エピローグ(2)

 彼は、黒雲が闇の国々を覆うと、偽ガブリエルが出現した教会に行き、ガブリエルと主の名のもとに、牧師や信者たちに指示を出しておいた。主の荒布が出現すると、彼が公園にいるという情報をクリュウに与えた。スカイツリーをロンギヌスの槍の柄にし、公園の時計塔を穂先にするなどという馬鹿げたプランを物理学者が鵜呑みにしたことは意外だった。


 実際はクリュウのそばにいたのだが、アマテラスと別行動をとるため、異なる場所でイメージトレーニングをするという口実だ。時計塔型の穂先などなくても、スカイツリーだけでロンギヌスの槍は完成できるというのに。やはり、死んで間もない頃は思考が鈍くなるという噂は本当のようだ。


 クリュウが避難した体育館に信者たちを赴かせ、演説を聞いた彼女が公園に行くようにし向ける。ガブリエルは宇宙人のため地球の生物を滅ぼすという情報を持って、彼女は公園に向かうはずだ。もし、避難所から出ない場合は、副牧師が殺害する予定だった。


 彼は、避難所を出て公園に向かうクリュウを追跡した。徒歩で公園に向かうには、必ずあの橋を通る。橋が近づくと、橋の途中に待機していた信者の女性に合図を出す。大柄で太った女性を選んだのは、支える側のクリュウに負担がかかるからだ。女性がいたのは、立ち往生して乗り捨てられた軽自動車だ。

 荷台に石油ストーブと毛布を持ち込み、そこで女性に暖をとってもらう。彼が合図の光を送ると、女性は上着を脱いで車から出て、歩道に入り、ガードレールに背をもたせかけるように座った。


 もしこのときクリュウが女性を見捨てて素通りしたり、公園に着くまでに凍死しなかった場合は、公園の少し手前で車上荒らしの振りをしていた、小木牧師によって殺害される手はずだった。

 経験なクリスチャンである小木は、十戒を根拠に殺害を断ってきたが、クリュウの死はイエスと同じように人類の罪を背負う尊いことだと説得して納得させた。しかし、幸運なことに小木の出番はなかった。

 クリュウは睡眠不足と食欲不振、過度のストレスなどから相当衰弱していた。そこへ極寒のなか数キロを歩かねばならぬのだ。女性と会ってからは自らの上着を差し出し、その女性が何度も倒れるなどして、わざと長時間、寒さにさらした。クリュウが女性と出あってから、風が強くなったのは彼が吹かせたからだ。


 あの状況で、車道の端を大勢の人が通るのはおかしい。雪が踏みつぶされずに残っていて、車をガードレールに寄せる場合もあり、順調に歩きにくい。すぐ隣に広い歩道があるのに、わざわざそんなところを歩くのはよほどの変わり者に違いない。それなのに大勢の人が歩いた形跡があるのにはわけがある。

 クリュウが体育館に避難したことを見届けた彼は、説教のため亀戸公園の施設にいた信者たちのもとを訪れ、クリュウのところへ向かうように指示した。施設を出たときには雪がやんでいたので、足跡の問題が生じた。橋は街灯に照らされ明るい。女性が車に出入りするとき必ず足跡を残す。

 ミステリファンのクリュウがその足跡に気づき、女性を怪しむ可能性がある。女性の足跡を目立たなくするには、たくさん人が通ることで女性の足跡をわかりにくくすればよい。そこで、亀戸の避難所で説教をすませた信者たちは、クリュウのいる体育館に向かう際に、橋の車道を通ったのだ。そのとき、荷台の空いている軽自動車を選び、窓を割り、毛布とストーブを入れ、女性をそこで待機させた。


 クリュウが倒れてからも、女性は演技を続けた。死んですぐ態度が変われば怪しまれるので、すぐにその場を去らず、しばらくクリュウのそばで悲しむように指示しておいた。そのくせ、クリュウの体調が悪くなってもカイロひとつ返さず、クリュウが倒れたときも起こそうとしないなど、冷静に考えれば明らかにおかしい。

