11 接吻ひとつ

「どういうことだ……また、寧が考えたのか?」

「いや……その……大筋は……」


 その夜、居間に現れた銀ちゃんは、どんな顔をしていいか分からないでいた。

 私もまた、どうしていいか分からなかった。


「突っ立ってないで座れよ、銀治! 今日の主役だからな!」


 サトリに言われるまま、私の横に腰を下ろす。

 そこに突き出された、はらだしの含みを持たせたにんまり顔。


「いいものを見せていただきましたよぉ。まさか、あの切れ者の銀治さんがねぇ……おほほほほ」

「こと女の扱いになると、貴様はとんだ体たらくだな。我は大いに笑わせてもらった。あのときの間抜け面と来たら……ククク、いや愉快。今宵は、酒が美味いわ」

「お前ら……」


 未だかつて見たことがないほど、楽しそうな青行燈。

 銀ちゃんが、徐々に怒りのモードへと傾いていく。

 そんな何もかもを無視して、十兵衛ちゃんが、ドンっ! と膝を立てた。


「何だい、銀治! 手ぶらで来たのかい! だったら酌をしな! お前も飲むんだよ! 飲ませてやる! 潰れたって逃がしゃしないから、覚悟おし! あたいは、お前のせいで頬っぺたが痛いんだよ! ほら、まだ赤いだろう!」


 露わになった白い足と対照的な、赤い頬。

 反対の頬も赤いから、それはお酒のせいだろう。

 だろう、けど――


「銀ちゃん……十兵衛ちゃんは、『おばさん』って言われたのも聞いてたらしいんだよ。これ以上怒らせたら、今度こそ仕返しに行くのを止められない……」


 銀ちゃんの口がポカンと開いた。そしてすぐに、苦虫を噛み潰したような顔になる。


「聞いてただと? くそっ、どこにいやがった……。ああ、分かったよ! 飲んでやるし、文句も聞いてやる! 俺がまいた種だからな!」

「ふん、当たり前だよ!」


 開き直った銀ちゃんは一升瓶を手に取り、十兵衛ちゃんに注いで、自分はそのままぐいっと飲む。

 しかし。

 すぐに動きを止めて押し黙り、口を開いたときには真顔になっていた。


「十兵衛の気の済むように、寧が筋書きを立てた。それはいい。それは……分かった。だが……まさか、あれも――」

「ああっ! ほんっっっと、バカだよ! 救いようがないね! 寧ちゃんは、十和子が難しい病に倒れて、銀治が懸命に看病して治したって話を作ったのさ。でもね、ああいう女には、その傷を見せてやった方がよっぽど効くと思って、あたいが勝手に変えたんだ! 寧ちゃんが、お前の傷を晒すようなことをする訳がないだろう? 自分のせいだと思ってるのにさ。分かんない男だよ!」


 立て板に流すような啖呵の合間にも、十兵衛ちゃんは喉に酒を流し込む。


「それに、そうできるほど気にしなくなったんなら、それはそれでめでたいことじゃないか。ええ? そうだろう? 何とか言いな、このおたんちんが!」

「……そうか。そうだな……」


 銀ちゃんは、つぶやいた。


「ささ、銀治さん。飲みましょうよ。夜はこれからですよ。あてもたっぷりありますし、飲み明かしましょう」

「オレも朝まで付き合うぞ! 飲め、飲め!」


 はらだしが、大きな湯飲みになみなみとお酒を注ぐ。

 いつも朝まで飲んでいるくせに、やたらとサトリが楽しそうなのは、大方、邪まな理由からだろう。


「しょうがないね。二日酔いの薬くらいは作ってやるよ」


 十岐の言葉にさらなる勢いを得て、十兵衛ちゃんが盃を掲げる。


「じゃあ、改めてえっ! 『銀治を潰す会』を始めるよおっ! かんぱーい!」

「かんぱーい!」


 飲めや歌えの大騒ぎが始まった。銀ちゃんはやけっぱちだけど、みんな楽しんでいる。

 私は、十兵衛ちゃんの機嫌が直りつつあることに、ひとまず安堵の息をついた。

 まあ……どんなに酔っても笑顔になっても、「潰す」という目的だけはやり遂げる気なんだろうけど。


「しかし、接吻ひとつで固まるとは、情けない男よな」


 酔いが深まってきた頃、青行燈が余計な話をし始めた。


「そんなんじゃねえ! 事情が飲み込めなかっただけだろうが」

「そろそろ新しい女子おなごを見つけぬか。免疫のひとつもつけねばな」


 銀ちゃんが言い返すけど、青行燈は取り合わない。

 そこへサトリが口を挟む。


「ダメだぞ、青行燈。銀治は、誰と付き合っても凪子なぎこより好きになることはなかったんだからな。もう、やもめだな。やもめ一直線だ。ん? 片思いだったから、やもめにすらなれないのか? それだと、ただの哀れな男か? あれ? どっちだ?」


 雲行きが怪しい。


「て……めえ、サトリぃ……。いい根性してんじゃねえか……」


 銀ちゃんの目が据わった。

 恐ろしいハイペースで、かなりの量を飲んでいるのだ。本当に怒らせたら、大変なことになるかもしれない。


「やめようよ、流血なんか見たくな――」

「やもめになるくらいなら、あたいが相手になってやるよ。お前の唇の具合は、なかなかよかったしねえ」


 嫌な予感がした。


「調子に乗るな! 大体なあ、お前があんなことをするから、話がややこしくなるんだろうが。あのあと、どんなことになったと思っ――」

「おや、あれが効いたんじゃないか。見せ付けてやったから、あの女は尻尾を巻いたんだよ。第一、あれがなかったら、あたいもやる気になんかならなかったんだし、寧ちゃんのお手柄さ」


 十兵衛ちゃんの言葉で、銀ちゃんは静まり返る。

 嫌な予感は――――的中した。


「あれを……寧が……」


 そう言ったきり、黙る。


「あ、あの、これには事情が……というか仕方なく……」


 言葉を探したけど、でもどんな言い訳ができるというのだろう。

 私がやった事実は変わらない。

 怒られる。絶対に、怒られる――――


「えっ!?」


 しかし、銀ちゃんは無表情のまま一升瓶を手に取り、半分以上残っている中身を一気に飲みだした。

 意表を突かれ、私は呆然となる。

 が、固まっているその間にも、どんどんお酒が減っていく。


「まっ……やめて! もう、いっぱい飲んでるのに!」


 ようやくもぎ取ったビンの中身は、すでにほとんど空になっていた。


「あの……大丈、夫……?」


 無表情な銀ちゃんの顔の、その目は少し伏せられていて、それがなぜだか悲しそうに見えた。

 そして、グラリと体は揺れる――

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