第2話

穏やかに人を好きになることが、くたびれた老いぼれに再びやって来るとは思わなかった。

老いぼれたから、穏やかにしか人を好きになれないのかもしれない。

どちらにしても、死に向かって一日一日、一分一分と老いを時と共に重ね、生きている老人に、恋が宿るなど思いもしなかった。

子供とたちは遠に成人し、散り散りと家から出て、それぞれに家庭を持つ。

たまに、息子たちが気が向いたように家に帰って来るのは、彼らが将来感じるかもしれない罪悪感を減らすためという事は分かっているけれど、

それでも、自分の呼吸の音でさえ、時々聞こえなくなる無音の家に、誰かが訪ねてくれるというのは、素直に嬉しいものだ。

同じ世代の人間が、脳こうそくだの、アルツハイマーだので自動車事故を起こし、見ず知らずの人間の命までも奪っていくニュースをテレビで沢山耳にするようになって、1年前に運転免許証を返納した。

誰にも、自分の子供にも、迷惑をかけぬよう生きようと思った結果、

出かけることも少し億劫になったように気がしている。

デジタル式の目覚まし時計から

カチ カチ カチ チッ チッ チッと聞こえるはずのない秒針の音が聞こえる。


時間を気にする必要のない人間に時を知らすのはオレの役目じゃない、と舌打ちしているようだ。


家内がガンで亡くなってから7年が経つけれど、1人の時間は随分前から続いているようだ。

家内とは見合い結婚で、結婚しても恋愛などということをお互いに感じたことがないように思える。ただ、子供を作る為とお互いの体のニーズを時折埋めるため、そして長く寄り添った人間に芽生えるある種の情の三脚で成立していた婚姻生活だった。

もし、コレが四脚であれば安定がさらに良く、二脚であれば立っていられなかったわけだけれど、四脚には足りないものがあったから、家内が亡くなった後、この家静かになってしまったのかもしれない。

家内が先にいってくれたおかげで、この静けさを彼女に味合わせることなく、良かったのかもしれない。

コーヒーを飲もうと、沸かしたお湯が鍋の中でシュワシュワと小さな泡をなべ底にはじき出した。

年老いた男所帯は小さな鍋一つで何でも事足りる。

晩酌の燗、お湯を沸かす、ゆで卵、インスタントラーメン。みそ汁。

IHの火元を切ったとき、コーヒーを切らせていたことに気が付いた。

「しまった、昨日、買い忘れちゃったな」

定年を迎える前までは、インスタントコーヒーを飲んでいた。

時間もなかったし、私たちが若い頃などは、どこの家庭も自宅で飲むコーヒーはインスタントが主流だったように思う。

あるいは、私だけが生活に追われて嗜好品としてのコーヒーを味合う贅沢すら疎遠だったのかもしれない。

はて?いつから、ドリップコーヒーを嗜好するようになったのだろう。

定年を迎えても、朝起きて、比較的若い頃から寂しくなった頭を整えるのは日課で、安いものだけれど、昔からある資生堂のアフターシェーブローションも欠かせない。

たかだか、近所のコンビニエンスストアに行くだけなのに、なぜにそんなに身支度を整える必要があるのか私にも分からないが、そうしないとなんだか、数十年前に切り取ったはずのいぼ痔が再発したかのように、ケツの穴がムズムズして落ち着かない。

上がり框に腰をかけ、履きつぶしてボロボロになった運動靴に木製の靴べらで足を滑らせた。

「行ってくるよ。」

パタリと一拍おいて閉まった扉の音は、何処にでもある変哲のないものなのに、家屋よりなにか大きいものを閉じ伏せるような重みがある。

この家の中で暮らしてきた私を含む人間の人生が詰まった家という箱。

やがて私の寿命がくるまで、こんな日々を過ごしていくのだろうか。

代わり映えが無いのは穏やかな毎日だと思う一方で、何も変わらない生活に不安を感じ、たまらなく苦しくなる一瞬がある。

私はコンビニへ行く足を止め、少しずつ遠ざかっていく自宅のある方を半身をそらして振り返り、目を閉じて行く先へ再び半身を返した瞬間、右肩に衝撃が走り、スイングドアのように再び半身が振られる。

右足、左足、右足。最後の右足の一歩に力が入らず、膝を崩し、しりもちをついていた。

「チッ。」舌打ちはそのまま通り過ぎていく。

痛いところと言えば、すっかり肉厚でなくなった尻だけで、幸いどこも怪我はないようだ。けれども、すぐには立ち上がれず、その場に座り込んでいると、黒塗りのタクシーが白いガードレールを挟んだ向こう側に止まり、誰かが下りて来る。

「大丈夫ですか?どこか苦しいんですか?」

どうやら、その人には私が何かの発作を起こしうずくまっているようにしか見えないようだ。

すっかり年寄りの私が地面に尻をついてのけぞっていれば無理もない話か。

「足がもつれてしまっただけなんで、大丈夫ですよ。ご親切に、申し訳ないです。」

尻をついたまま半身をひるがえすと、婆さんが私の目線に腰を落として私の背中に手を添えた。

「頭や他どこか、ぶつけてないですか?」

「大丈夫。ちゃんと立ち上がれます。」両手を前に出し、よっこらせで立ち上がる。

「ご親切にどうもありがとうございます。」

私の腰を支え、婆さんは左側で私を見上げていた。

「タクシー行ってしまったけれど...」

「不精して乗っただけですから、良いんですよ。」

「お出かけだったんじゃないですか?」

「お恥ずかしいんですが、コンビニエンスストアまで、ほらその横断歩道の」

尻を払いながら、婆さんが差す指をみた。歳を重ねると皺は皮膚だけにでるわけではない、指先の爪にも縦に皺を深く刻んでいる。

「そうでしたか、奇遇ですが、私も」

「昨日までは車で来てたんですけれどね・・・」

聞けば、同居する息子夫婦に言われ、運転免許を昨日の昼間に返納したばかりだという。

「買い物に行こうと外に出て、角を曲がるまでは歩いていたんだけれど、急に億劫になってしまって、タクシーを止めてしまったんですの。」

笑う様子は自嘲しているようでもなく、穏やかに恥ずかしそうに口元を手にあてた。

しわしわの婆さんにおかしな話かもしれないけれど、その姿というか、しぐさが私には美しく見えた。










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題名 後でいいですか? 我是空子 @--y--

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