 だが、あの涙は本物だった。誰だって、自分を救おうとした人間が死ねば悲しいはずだ。女性が休憩をとった自動車も問題だ。直前までストーブを点けていたので、リアガラスとサイドウィンドウの霜や氷が溶け、荷台のストーブと毛布が丸見えになっていた。


 あのとき他に通行人がいなかったのは、偶然ではない。クリュウのすぐ後ろを信者のひとりが尾行し、橋の入り口までくると、危険を警告する看板を立てておいた。反対側も小木が同じことをした。それでも通る者が出たときは、彼の魔術で姿を見えなくすることだってできる。


 クリュウは、車上荒らしの芝居をしている小木を脅かした。あのとき小木はレンチだけを手にもって、霜と雪で中のよく見えない車の中を外からのぞき込んでいる振りをしていた。車上荒らしが実際に起きていたのは、避難が本格化する前のことだ。ほとんどの民家や商店が留守で、空き巣にとっては天国というのに、極寒の中でそんな馬鹿なまねをする者がどこにいる。

 小木が登場する映像は世界中で報道された。クリュウは小木の声を知っているはずだ。それで、小木には前もって、何があっても声を出すなと命じていた。その点では合格だったが、声をかけられたとき、周りを見回さなかったのは、あらかじめ事情を知っているようで不自然だった。


 公園についたクリュウの魂は、時計塔から穂先が打ち上がるのを見たが、あれは彼女のすぐ後ろにいた彼が遠方に投影した幻だった。その後、クリュウは女性を施設に見送り、その隙に彼は時計塔の下に行った。クリュウが死んだことを知った彼は、驚いた振りをした。その後、宇宙人説を聞かされたが、もともと自分が考えたことなので、反応が鈍くなってしまった。


 婉曲的に宇宙行きに誘う予定が、彼女のほうから言い出してくれた。地球に戻れないかもしれないというのは嘘だった。ただし、知識のない初心者なら、戻れないかもしれない。ガブリエルによると、ものを強く押し出すイメージがあれば、かなりのスピードで移動でき、地球に戻りたければ重力のイメージを利用すればいいとのこと。アマテラスには、まだ行ったことがないので戻れる保証はないが、行くことができるなら、おそらく大丈夫だろうと説明しておいた。


 ロンギヌスの槍に彼女は必要なかった。彼女の描くイメージでは役に立たない。それでもおだてあげ、一緒にうち上がるようにした。槍は実際に使われたものとは似ても似つかないが、ロンギヌスの槍自体がフェイクなのでそんなことはどうでもいい。太陽を隠す荒布を破壊するのが目的ではなく、クリュウを宇宙に送り出すことが狙いなのだから。


 巨大な荒布にくらべ、一粒の埃ほどの小さな槍。それでも打ち合わせ通り、ガブリエルは見事に粉砕してくれた。接触のタイミングがわかるよう中央を狙うと決めてあったので、ガブリエルは付近に待機していた。それでも槍に気づくのが遅れ、若干のタイムラグが生じた。なにしろ高速での移動中は槍のイメージを思い描くことが難しく、衝突の瞬間に再び描き出したのだ。

 途中、ほとんど槍は消えていたのだから、ガブリエルが注意していてもわかりづらいだろう。穂先の中にいたはずのクリュウは、宇宙や地球の光景がそのまま見えていることに違和感を覚えなかったのだろうか。


 仏教寺院の上空に、ミカエルを描いたのは彼だった。宇宙空間にいるガブリエルでは、地上に細かいイメージを描くのは無理だ。それで紀元前二世紀に行う予定だったイベントを弟子の彼が見事成功させた。


クリュウとガブリエルの会話が終わり、荒布がレンズに変わると、彼は人の姿をとり、クリュウの前に出た。おそらく彼女はガブリエルの人間だった頃の姿と思っているだろうが、あれは生前の彼自身だった。彼は天国を描くことにもチャレンジした。アズラエルなら騙せるほどの完成度だが、彼女は幻想だと知っているはずだ。それから、彼はクリュウに永遠の別れを告げた。地球が救われたことを知った彼女は、自分が地球から遠ざかる方向に押し出されたことなど気にとめていないだろう。


 クリュウは今、太陽系の中を漂っているはずだ。彼女は東洋の教え通り、輪廻転生するのだろうか。それとも天国で永遠に暮らすのだろうか。人のことにかまってばかりいられない。彼自身もやがては輪廻の輪に加わることになるかもしれない。クリュウによると、幽霊は肉体が死んだにもかかわらず、この世への執念により、意識の上で死を認めておらず、彷徨っている状態だという。

 通常は、自分が死んだことを自覚して、また新しい肉体に生まれかわるらしい。リーインカーネーションという東洋思想だ。昔、モンゴル軍の兵士たちの会話からこの思想を知ったときの衝撃は今も忘れられない。彼はインドに行き、東洋思想を学んだ。


 天使といえども、死を受け入れたとき、また生まれ変わってしまう。その場合、カルマの法則により、天使時代の罪を精算しなくてはいけない。人に生まれ変わるとは限らない。無数にあるどこかの宇宙の想像もできないような生物となる可能性もある。天使長エノクや一緒に去った二人の天使、それにミカエルもどこを探しても見つからない。集団を離れ、目的を失ったことで、また生まれ変わりの連鎖の中に戻ったのかもしれない。


 その考えからすると、下手に目的を達成するより、現状維持のほうがよく思える。今のペースでは後二百年もすると、彼の目標が達成され、天使としての彼は終わる。アズラエルのように、カトリックの世を作るという実現不可能な目標のほうがすばらしいのだ。そう考えれば、ガブリエルの出現も悪くない。彼の目指す世界の実現が遠のくからだ。

 だが、どんなに先延ばししても天使にも終わりのときがやってくる。人類自体が数十万年もしないうちに滅びる。宇宙も数兆年で燃え尽き消滅する。そんな先のことはさておき、今回の事態を利用して、新しい国際協力の枠組みを模索することにしよう。



 アズラエルのいた聖堂でも、ステンドグラスが陽光を受けて輝き、信者たちが最高の奇跡が起きたと歓喜の声をあげていた。よく考えてみれば以前の状態に戻っただけで、十字架が輝いたほうが遥かに凄い奇跡なのだが、人は現金なもので、自分に都合のいいほうが、奇跡のレベルは高いのだ。アズラエルは、何が起きたのか確かめようと、壁をすりぬけ教会の庭に出た。

 空には日が昇っていた。彼は、天の国でイエスが人類のために天の父を説得したのだろうと推測した。彼はじっと天空を見つめた。数秒後、巨大なオーロラが出現した。それは、ファティマの天使アズラエルによる人類への祝福だった。



 氷が溶け終わると、大天使ガブリエルは地上に降り立った。場所はサン・ピエトロ広場。使徒ペテロに名が由来するカトリックの総本山の前だ。もし、救世主計画が順調に進んでいれば、弟子のペテロではなく、イエスの名を冠し、イエスを初代教皇とする寺院となる予定だった。そして、ここを中心に、全世界そのものである神の国永遠のローマは、平和と繁栄をとこしえに享受する理想郷となったはずだった。


 ガブリエルは姿を消してはいたが、全長五百メートルの大巨人となり、落日に照らされるローマの街並みを一望した。神の国の中心地となる予定だった古都は壮麗ではあるが、ガラス張りの現代建築物が少なく、時代から取り残された感がある。観光で栄えてはいるものの、まるで街そのものが古代の遺物のようだ。それ以上に古くからの存在である天使たちは、すでに役割を終え、ひっそりと消えていくのを待つばかりだ。


 だが、頭上に輪を浮かべ翼を広げた天使という偶像は、聖書とクルアーンから飛び出し、今や広告やフィクション、ポピュラーソングなどあらゆるジャンルで大活躍している。人類が神を信じることをやめ、イエスのことが忘れ去られても、天使というキャラクターは延々と生き延びていくに違いない。偶像崇拝を禁じた天使たちが蒔いた種は、彼ら自身の偶像という実を結び、地の果てまで広がったのだ。

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