マグカップの私
熊野 豪太郎
マグカップの私
「マグカップ」というものを知っているだろうか。陶器でできた取っ手がついたコップ。家にひとつはあるようなものだ。
しかし、マグという言葉自体が「カップ」という意味であるので、マグカップという言葉自体が二重の意味になってしまっているそうだ。
私は大学生。今年、割と名の知れている大学に入ってから、もう二ヶ月が経つ。でも私は、小さい頃から人と会話をするのが、どうにも苦手だった。だから、初対面の人と楽しくおしゃべり。なんてことは、とてもできなくて、まだ大学に「友達」といえるような人間はいなかった。そのせいか、毎日の講義が憂鬱になってしまい、まだ始まったばかりのこの新生活に、早くも嫌気がさしていた。
大学の講義が終わって帰ってくると、必ず私は自分専用のマグカップに、牛乳を注いで、電子レンジで温める。
牛乳自体はそこまで好きではないが、温めた後に、手でマグカップを覆うと、温もりが手に伝わってきて、気持ちがいい。
人の温もりを感じられていないから、かもしれない。
リビングの椅子に腰を下ろすと、私はカップを包み込むように持って、俯いた。マグカップは、円を描いた私の手にすっぽりとはまって、よく馴染む。そして、湯気を立てている牛乳を眺めながら、私は今日一日を振り返る。振り返るといっても、何か楽しい事があったわけではないのだけれど。
今日も、人と会話もろくにせずに帰ってきてしまった。なんで私は会話が苦手なのだろう。いつも考える。面白いフレーズや、上手い相槌、笑顔が、会話をしようとする私にはない。だから、話す事に臆病になってしまって、何か話しかけられても、下手な愛想笑いしかできない。もしかしたら、このまま友達ができないまま過ごしてしまう事もあるかもしれない。
だけど、それを考えた時「それでもいい。」と、私のなかで声が聞こえた。人と関わったら、傷つく事もあるかもしれない。だから、このままでいい。私の中の小さな私が、そう主張していた。しかし、その主張に被せるように大声で、もう一人の小さな私が「どこかで話せるようになろうよ。」と言い出す。そして小さな私たちは、ガミガミいがみあい始めた。
このままを望む自分と、望まない自分。マグカップの意味が二重になって共存するように、私の体も二重になって、別れてしまった。
気づくと、湯気を立てていた牛乳は、すっかり冷めてしまっていた。私は牛乳を飲み干すと、マグカップをキッチンに置きっぱなしにしたまま、自分の部屋に戻って、ベッドに倒れこみ、そのまま寝てしまった。
マグカップは、真っ暗になったリビングのテーブルで、寂しそうに突っ立っていた。
翌日、目がさめると、講義の一限目に間に合うかどうかのギリギリな時間を時計はさしていた。私は飛び起きると、猛スピードで身支度を始めた。遅れてしまって、みんなの後か教室に入っていって、目立つのは嫌だと思った。
準備を終え、今年の誕生日に買ってもらったヒールを履いて、外に飛び出る。出て数分走ってしまってから、今日はスニーカーを履けばよかった。と後悔をする。だけど今は遅刻するかしないかの瀬戸際。戻るなんてことはできない。
やがて駅に着くと、電車はまもなく着いてしまうところだった。私の足はさらにせわしなく動く。これを逃したら遅刻してしまう。
ホームに電車が着く音がする。私は更に足の回転を早める。だけど、乗り込もうとした二歩手前で、私は蹴つまずいた。あまり慣れていないヒールを履いてきたせいだった。やっぱり走りやすいスニーカーを履いてくるべきだった。擦りむいた膝小僧の痛みを感じながら、私はさっきより大きく後悔する。朝の通勤ラッシュの人混みの中、私の周りだけ人が避けて歩いて、丸い円を作った。
私は急いで立ち上がるが、電車はそのまま行ってしまった。
がたんごとん、がたんごとん・・・。だんだん音は遠くなって、やがて見えなくなってしまった。
「はあ。」一つため息をついて、次の電車を確認する。十分後に到着予定。間に合わない。と、がっくり肩を落とす。でも、このままを望む私が、小さく喜んでいるのがわかった。今日は休んでしまえばいい。そう言ってくる。だけど、一回休んでしまったら、ずるずるとそのまま大学に行かなくなってしまいそうで怖かった。それが「このままを望まない私。」この二人が自分の中でせめぎあって、だんだん離れていく。その時だった。
「奇遇だね。」と誰かが声をかけてきた。振り返ると、一限で同じ授業を受けている女性だった。講義を受けている誰よりも背が高くて、とびきりの美人だったので、よく覚えている。彼女もまた、さっきの電車に乗り遅れたのだろうか。
「寝坊しちゃって。あなたもあたしと同じ講義でしょう?いつも一番後ろで授業受けてる。」おしゃべりな人だ。
「はい。転んじゃいました。ヒールに慣れなくて。」自分でも驚く。喋るのが苦手なはずの私の口から、すうっと言葉が飛び出たのだ。このままを望む私と望まない私が、ケンカをやめて、私をしげしげと見物し始めた。
「わたしも、三日で履くのやめちゃったわ。スニーカーが楽でいいわよ。」彼女は、楽しそうに笑いながら言った。
その後は、彼女と色々な話をしながら、ゆっくり大学へ向かった。そして一緒に教授に怒られて、一緒に授業を受けた。
私にはお気に入りのマグカップがある。そう話すと、私も欲しいと言い出して、講義の後に私のマグカップを選んでくれないかと提案された。私は嬉しくって。うんと頷いた。気づくと、二つに別れていた私は、一つになっていた。
「マグカップ」というものを知っているだろうか。陶器でできた取っ手がついたコップ。家にひとつはあるようなものだ。
しかし、マグという言葉自体が「カップ」という意味であるので、マグカップという言葉自体が二重の意味になってしまっているそうだ。
でも、私はそれでいいと思った。二つは、同じ意味で、被っている。それでいいのだ。マグカップに牛乳を注ぎながら、そう思った。
電子レンジで温めた牛乳が入ったマグカップの温もりを感じながら、私は「ありがとう。」と呟いた。マグカップは、私の喋った息に合わせて、波紋を作った。
マグカップの私 熊野 豪太郎 @kumakuma914
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