神流木 隼 Ⅵ

 一人での登校も、今日で七回目。既に一人でいるのに慣れていた。

 昔は、孤独でも平気だった。一人の方が気楽だった。


 美優に出会ってから――――変わったんだ。


 思えば……僕が一番を取り続けようと思ったのは、彼女がいたから。

 『すごいね! 本当にすごいよ!』

 百点を取ると必ず、学校中に聞こえるのではと思うほど大声で褒めてくれた。

 無垢で無邪気な彼女。笑顔がとても可愛い幼馴染。


 でも昨日……その笑顔が消えた。

 『君は、邪悪だよ……邪悪。美優に近寄るな。汚らわしい』


 邪悪……心がねじ曲がっていて悪いこと。


 ――――僕を邪悪というならば、世の中の大半の人は邪悪だ。

 他人を心の底から信じている人間が、何人いる?

 美優のように、裏も表もない単純な奴ばかりじゃない。善人の仮面を被って、小羊の皮を被って、邪悪な心を隠して近づいてくる奴ばかりなんだ。

 心にもない事をスラスラと言って信頼を勝ち取り、自分の利益の為に徹底的に活用し、自分の損害が出るようなら、躊躇ためらいなく切り捨てる。

 それが、この社会の人間関係だ。

 皆で仲良く……なんて理想は、とっくの昔に廃れてしまっているんだ。

 この世界は、弱肉強食なんだ。

 弱かったら喰われるんだ。強くなくては生き残れないんだ。

 馬鹿は、このまま社会に出ても喰い殺されるがオチ。


「存在価値のない……クズ」


 言葉に出せば、やっぱりそうなんだと実感できる。

 言霊のお陰なのだろうか?



※※※※※



 ある日の昼休み。図書室で借りた本を返しに行った帰りだった。

 廊下の奥から、段ボールを抱えてヨロヨロと歩く担任を見つけた。


「――――白鳥先生!」


 僕はすぐに駆け寄り、その段ボールを半ば強引に奪った。


「か、神流木君!」


 ぎょっとする彼女に、僕は笑みを浮かべる。


「僕が持ちます。何処に持って行ったらいいですか?」

「あ……ありがとう。じゃあ、一階の資料室に置いて来てくれるかな?」

「わかりました」


 僕の潔白については、まだ半信半疑のようだ……。

 まあ、いい。言霊がある限り、僕は絶対に安全なんだ。


 言われた通り資料室に荷物を置いて、生徒達の話し声が反響する廊下へ出た。

 教室に戻る為、階段に向き直った瞬間、見慣れた人が横切った。


「……美優?」


 彼女は、焦燥感がありありと浮かんだ表情で、階段を駆け上がっていく。

 見慣れない表情に、僕は気付けば後を追っていた。

 普通クラスの1年B組は、ただただ静かだった。

 美優は教室に飛び込み、教室の中央に集まっている女子達に言った。


「ねえ、返して欲しいな……美優の靴……どこに隠したの?」


「え? 何? 知らないよ~?」


 セミロングの脱色した髪を持つ女子生徒が、代表して答えた。


「返して……美優の靴……筆箱……教科書…………」


 周りの女子達は、クスクス笑うだけだった。


「全部、全部、お母さんやお父さんが、買ってくれたんだよ?

 一緒に、買いに行ったんだよ? 三人で、買いに行ったんだよ?」


 美優の両親……母親は検事。父親は弁護士をしている。

 その二人は仕事の都合で海外に単身赴任中のはずだ。

 一緒にいる時間は通常の子と比べて、とても少ない。

 その少ない時間で家族水入らずのショッピングで買って貰ったんだ。


「だから、美優の宝物なの」


 その答えは、単純明快だった。


「ウザい」

「――――きゃああっ! やめてぇ!」

「あんたなんか、生きてる価値ないんだから」


 すぐに目を反らしたのに……網膜に焼き付いてしまったようだ。

 綺麗な黒髪を掴み上げられ、痛みに呻く美優の姿が。

 そして鼓膜を震わせるのは、耳障りな罵詈雑言。


「美優ってさぁ、男たらしだよね?」

「男子と喋る時~態度変えるじゃん?」

「超~超~ブリッ子。きもっ」

「ウザかったんだよねー」

「えぇ、分かんない? ひょっとしてぇ、馬鹿?」

「うわっ、可哀想~」

「男たらしで、ブリっ子で、馬鹿? うわ~、サイテー」

「つか、生きる価値無くない?」

「ホントホント~。よく生きてこられたよね~。

 今すぐ、息の根止めろ~。同じ空気吸うのも嫌だ~」

「マジで、死んでくんない?」

「化けて出て来ないでね~、ウザいから~」


 彼女達は、歌を歌うかのように楽しげだった。

 悪口の合唱は、しばらく教室内に響いていた。

 悪意に彩られた言葉を聞いていた僕は、無意識に後ずさっていた。

 後ずさったら、何かにぶつかった。振り返るまでもなく人だと気付く。

 だから、即座に謝罪の言葉を叫んだ。


「す、すみません!」


 ぶつかったのは、四十代の女性教師だった。

 一見優しそうだ。教師生活の長さから来る自信に頼りがいを感じる。


「……あら、あなたは特進 θ クラスの――――」


 僕は学年トップの成績を持つ。だから、教師で僕を知らない者はいない。

 名札を確認する。この1年B組のクラス担任だ。


「何の用かしら?」

「実は……金城寺 美優さんが」

「はい。存じていますわ」


 まだ何も言ってないのに……もしかして、知っているのだろうか?

 新米の白鳥でも気付いたんだ。ベテランの彼女は認知していて当然――――。


「こういうのは良くある事ですから……すぐ収まるでしょう。

 だから、気にしなくていいのです」


 ……気にするな? もう問題が起きているのに、無い事にするんだな?

 美優には迷惑は掛ってもいいんだな? 学校が困らなけばいいんだな?

  そのうち美優が来なくなっても、大した問題じゃない。


 『本当に馬鹿だな。教師なんて奴等は、自分の評価の事しか考えてない。

  一人の生徒のために身を粉にする教師なんか、ドラマの中にしかいない』


 ……そうだ、そうだったよな。自分で言っておいて、忘れてた。


「そういうわけですから、失礼」


 女性教師は、平然と教室に入っていく。

 女子生徒達は、まるで別人のように先生に駆け寄った。

 そうだよな。先生の前では〝良い子〟……それが常識だ。


「あ……シュン君?」


 教室から出てきた美優は驚き、足を止めた。

 先日の喧嘩別れのせいか、しばらく沈黙が続いた。


「…………何か、用かな?」

「いや、資料室に荷物を置いて……教室に戻ろうと思ってたところだ」


 そして今まで知ろうともしなかった……お前の現状を知ったんだ。


「そ、そっか! シュン君、偉いねぇ!」


 口調が強張っている。笑顔が引き攣っている。


「もう、そろそろ、昼休みも終わりだな」

「そうだね……」

「じゃあ、僕は教室に帰るから」

「うん…………あっ、えっと! 午後の授業も頑張ろうね~!」


 精一杯の笑顔で、美優は手を振った。

 僕は頷くと踵を返した。

 背中に彼女の縋るような視線を感じたが……振り返らなかった。



※※※※※



 生きている価値はない……僕は馬鹿に向かって、毎日のように言っていた。


 言った後の馬鹿の表情など見飽きている。さっき見た美優の表情と同じ表情だった。

 だから、なのだろうか? 僕は全く心が乱されていなかった。

 でも、かえって良かったのかもしれない。

 冷静を保っているお陰で、思考を巡らせる事が出来る。


 不意に、黒い影が視界に入って来た。


「っ……何だ、お前か」


 怨雨がすぐ傍に現れた。

 美形な呪神は、美優の教室の方を見て、深く溜息を吐いた。


「人間は、本当に自分勝手な生き物ですね。

 ワタシは悲劇を……いえ、喜劇ですね。

 もう、幾度となく見ているので……最近は、笑えてきました」


 青黒色の瞳が憂いで曇っていた。

 僕が無言でいると、言葉を続けて来た。


「悲しくないのですか? 幼馴染の少女が理不尽な扱いを受けていて……」

「全然、悲しくない」


 自分でも驚くほど、素早く答えていた。

 呪神は無表情で僕を見つめた後、ふいに視線を逸らした。

 感情が読めない。何を考えているのか、僕が推測してもわからないなんて。

 僕は怨雨に対して警戒を解くつもりは更々なかった。


「――――天使は、この世界では生きていけません」


 長い沈黙の後、怨雨がポツリと言った。天使……美優の事だろうか。

 確かに、あのお人好しは人間離れしているからな。


「他人を信じる事は……無防備に全てを曝け出すのと同じことです。

 天使は、この世に悪人などいないと信じ、誰にでも信頼を寄せてしまう。

 それはとても滑稽で」

「愚かな事……だろ?」


 怨雨は黙って頷き、同意を示した。


「ただし鎧を何重に重ねるのも、同じくらい馬鹿馬鹿しい事ですけれどね」


 チクリと言い返された。身を守る事の何がいけないんだ?


「うるさい、黙れ。僕はこれからイメージトレーニングをするんだ。消えろ」


 怨雨は黙って姿を消した。僕は深呼吸をして、思考を再度巡らせた。

 様々な状況、場面、対処方法を推測し、慣れておく。

 望み通りの結果を得られるように。

 

「……大丈夫。きっと全て上手くいく――――」


 言霊の力で、口に出してしまえば……本当になるのだから。



※※※※※



 それから間もなくして……聖童学園で事故が多発した。

 被害者は、特進 θ クラスの男子生徒一名と一年B組の女子生徒数名。

 男子生徒は図書室の本棚が倒れて来て即死。

 女子生徒達は階段から転がり落ち、意識不明の重体らしい。

 そのため、学校は一学年の午後の授業を中止にした。

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