希望とは何だろうか

白百足

ムカデの死骸と教会の鐘

「生きる価値ってなんだと思う?」

「お前いきなりどうしたんだ?」

黒い煙ばかりが空に登るこの世界の片隅とも思える路地裏で僕とキラは育った。僕らの間に愛は無い。あるのは信頼関係だけ。

黒いヘドロがついたゴミ箱に座ってキラが言った。盗ってきたリンゴは黒い煙のせいでドロドロとしている。それでもそれが食い物だと認識して口に入れなければこの空腹はおさまらない。

僕は訝しげにキラをみた。白かったワンピースもボロボロになって赤黒い。僕の服と同等だ。身体中は傷だらけ。処置をしようにも包帯も薬も無い。仕方ないことだ。そう、仕方ないこと。

「こんな世界で生きてる私たちはなんて馬鹿げてるんだろうなって」

キラは機械がついた方の手を空に挙げる。そんなことしても光は当たらない。眩しそうにするのにはなんの意味もない。ただ、人間の生理的現象のようにキラは眩しそうな顔で機械に付いた黄色のランプを見る。

「やめろよ。不愉快だ」

キラから目を逸らしため息を吐く。目の前の壁にはムカデが這っている。気持ち悪いとは思わない。そのムカデが這った先に油まみれの水がある。ムカデは何の躊躇いもなく水の中に入る。苦しそうにもがくムカデはそのうち動かなくなった。

「生きる価値の判断基準は何だと思う?」

「知るわけないだろ、そんなこと」

キラの問いに考えるわけでもなく答える。正直不愉快だ。そんなこと聞かれたって答えられる訳もない。

僕は目を瞑る。遠くで教会の鐘が鳴り響く。その音さえ不愉快で耳を塞いだ。

「また誰か死んだね。生きる価値が無かったんだ」

キラがドロドロのリンゴを投げた。ビチャッと音をたててリンゴは地面に落ちた。瞑っていた目を開けばリンゴの下に蜘蛛がいた。鐘の音が止まる。蜘蛛の動きも止まる。でも、どうでもいいと思ってしまうのは見慣れた光景だからだろうか。

キラが立ち上がった。投げたリンゴを拾っては捨てた。下にいた蜘蛛を手に乗せる。キラの手と同じ大きさの蜘蛛からは緑色の体液が出ている。

「そんなもの、触るなよ」

僕は声を荒げた。荒げたといってもそんな体力なんてない。正確には荒げたように言っただけだ。烏が空を飛んだ。死んだ人間を啄みに行くのだろう。エサがある烏を恨めしく思った。

「この蜘蛛も生きる価値が無かった。判断基準を満たさないから」

キラが蜘蛛の足をプチプチと抜き取る。抜き取られた足は音もなく地面に落ちた。

何となく、悲しくなった。悲しくなったのに涙は出ない。この空腹もこの悲しみも早く立ち去ってほしい。通りに黒い車が止まった。何人かの人間と思しきものが降りてくる。僕らに逃げ場は無い。逃げる気も無い。キラが穏やかな目をして僕の名前を呼んだ。

「そして私も、」

キラは何の抵抗もせず、手を引かれていった。僕は知らない顔をしてその場にうずくまった。知らないふりをした。僕らには信頼関係すら無かったのだ。キラの機械に付いたランプが赤色に点滅していた。

最後にキラが上を向いて言った。


「判断基準を満たさなかった」


次の日も教会の鐘が鳴り響いた。烏が死体を啄みに空を飛ぶ。

僕はヘドロがついたゴミ箱を見た。彼奴はもういない。昨日死んだムカデの周りにはハエがたかっている。悲しみがこみ上げた。悲しみが来ても涙はいつも通り出ない。

「生きる価値って何なのかな」

彼奴の言葉を口に出した。途端、考えることをやめたくなった。昨日の車がまた止まった。何人かが降りてくる。僕に逃げる気は無い。立ち上がらされて、手を引かれた。

つうと、涙が流れた。流せることに驚いた。そして、彼奴が聞いてきた判断基準が何となくわかった。今なら答えられるが問いた彼奴はいない。そして僕もいなくなる。彼奴が捨てたリンゴに目を向けた。


「僕も、判断基準を満たせなかったよ」


誰に言うわけもなく、言った。地面に落ちていたガラス瓶には穏やかな顔をした僕が映っていた。

僕は知ってしまったのだ。この世界での判断基準を。そして、その先を。



僕の手首に付いた機械のランプが赤く点滅していた。


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