3 おあつらえ向きで突然に
「ど、どうしたの!? 大丈夫?」
隠れていた赤鬼と朧が居間に現れ、和やかな中で食事の下ごしらえをしていると、
血だらけの腕を抱えて。
「どうしたもこうしたもないよ! 猫の姿でうたた寝してたら、バカ犬が飼い主の手を振り切って襲ってきやがった。何なんだい、あのデカさ! あんなのは、昔はいなかったよ。ま、返り討ちにしてやったけどね!」
昔はいなかったのなら、外国の犬種だろうか。大きな狩猟犬かもしれない。その本能のままに、小さな猫を獲物と定めたのか。
……化け猫だとは知らず。
「あたいじゃなく他の猫だったら、殺してたに違いないんだ。ああ、痛い! 我慢できないよ! お十岐、早く薬を塗っておくれ。よく効く、あの特製のをさ」
「あ、私が――」
十兵衛ちゃんが言っているのは、十岐の作った傷薬。即座に血を止めてしまう、信じられないほど効果のある薬だ。
しかし、腰を上げた私に、十岐は思いもしないことを言った。
「寧、大地の力で治してやれ」
「え?」
十兵衛ちゃんと二人、同時に声が出た。
「大地の力って、あの、ビーを助けたあれかい? でも、あれで寧ちゃんは死にかけたじゃないか」
「そうならないために、お前が練習台になるんだよ。『見える』ようになって、寧はそのことにばかり気を取られているが、そろそろこれにも取り組まねばならん。心配するな、十兵衛。お前に害はない。大人しくしてな」
大地の力は、文字通り大地が持っている力だ。透明の草原と、そこから生まれる綿毛のような胞子の形をしている。
人間が存在すら知らないこの力なくしては、十岐も私も――――生きられない。なぜなら、「見る」という能力を備え、それによって脳が常にフル稼働している私たちは、消費するエネルギーが大きすぎて、食べ物だけでは到底、補えないから。
自分に取り込んで一体化した大地の力は、誰かに与えることもできる。が……でもそれはとても難しくて、ビーの命を吹き返すために死にかけてからというもの、私は一度もやっていなかった。
もしも何かあったときのため、ちゃんとコントロールできるようにならなければと、思ってはいたけれど……
「分かったよ。やっておくれ、寧ちゃん。痛くてしょうがないんだ」
目の前に、十兵衛ちゃんが立っていた。
差し出された、牙の痕からまだ血のにじみ出してくる腕。
私は身を引いた。
「や、ちょっと待って。できるかどうかも分かんないのに……」
簡単に話を進められても、困る。自信の欠片もないことを、いきなり「やれ」と言われたって、そんなこと――
「だから練習するんだろうが。今のままだと、いざというときに使えないよ。扱いきれない大きな力ほど、危ういものはない。四の五の言っとらんで、さっさと集中しな」
ポンポン言って、十岐は私を見据える。
こうなった十岐に逆らえばどうなるか――――
去年の秋、銀ちゃんに施された荒療治を忘れるわけがない。
大人しく聞いたほうが身のためだった。
「……はい」
「ああ、ただし、ゆっくり少しずつやることを意識しながらだよ。一気にやったら、勢いがつきすぎる。それじゃあ、また同じことになるからね」
頷く余裕もなく、深呼吸を繰り返す。
心臓が、速い。
「ごめん、触るね」
そっと、傷に手を当てる。
痛いだろうが、十兵衛ちゃんは何も言わない。
私は目を瞑り、自分の体に取り込まれた大地の力の流れに、意識を集中した。
動け。
流れを、手の先に向けようとする。
でもそれは、地中で圧縮された粘土のように重く固く、言うことを聞かない。
「っ……」
う……動け……!
何度も、何度も力を込めた。ビーのときは無我夢中だったから、どうやったかは覚えていない。
でも、一度だけだろうと、できたのは事実。やれるはずだ。
幾度となく試みるうち、強張った全身から汗が噴き出し、頭に血が上る。腕や肩が痺れ、体のあちこちが攣りそうになる。
時間や空間の感覚が麻痺するほど、集中して力を込め続け――――
「っ……はあっ、はあっ、はあっ……何で……?」
できなかった。
「大丈夫かい? でも、早くしておくれ。もう、三十分もたったよ。痛いんだよぉ」
「えっ! もう!?」
そこまで時間が過ぎていたなんて……
十兵衛ちゃんは、私を心配しながらも痺れを切らしていた。
「ご、ごめん。頑張るから」
「寧、力技でやろうとするな。無理やり大きく動かそうとすれば、逆らうことになる。重いのはそのせいだよ」
「何でもいいから、早くしとくれよお」
「ああ、ごめん!」
また目を瞑る。
力じゃない? 大きく動かせば、逆らう?
十岐の言う意味が分からない。私には、その感覚がつかめない。
でも、ぐずぐずしてる場合じゃなかった。早く治してあげないと、十兵衛ちゃんはずっと痛い思いをしなければならないのだ。
焦りがどんどん膨らみ、十岐の言葉を頭の片隅へと押し込める。
追い詰められて冷静さを失った精神が、奥底に眠っていた力を呼び覚ましていく。
怒りにも似た、底力。
「う…………うあああああっ! 行けえ――――っっ!」
堰を切ったように、透き通った激流が、私の手から十兵衛ちゃんへと流れ込んだ。
見る間に、傷が塞がれていく。
「くっ……ああっ……!」
止まらない!
あふれ出た力は腕を覆い、繭のようになり始める。
必死で止めようとするけど、勢いが速すぎてどうしようもない。
ダメだ! このままじゃ、もう――――
諦めかけたそのとき、誰かに手をつかまれた。
それを感じた瞬間、流れは嘘のようにピタリと止む。
私の目の前にあるのは、顔。
目がかすんで、よく見えない。体が重く、頭はふらつく。私の中の大地の力が、半分以上なくなっているのが分かる。
しかしそんな状態でも、この手とこの顔が誰のものかは分かっていた。
「おばば……ごめんなさ――」
「まあ、こんなもんだな」
「え……」
おばば、怒って、ない……?
「前にも言っただろう? これは、自分で感覚をつかむしかないことだと。言われたところで、簡単にはできないのさ」
「だ、だったら……そう、言ってよ……。また、私……やっちゃったと思ったじゃ……」
拍子抜けすると同時に、意識が遠のいていく。
言い終わらないうちから体が傾き、記憶は途切れた。
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