エピローグ(1) 

 大天使ラファエルは、インド洋の上を飛んでいた。セイロン島沖に着地したので、これからヨーロッパに戻るのだ。レンズを通した太陽光のおかげで、海は暖まり、サイクロンの多発が懸念される。 


 彼には様々な顔がある。トビトの息子トビアが旅をしたときの道案内。会堂で説教をしたイエス。イエスの墓に現れた二人の天使のうちのひとり。そのすぐ後で、マグダラのマリアの前に現われた偽イエス。福音書記者ヨハネ。薔薇十字団創立者クリスチャン・ローゼンクロイツ。サン・ジェルマン伯爵。ナポレオンを操った赤い服の男。ジョージ・ワシントンやヒットラーにも人知れず接触し、最近ではグレイ型の宇宙人として、NASAの科学者たちを欺いていた。


 現代的で洗練された形の預言にも挑戦した。「タイムマシン」の著者H・G・ウェルズに今後の世界情勢の事前予定を教え、SF作家は小説として発表した。その最終目標は世界政府の樹立だった。ウェルズはレーニン、スターリン、ルーズベルトと会談し、主権国家廃絶に向け、国際連盟を提案した。


 彼は六番目の天使で、出エジプトのため増員された二名のうちのひとりだった。三番目の天使ガブリエルが身につけた魔術を、アズラエルとともに習った。十年ほどの特訓で、炎や蛇程度なら本物と見分けがつかない幻を描き出せるようになった。

 ガブリエルの魔術は別次元だった。幻の海が二つに割れるのを目の前にしたとき、彼は永久にガブリエルにだけはかなわないと自覚した。それでも、彼の業績は師のそれを上回る。革命、戦争、資本主義、共産主義、国際連合……。近代史は彼が動かしてきた。作った国の数だけでも二十はくだらない。


 ガブリエルが、洗礼者ヨハネを彼に、インマヌエルをアズラエルに委ねたのは大失敗だった。ザカリアの息子ヨハネは高潔な哲学者に成長したが、同じザカリヤの子供でも、インマヌエルはアズラエルと同じように愚鈍で、自分を本当の神の子だと勘違いし、手がつけられない悪童となった。

 アズラエルは悪魔的で高慢なインマヌエルの命じるまま、悪戯としか思えない奇跡を行った。成長すれば多少はましになると思っていたが、余計にひどくなった。


 人々の恨みを買ったインマヌエルが、アズラエルが目を離した隙に殺害されたのは幸いだった。ダビデの町ベツレヘムは神の子の悪評で満ち、代わりの救世主は他の場所で探すことになった。三人の天使は預言の地カファルナウムに行き、道案内を頼もうとたまたま声をかけた相手が、出稼ぎに来ていたイエスだった。

 イエスは家具の修理を生業としていたが、生活が苦しいので、近くの町で日雇いの仕事をすることが多かった。ガブリエルは彼の機知に富んだ性格をいたく気に入り、そのままヨハネのところまで連れ出した。


 イエスは文盲のうえ訛りもあり、事情もわからずに救世主となったが、人前での説教は彼が行ったので問題なかった。仮庵祭や神殿奉献記念祭に出かけたのも彼で、イエスの姿をとりエルサレム神殿で説教した。


 イスカリオテのユダがイエスを敵に売り渡す際、偽物を渡されないよう、自分たちが直接捕まえると相手に言われた。仕方なくイエスを渡し、替え玉にイエスの代わりをさせた。替え玉はインマヌエル用にエルサレムで用意した人物で、イエスとは似ても似つかなかった。

 エルサレム育ちの替え玉は、ガリラヤ人の弟子達に囲まれ、自分がイエスだと嘘を押し通すことにかなり苦痛を感じていた。たしかに彼が見ているだけでも、何度も馬脚を現しそうになっていた。それでノイローゼ状態になり、一月あまりで逃亡した。


 ローマ時代、公会議に出席した折、彼が活躍するトビト記を正典にしようと働きかけたが、ガブリエルは宗教的な意義がないといって、良い顔をしなかった。彼に言わせると、ガブリエルの美しき想い出「ルツ記」のほうが単なるソープオペラにすぎなかった。その後、ガブリエルと袂を分かつことができたので、トビト記は第二正典に落ち着いた。


 七世紀の初め、ローマ教会のあり方をめぐり、ガブリエルとアズラエルが対立した。ガブリエルが去ると、彼は自分の意志で自由に活動できるようになった。それでもしばらくは、ガブリエルのイスラムを警戒し、活動を控えていた。


 十三世紀には、モンゴル軍の侵攻でキリスト教世界が危うく終わりそうになった。当時の彼は、ガブリエルのように、戦闘中に大人数の敵兵を描くことはできなかった。そこでワールシュタットの敗戦の直後、モンゴルに向かい、イスラム教徒だった財務官僚アブドゥッラフマーンをそそのかして、酒を控えていた大ハーンに大量の葡萄酒を飲ませ殺害した。ハーンの死により、ウィーンにまで迫っていた騎馬軍団は、故郷に引き返していった。

 十四世紀に台頭著しいオスマン帝国に潜入し、ガブリエルがいないと判断して以降、彼は世界の覇者へと駆け上っていった。


 彼の武器は、宗教ではなく、資本と組織だった。まもなく、巨大資本のもと世界は統一される。複数の公的な組織と、それを陰から操る秘密結社を通して、彼が世界を完全に支配する。彼こそが主ヤハウェとなり、世界の王となるのだ。


 だが、突如、その野望に障害がたちふさがった。千四百年ぶりに、ガブリエルが出現したのだ。驚いた彼は日本に行き、部下とともに調査を行った。そのとき、一冊の書物を目にした。その内容は彼の知らないことまで含まれており、作者クリュウを味方につけることが、今後の戦略上役に立つと判断した。


