第8話

「自分でも、馬鹿みたいだなぁって思う」

 兄が黙り込んでしまったのをいいことに、わたしは自分でも妙なほど流暢に話し続ける。

「彼にとっては、些細なことだっただろうに。ずっと覚えているのは、わたしだけなのに。わたしだけが、先に進めないままで。暗い気持ちを押さえもしないで……あーあ、ホント子供みたい。翔馬兄さんには悪いことしちゃったな」

「俺が、なんて?」

 突然聞こえた、兄ではない声に、わたしは次の言葉を紡ごうとしていた口を慌てて閉じる。

 振り返ると、わたしが凭れていた柱の影から、ひょこり、と翔馬兄さんが姿を現した。さっきまで着ていたタキシードはとっくに脱いでいて、何とも言えない色をした柄物のシャツと、黒いハーフパンツを履いている。何故崩していないのかは分からないが、髪形はそのままだ。

「ねー凛、俺がなんて?」

「な、何でもないっ」

 ふわふわの髪を揺らしながら、翔馬兄さんがわたしの顔を覗き込んでくる。わたしは逃げるようにして、顔を逸らした。

「ちぇっ。じゃあいいよ、悟に聞くから」

 わたしの態度に、ぶー、と唇を突きだして拗ねる翔馬兄さんは、本当にわたしより十歳近くも年上なのだろうか。っていうか、本当にさっき結婚式を挙げた人と同一人物なんだろうか。

「悟、凛は何話してたの?」

 今度はわたしの隣にいた兄に話しかけている。うつむいて黙っていた兄は顔を上げ、にっこりと笑った。

「秘密」

「えー!」

「僕と凛だけの内緒話だよ、ね?」

「そ、そう。そうよ」

 助け舟を出してくれたらしい兄に合わせて、わたしは内心助かったと思いながら何度もうなずく。翔馬兄さんはますます拗ねたように、「何だよー、二人だけずるいよ」と唇を尖らせた。

「それより翔馬くん、今日はホテルに泊まるの?」

 それまでの話を逸らすように……というか半ば流れをぶった切るように、兄が翔馬兄さんに話しかける。翔馬兄さんはまだ不満そうに口をもごもごさせていたけど、とりあえず根はいい人だから(なのかな?)、兄の質問に対してちゃんと律儀に答えてくれていた。

「ん? こっから近いから、佐都とアパートに帰るよ」

「これからまっすぐ?」

「うん、まぁ一応まっすぐの予定」

「その前に、これからちょっと時間作れない? 久しぶりに軽く飲もうよ。さっき『また飲もうな』って言ってくれたんだし、いいでしょ。せっかくのお祝いなんだから、個別でもさせてよ。式じゃあんまり話せなかったもんね」

「お、いいねぇ。……とは言っても明日から新婚旅行だから、あんまり深酒はできないけど」

「ちょっと付き合ってくれるだけでいいから。ねぇ、凛も一緒に」

 気持ち悪いくらいニヤニヤしながら二人で話していたと思ったら、いきなりこっちに顔を向けられ、わたしは「え、」と小さく固まる。

「これから、翔馬くんと飲みに行こうって」

 ね? と微笑まれ、わたしはちょっと考える。

 ……でも、たまにはいいか。これを機に、翔馬兄さんのことを吹っ切れるかもしれないし、兄もそれを意図して言ってくれてるのかもしれないし。

 了承の意味でうなずいた後、わたしはふと思いついて、こんな提案をしてみた。

「じゃあ、茉希姉さんも誘おうよ」

「「いいねぇ」」

 二人がいい笑顔で同時にうなずいたところで、当の茉希姉さんがテラスにやって来る。「三人で集まって、何やってんの?」と首を傾げる彼女に、男二人はわらわらと寄って行った。絵面だけだと、二人ともまるで下手くそなナンパ師みたいだ。

「ちょうどよかったよ、茉希」

「あのね、今日これから四人で飲もうって話になったんだ」

「え? だって、みんなでこれからホテル行くんじゃないの」

「飲んだ後に、俺がホテルまで案内するよ。父さんたちにはあとで電話しとくから」

「ふぅん、まぁいいけど。もちろん兄貴の奢りでしょ?」

「当然!」

「おぉっ、翔馬くん太っ腹だねぇ」

 どうやら交渉成立のようだ。

 既にしこたま飲んだ後のようなテンションで――実際は、披露宴内でちょっと嗜んだ程度なのだが――肩を組み合う兄と翔馬兄さんが、テラスを出てそのまま大通りへ出ていく。残されたわたしと茉希姉さんは、顔を見合わせて笑い合った。

「まったく、しょうがないんだから。ねぇ、凛」

「そうだね、茉希姉さん」

 私たちも行こうか、と茉希姉さんに腕を引かれたわたしは、どこでスイッチが入ったのか知らないが、すっかりおかしなテンションになってしまっているおっさん二人――もとい、男二人の後を追った。

 さっきまでひたすら重苦しいだけだったはずの気持ちは、今となっては不思議とすっかり晴れていた。


 わたしの翔馬兄さんに対する感情が、色あせたわけではない。今の翔馬兄さんに対して、幻滅した訳でもない。

 わたしは多分、きっと今でも……まぁ、これからも当分の間はきっと、翔馬兄さんを好きなままでいるだろう。

 でも、もう辛いとは思わない。無駄だとは、思わない。

 墓場まで持っていくはずだった、このどろどろした薄暗く甘い感情を、包み隠さず全部外へ出してしまったからだろうか。それとも、久しぶりに翔馬兄さんの顔を見て、打ち解けて話ができて、満足したからなんだろうか。

 今は不思議と、すっきりしている。

 今ならきっと、過去を認めてあげられるような気がする。少しくらいは、前に進めるような気がする。


 今度こそ、さっきからずっと言いそびれていた言葉を、翔馬兄さんに言ってあげなければいけない。多分、言えると思う。

 『結婚おめでとう』って、笑顔で。

 『幸せになってね』って、心から。


「兄貴、悟、待ちなさいよ!」

「二人とも、みっともない真似やめてよね!」


 ――でも、それはまた後で本人にちゃんと言うとして。

 佐都さんには悪いけど、今夜だけは翔馬兄さんをお借りします。どうせ佐都さんは、明日から翔馬兄さんとずっと一緒なんだもん。

 だから、今日くらいは甘えてもいいよね?

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青いブーケ @shion1327

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