「子供といえば、お父様はお元気?」

 唐突に問われて、シャーロックは一瞬怪訝な顔をした後で「ああ」と頬をゆるめた。シャーロックが父と呼ぶ人間はひとりだけだ。どうやらアイリーンと呼ばれるこの女性は、マイルズ中将と面識がある。そして同時に、シャーロックが彼をそう呼んでいることも知っている。

「あの人ならぴんぴんしてるよ。いい歳なんだから多少おとなしくなってほしいくらいだ」

「彼、気をつけた方がいいわ」

「何の話だ?」

「さあ?」

 シャーロックは眉根を寄せ、それを見てアイリーンは笑う。

「どう転ぶか、私もわからないの。怖い顔をしないで」

「君の主人は何をする気なんだ?」

「主人じゃないわ、ただ噂が聞こえただけ。――お願いしたい指輪の写真がこれよ」

 差し出されたのは、一葉の写真だった。ワトソンはシャーロックの隣に回りこみ、つま先を立ててそれを覗き込む。宝石店よりも雑貨店にある方が正しいようなチープな指輪が写っている。

「いくらでも贋作が作れそうだ」

「ですね」

「内側に透かし彫りが入ってるの。本物を複製することはできても、写真から同じものを作るのは不可能だわ。それに」アイリーンは声を落とし、シャーロックとワトソンの顔を順番に覗きこんだ。「巨万の富も死者には無意味なものよ」

「それもそうか」

 シャーロックの調子は変わらない。

 持つものに巨万の富と権力をもたらす幸運の指輪。それを「無くしたから探せ」というのはつまり、「奪われたから取り返せ」という意味ではないだろうか。

「確かに承った。連絡は?」

「メールでお願い」

「またか。俺あれ苦手なんだって」

「お願い」

 アイリーンは口元に指を立て、片目をつむって見せる。シャーロックは同じく口元に人差し指を立て、「わかった」と返答する。アイリーンはそれを聞いてまたにっこりと笑い、「それじゃあ」と踵を返した。

「アイリーン、少し待て」

「何?」

「これ」

 シャーロックが部屋を横切り、屈んで拾い上げたのはコンセントタップだった。ゆるい放物線を描いて胸元へ投げ込まれたそれを、アイリーンは受け取って笑う。

「相変わらず敏い人」

「それって、もしかして」

「盗聴器だろ。自分は電話すら嫌うくせによくやるよ」

「雑音の情報量を知っていればこそよ。あなただって電話、出ないでしょう」

「まあな」

 ただ一人、シャーロック・ホームズを冷静で居られなくする女性。ワトソン医師をして、あるいはシャーロック・ホームズをしてそう言わしめた女性、"故"アイリーン・アドラー。

 自らをして「キャスリン」と名乗り、シャーロックをして「アイリーン」と呼ばしめた件の女性は、指輪の謎一つを残して事務所を去った。シャーロックが帰ってくるまでの間、彼女が手慰みにめくっていたのは「ボヘミアの醜聞」だった。

「アイリーン・アドラーは結局、亡くなっていたんでしょうか」

「俺は『旧姓』の比喩だって説を推す」

「結局どういうご関係だったんです? なんだか随分懇意に見えましたけど」

「昔ちょっとな。惜しいことした」

「……あの方は、味方と思っていいんですか」

「敵ではないし味方でもない。わざわざ疑う必要はないし、過信もするな」

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Mr.シャーロック 豆崎豆太 @qwerty_misp

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