浜辺でマンボウが死んでいる
「浜辺でマンボウが死んでいる。見て来たらどうだ」
先輩が言うんだから間違いないのだろう。僕は言われるがまま、浜辺に行く。海水浴のシーズンはとっくに過ぎ去り、人の気配はない。
そこにマンボウはいた。砂浜に無残な姿で横たわっている。その体は大人の男が手を広げて仰向けになっているぐらい大きく、いやにぶよぶよしていて、魚類というよりは、クラゲなどの方が近いような気がする。
「うわ、グロテスクだな」
僕は独り言を言いながらマンボウを観察する。死因は何かわからないが、横腹に大きな傷跡があり痛々しい。目は開いていて、視線が合ってしまう。死んでいるというのに。
「あまり見ないでください」
どこからか声が聞こえた。男とも女とも取れない声で年齢さえ判然としない。
「だから、あまり見ないでください」
僕はマンボウしか見ていないのだが。
「わたし、死んだマンボウです。早くどこかに行ってください」
どうやら僕に話しかけていたのは、マンボウだったらしい。
マンボウを見ると微動だにしていないが、声は頭の中を反響しているような感じがして妙な説得力がある。
「ほぉ、マンボウか。しかし死んでいるのに話せるとはおかしな話だな」
「おかしな話、と言われても話ができるんだから仕方ないですよ」
「話ができるとなると、死んでいないのでは」
「死んでいるに決まっています。小一時間前にサメにかじられてそれが原因で死んだのですから。その証拠に体はビクとも動かないですし」
「そうか、不思議なものだな」
そういうと僕はそそくさとその場を立ち去ろうとする。実を言うと、反射的に言葉を返してしまったが、冷静に考えると、死んだマンボウと会話するなんて正気の沙汰ではなく不気味で、一刻も早くこの場を立ち去りたかったのだ。
「いや待ってください」
「どこかに行けとか、待てとか、わがままなマンボウだな」
「少しわたしの話を聞いてください」
「いやだね」
「呪いますよ」
この世にマンボウに脅された人間がいるだろうか。僕はその脅しが実現してしまうような恐ろしさを感じた。そして僕は降参したという旨のジェスチャーをする。
「さっきも言いましたが、サメにかじられて死んでしまったんですよ」
「さっきも聞いたが、お気の毒に。僕はサメにかじられたことがないから共感もできない、すまんな」
「すごく痛かったです。こんなの死んじゃうよって思うくらい。実際に死んでしまったわけですけど」
「そうだな、見事に死んでる」
「それでその、死んでいるわたしであるマンボウを、あなたは悪趣味にも見に来た」
そういうとマンボウは急に黙る。ひどく居心地が悪い。確かに僕はマンボウを見に来た。何か言い訳をしないと気が静まらない。
「いや、死んでいるという話を聞いてちょっと様子を見に来ただけだ。気に障ったのなら謝る」
「それは、いいんです。むしろちょうどよかった」
よかった、とはどういうことだろうか。いやな予感がして冷たい汗が額を走る。
「わたしを埋めてくれませんか」
「いやだ」
考える前に答えが先に出ていた。そんなのはいやだ。こんな大きなマンボウを埋めるには大きな穴を掘らなくてはいけない。そんなことをしていると、この後のオーケストラコンサートには行けないし、スーツが汚れてしまう。
「ではあなたはこれからおうちに帰ってゆっくり眠りにつけますか。浜辺でマンボウが死んでいるのに。その死体は風にさらされ腐りゆくのに」
また冷たい汗が額を走る。戻れないところまで来た、と感じた。マンボウの言う通りだ。
僕はマンボウの死体を見たぐらいではそのようにはならないが、話してしまった、感情に触れてしまった。
それがいけなかった。このままにしていてはいけないと、良心が訴える。安い良心だが。
「お前、卑怯な手を使うな」
「死者を悪く言わないでくださいよ」
マンボウはそう言うと、乾いた笑い声をあげた。
「お前と出会ったのが運の尽きだ。仕方ない」
それから僕は体のいたるところの筋肉を酷使しながら、ホームセンターで購入したゴム手袋をつけて、同じく購入したスコップで砂浜に穴を開けた。
その間、マンボウと生きていた頃の海の話をしたりした。綺麗なサンゴを見た話。大きなクジラに挨拶をしたら無視されて少しムッとした話。小さなカニに付きまとわれた話は傑作だったな。
「もう、海には戻れないんですね」
「そういうことになるな」
「でも、わたし最期に友達ができてよかったです」
マンボウはそう言うのを否定する気にはなれない。僕は小さな声で「そうだな」と言うのが精一杯だったが、マンボウは嬉しそうに「はい」と答えた。
「じゃあ、埋めるよ」
そういうとマンボウのその大きな体を引きずり、穴へと入れる。ゴム手袋越しに、やはりぶよぶよとした感触が伝わってくる。
「なんでいまこうしてあなたと話せているのかわからないですが、本当によかったです」
マンボウはなんだかセンチメンタルなことをいう。口には出さないが、僕もよかったと、思う。
「さようなら。わたしの友達」
僕はただ黙って土をかける。冷たく、ぶよぶよしたそれはすぐに土に覆われ見えなくなっていった。頬を流れるものは汗が涙かわからない。
もうマンボウの声は聞こえない。ただ自分の鼓動が聞こえる。
海に夕日が沈んでゆこうとしていた。僕はこの砂浜にマンボウが死んでいたのを覚えている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます