朝の願掛け

阪木洋一

朝の願掛け


 のどかな空気の流れる朝の通学時間。

 人がまばらに行き交う校庭を、明坂春奈あかさかはるなはよたよたとした足取りで歩いていた。

 吊り目の大人びた顔立ちも、今朝はどうにも締まりがない。

 トレードマークのサイドポニーもしなだれて見えるし、制服の着こなしも最低限の整いようだ。

「ふぁ……あー、眠い。全く……」

 それもそのはず、昨日はどうにも寝つきが悪かった。

 抜け切らない疲労と、眠気をわずかばかり抱えたままの朝。

 瞼は重いし、頭がフラフラする。

 全体を司る頭脳がそんな調子であるものだから、五体の反応も今一つだ。

 今日は苦手な数学の小テストがあるというのに、果たして、こんな集中力で乗り切れるものだろうか……。

「ハルちゃーん」

 と、後ろから聴き慣れた声がやってくる。

 振り返ると、その慣れた声の通りに、見慣れた制服姿がこちらに走ってきて――今、自分の隣に追いついた。

 春奈よりも十センチ以上は低いであろう小柄な体躯、ほんわかとした雰囲気、子供っぽい顔立ちと大きな瞳、セミロングの髪を外ハネにしているのが特徴的だ。

 高校生活が始まってからは一番の友達とも言える少女、七末沙雪ななすえさゆきである。

「おっはよー、ハルちゃん」

「あー、沙雪、おはよ……」

「あらら、ハルちゃんってば、今日はテンション低いねー」

「わかる? ッてーか、普通にわかるわよね、これ……」

 少しきょとんとする顔をする沙雪に、春奈は苦笑で返す。

 さすがに調子が悪いとはいえ、友人に心配までされるのはどうかと思う。

 身体に活を入れる、とまで元気を出せるわけでもないが、それでも空元気くらいは振舞っておいた方が良いかもしれない。空元気を出しているうちに、本当に元気になれてくるかもしれないし。

「いやまあ、だいじょーぶよ沙雪。時間を置けば、きちんと元に戻るわ」

「んー」

 と、少し思案顔をする沙雪。

 心配をしている、というわけでもないが、何かを考えている顔だ。

 ……まさか、また何か妄想でもしているのだろうか。

 この娘は変な方向にスイッチが入るとすぐに暴走してしまう癖があるため、予め抑止しておこうかな、などと春奈が思い始めた先、

「えへへー」

 ほんわかと、沙雪は笑い始めた。

 正直、ものすごいかわいいと春奈は思い、それ以上に、一体何を考えているのだろうかという疑念も湧いた……のだが。

 その答えは、一秒も経たずにやってきた。


「えいっ」

 いきなり、沙雪が横から抱きついてきたのだ。


「わわ、ちょ、沙雪?」

 もちろん、春奈は大いに慌てた。

 沙雪は小柄であるだけに体重が軽いため、いきなり抱きつかれてもバランスを崩すということもなかったが、それでも困惑はするし歩きにくかったりもする。

「こら、沙雪、何すんのよ」

「いやー、ハルちゃん空元気出すのも良いけど、それで空回りされてもよくないと思ったからさ。ちょっと、わたしからぎゅーっと」

「…………」

 空元気、という点については見透かされていたようだった。

 この娘は時々、こういう人間観察が鋭かったりするから侮れない。まあ、以前それで大いに救われたこともあるのだが、それはともかく。

「空回りしないために、何故に抱きつかれてるのかな?」

「知ってる、ハルちゃん? こうやってぎゅーっとするとね、とっても落ち着いた気持ちになれるんだよー」

「落ち着いた気持ちって……」

「まあ、騙されたと思ってやってみなよ。ほら、わたしのことを、ぎゅーっと、ぎゅーっ」

「……むー」

 周囲の目とか大丈夫なのかしら、と春奈は思うのだが。

 横から抱きつかれているこの形は、友人同士がじゃれ付いているように周囲には見えるのか、さして興味を引いていないようだった。まあこういうスキンシップを図っている女友達同士は珍しくないとは言えないが、居るには居ることだし。……彼女達も、沙雪の言うような『落ち着き』を得るためにスキンシップをしているんだろうか、と思いつつ。

「ちょっとだけよ」

 長時間というわけにもいかないので、春奈はソレだけを言って、自分に抱きついている沙雪の肩を片手でぎゅっと抱き寄せて見せた。

 『わ』と沙雪は声を上げるが、すぐに『えへへ』と甘えるように自分の胸に頬を摺り寄せてくる。

 片手ながらも、沙雪の小さな身体から、その体温を存分に感じ取っていく。

 あ……。

 なんだか、安堵感みたいなものが春奈の中で生まれ始めた。

 なんだろう、これは……なんというか、すごく温かくて、すごく気持ち良いような……。

「ん~」

 見ると、沙雪もとても気持ち良さそうに目を細めている。

 心なしか、頬が桜色に染まっているように見えた。

 さっきも思ったけど……今この時に於いても、とても、可愛いと思える。

 その顔を見ているだけで、なんだか胸がドキドキする。このままだと、どうにかなってしまいそうだ。

 でも、求めてしまう。気持ちよさと、心地よさと、沙雪の体温とを。

 もっと強く抱き寄せてみれば、一体どうなってしまうだろうかと思い、腕に込める力を強くしようとしたところで、


「はい、しゅーーーりょーーーーっ!」


 バッと、沙雪がこちらから離れ、そのように宣言した。

 込めようとした力が空振りに終わり、春奈は肩透かしを食らった形になる。

 ……なんだろう、この空しさは。

「で、どうだった、ハルちゃん。何か結構夢中になってたっぽいけど」

 ニンマリ顔で問うてくる沙雪に、春奈は何故か少々バツが悪い心地になった。

 なんだか素直に肯定したくない気分だ。

「む……いや、夢中になってたなんて、そんなことないわよ。ただちょっと、気持ちいいなーとは思ったけど」

「それだけ?」

「……それだけよ」

「嘘だね」

 即答されてしまった。

 そんなことない、と春奈は否定しようとはしたが。

「だってさ、ハルちゃん、とてもドキドキしてたでしょ」

「なっ……」

 言い当てられて、春奈は真っ赤になった。

 あの時波打った鼓動は、さすがに、どうにも否定できるものでもない。事実である。

 この際、認めたほうが楽になるかもしれない。

「……そーね。沙雪のこと、ちょっと可愛いなんて思っちゃったりしたわよ」

「あはは、そーなんだ。わたしもそうだったよ」

「?」

「わたしも、すっごいドキドキしてた。ハルちゃんだったからかな」

「…………」

 心なしか赤い顔で沙雪に言われて、春奈はまたもボスンと真っ赤になり……その時に感じた鼓動を、胸の中で復活させることになった。

 あーもう、この娘ったら何考えているのよ……。

 感じていた疲労とか眠気とかは吹っ飛んだが、逆に落ち着かない気分になる。効果があったというか逆効果だったというか。

「まあ、このドキドキを分かち合ったからには、もう二人の愛はヒートアップだね!」

「……ヒートアップって」

 曖昧に受け答えつつも。

 少し、怪しい雲行きを春奈は感じ取る。

「抱き合うことから始めることでスキンシップに味を占めた若い二人は、行為をどんどんエスカレートさせていくのであった」

「……ちょっと待て」

 怪しい雲行きは慣れた感覚を取り戻させる。

「仕舞いには、ハルちゃんは通学路ながらも衆目からギリギリ見えない角度で、耳に息を吹きかけながらスカートの中に手を入れて『いい?』などと聴いてきて、わたしの頑丈なる理性は脆くも崩れ去って……あああっ、ハルちゃんってばなんてオープンにエロティック!?」

「落ち着けってゆーか、頑丈どころか全然緩々になってるわよあんたの理性!」

 そして、いつものように変なスイッチが入った沙雪に向かって、春奈はいつものようにツッコミを入れた。

 斜め四十五度、綺麗に手刀が沙雪の即頭部を捉える。

 無論、沙雪はその場で崩れ落ちた。

「……ハルちゃん、いたい」

「うるさい。まったくあんたって子は、あたしが動揺している隙に、お決まりの妄想を加速させて……」

「いやー、ここまで来たら、とりあえずお約束かなーって」

「お約束のわりには内容が過激だったわよ……」

 溜息を付きつつ、片手で頭を抱える春奈。

 もう、さっきまで胸の中で渦巻いていたドキドキは存在せず、ただ、この娘の妄想にはどうしたものかといつものように思うのだが。

 ……あれ?

 いつものように、と感じることで、春奈は何かを忘れたような気がした。

 なんだったっけ?

「ハルちゃん」

 名前を呼ばれ、ふと、振り返ってみると。

 沙雪は、痛む頭をさすりながらも、いつものようにほんわかと微笑んでいた。

 そして――こう言ったのだ。


「調子、戻った?」


「――――」

 そう。

 朝、寝起きが悪かった春奈は、どうにも調子が悪くて。

 沙雪の体温を感じることで、なんだかドキドキしてしまったことで、疲労や眠気を感じるどころではなくなって。

 感じたドキドキが、沙雪のスイッチによって台無しになってしまい。

 その過程を経て、今ここに居るのは――いつもと変わらない自分だった。

 本調子に戻った、明坂春奈だった。

 ……まさか、この娘は、全部それを計算してあんなことを?

 などと、春奈は思ったのだが。

 これまでの付き合いで、基本真っ直ぐな沙雪はそんな策士っぽいことができないとはわかっている。少々妄想が突出する癖があるが、それも真っ直ぐ故になせる業だ。

 ただ、そこまで計算してないとしても、総じて言えることは。


 七末沙雪は、ただ、自分を元気付けようとしてくれていた。


 たったの、それだけなのだ。

 それだけに。

「そーね、戻ったわよ」

 とても、嬉しかった。

「うん、よかったよ」

 そして。

 素直に喜び、微笑んでくれる彼女の童顔を見ていると。

 沙雪と友達であることが、とても幸せだなと、春奈は強く思った。 

「よし、調子も戻ったところで、今日も頑張るわよっ」

「うんっ、頑張ろうっ。なんてたって、今日はハルちゃんの苦手な数学の小テストだからねっ」

「う……ふっ、なんの、気合よ、気合っ! 気合でカバーしてやるわっ!」

「その意気その意気!」

 本当に。

 この娘と一緒だと、どこまでも行けそうだと思いつつ。

 明坂春奈は、隣に居る最強の友人と共に、朝の校庭を駆け始める。


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