 再臨劇は打ち合わせ通り、彼がアマテラス演じるイエスをサポートする天使として登場する予定だった。ところが、公園の隣のマンション屋上にいたとき、周囲が不気味な空間に変わった。そこにガブリエルがいた。再臨劇は乗っ取られた。


 その者の目を見えなくするようにと、かつての上司に指示され、彼はアマテラスの目をふさいだ。それからガブリエルの計画を聞かされた。それは、人類にヤハウェに対する信仰を捨てさせるため、この世を一時的に闇に変えるというものだ。


 自らがヤハウェになろうとしていた彼には受け入れがたい。だが、ガブリエルに背いても勝ち目はない。それなら、できるだけガブリエルに協力し、彼が世俗の権力を掌握することを認めてもらうほうがいい。宗教以外の分野に関心の低いガブリエルなら、政治経済にはあまり口出ししないだろう。

 今の彼も、ちょっとした海くらいは割ってみせることができる。魔術のスキルはガブリエルに追いついたと自負していた。しかし、師の御技ははるか先をいっていた。惑星サイズの幻を出現させるまでに進化した、かつてのボスほど心強い味方はない。


 災いは最初から荒布でいく予定だった。単純な円盤は長期間イメージしやすい。それでは急激に冷えすぎ、人類は考える余裕もなく効果が薄いと彼が指摘し、年内の数日間は国別に黒雲を出現させることに変わった。ガブリエルは宇宙空間にいる必要があるので、改宗の情報は、彼が地上から光の文字でガブリエルに送ることになった。


 ガブリエルにクリュウのことを話すと、その危険性を指摘された。たしかに、心強い味方というのは、敵に回せば脅威そのものだ。すでにガブリエルとの協調路線が決まった。クリュウの存在は邪魔だ。彼女は知りすぎている。今後の計画も見抜かれる恐れが高い。


 単に殺すだけではだめだ。彼女にはアマテラスという幽霊の仲間もいる。彼女が死ねば却って行動力が高まり、第二の天使集団を作る可能性がある。彼女には地球から出ていってもらうほかはない。そうすれば、アマテラスを彼の仲間に引き入れることができる。アマテラスの魔術の才能は驚くほどだった。アズラエルのように単細胞だが、宗教に対するこだわりがない俗物で、とても扱いやすい。本名の田崎からとったタザキエルを名乗らせ、彼の右腕となって活躍してもらおう。


 荒布を破壊するという名目で、彼女を宇宙空間に引きずり出す。彼はクリュウを地球から追放する計画を考え、ガブリエルの協力をとりつけることに成功した。

 再臨の異変を知ると、クリュウは彼とアマテラスを探しにきた。ネットなどで噂が広まるように、わざと見つかるようにしたからだ。アマテラスは本当に目が見えなかったが、彼は目が見えない振りをしただけだ。アマテラスの目をふさぐため、彼は常にそばにいる必要があった。

 この条件はガブリエルとて同じだ。二人が離れれば、二人の目を同時にふさぐことはできなくなる。だから、クリュウはガブリエルが二人の目を同時に数日間も塞ぐことが不可能で、それ故彼の目が見えることに気づいてしかるべきだった。第一、ガブリエルが二人の目を塞ぎ続ける理由がない。必要なのは再臨のときだけだ。


 それに、あのとき彼は三人の会話を偶然聞いて尾けていたと答えたが、目の見えない状況で知人の声を聞いたのに、その場で声をかけずに、しばらく声のするほうに付いていくなんてことをするはずがない。視覚と違い聴覚では、移動する相手を見失いやすく、会話が途絶えたりしたら大変なので、すぐにでも自分から声をかけるはずだ。


 目が見えない振りをしたのには、当然理由がある。彼とガブリエルが協力していることを、クリュウに悟られないためだ。

 アマテラスが見つかったのも偶然ではない。二人が自分達を探しに来たことに気づいた彼は、アマテラスの番をガブリエルに替わってもらい、警官に化けて焼き肉屋にクリュウたちをおびき寄せ、ガブリエルは風を使い肉の臭いでアマテラスを誘導したのだ。公園でガブリエルも同じ警官に化けたつもりだが、制服がおかしく少し顔が違っていたので、さきほどの警官だとはクリュウは思わなかっただろう。


 あの公園で彼は大失敗をした。クリュウは気づかなかったようだが、今から考えると冷や汗が出る。彼の証言によると、焼き肉屋で警官に職務質問され、その場から空に上がって移動し、公園に降り、初めて聞いた声がクリュウ達ということになっている。警官はアイマスクが天井に吸い込まれたと無線通話をしているから、彼が空に上がった後にアイマスクが蝶に変わったことになる。

 クリュウ達が蝶という言葉を出す前に、彼は「目から蝶々です」とジョークを言ったが、目か見えないのに、自分の目を塞いでいる幻が蝶だと知り得るはずがない。それが何故わかったかというと、彼自信が描いたものだからだ。


 ロンギヌスの槍大作戦は、別名クリュウ昇天作戦という。それがベストのシナリオで実現できたことは驚きだ。それは、彼女が自分が謀殺されたことに気づかず、自分の意志で地球を離れ、自然のなりゆきで宇宙空間を放浪する結果になるというものだ。 

 冷静に考えれば、小さなイメージの槍で巨大な荒布を破壊できるはずもなく、たとえ一時的に荒布を粉砕したとしても、また描けばいいのだから、作戦自体が論理的に破綻していることがわかる。そんなリスクが大きく、効果ゼロなやり方より、巨大な文字の幻を宇宙に向けて送るなど、他にガブリエルにメッセージを届ける方法があるはずだ。そうしないのは、その必要がないからだ。

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