いまだシカの君へ

 シカの頭を被った転校生がやってきた。なんの例えでもなく、実際にそうだった。リアルな質感で、隅々にまで細かな毛が生えている。

 

あまりの驚きに僕は小さな悲鳴をあげる。周りの生徒はそんな僕を怪訝そうな顔で見た。なんでだろうか、驚いているのは僕だけだった。


 あの妙ちきりんなシカの被り物は、宗教上の理由か何かだろうか。なんとも不気味である。

 きっと、そのことをみんなは知っていてこんなに冷静なのだろう。



「転校生の、明石鹿子あかししかこさんだ。みんな仲良くするんだぞ」


 担任の先生はそう言い、教室を探るように見る。鹿子さん、なんてそのまんまな名前なんだ。


「おお、松岸まつぎしの横。空いてるじゃないか」


 先生は僕を指差し、そのあと、指の先をずらし、空いている席を指した。よりにもよって僕の隣か。


「よろしくお願いします」


 鹿子さんは、シカの口元をにこりと歪ませた。なんで精巧な被りものだろうか、表情まで作れるとは。




 いつもの無味乾燥した授業が終わったあと、休み時間に入り鹿子さんはクラスメイトに囲まれていた。


「鹿子さんはどこから来たの」


「奈良からきたんだ」


「結構遠いところから来たのね」


 奈良からきたのか、やっぱりシカじゃないか。しかし、どういうことだろうか、あの頭、被りものにしてはいやにリアルな気がする。瞬きしてるうえに、人間の部分とのつなぎ目が自然すぎる。これ、被り物なんかじゃなくて本当のシカの頭じゃないか。


「鹿子さん、かわいいなぁ、モテるでしょう」


 確かにシカとしてはかわいい。僕はシカが好きだ。しかし彼女はシカであり、人間だ。もしかしてクラスメイトにはシカの頭ではなく、人間の頭に見えているのだろうか。そうなると自分の頭がおかしいことになる。困ったな。


「松岸くん、消しゴムを貸してくれないですか」


 鹿子さんは鈴を転がすような声でそう言った。そう言われたら致し方あるまい、貸してやろう。どぎまぎしながら、細長い使い勝手を重視したプラスティックの消しゴムを渡す。


「あ、私もこれ使ってる。普通のより、消しやすいよね」


 鹿子さんはそのシカの口を分かりづらくも、にこりとする。僕はそれに対して同じようににこりと返す。大丈夫だろうか、苦笑まじりになってなければいいけれど。




 それからというもの毎日、落ち着かなかった。隣の席の彼女はシカのままであるし、誰もそのことについて触れない。というかきっとシカに見えているのは僕だけなのだろう。このモヤモヤをどうにかしたいが、相談する友達はいないし、病院に行くのは怖い。


「松岸くん、悩み事でもあるの。最近うつむいてるけど」


 悩みの種である鹿子さんが僕を心配してくる。鹿子さんはとても優しい。苦しくなるくらいに。


「いや、大丈夫だよ。心配かけてごめんね」


「そんなことないよ。大丈夫なら、よかった」


 顔の前であたふたと手を振ると、照れたように目をそらした。僕はどうしていいかわからず、宙に目をやる。とても不思議な子だ、と思う。


「一緒に、帰りませんか」


 伏し目がちに鹿子さんはしっかりとそう言った。僕はきっと目を丸くしていたに違いない。僕の顔を見た鹿子さんは焦ったように早口で話し始めた。


「転校して友達もいなくてこの町に何があるかもわからなくてだから、だから、松岸くんに教えてもらおうかなって。忙しいんなら全然いいんだけど」


 僕は決して忙しくはない。断る理由が見つからない。


「いいよ、どうせ暇だったし。案内するよ、この町。美味しいお菓子のお店を知ってるんだ」


 それを聞いた鹿子さんのくりくりとした大きな目は喜びを湛えていたのが見てとれた。いいことをしたと、思う。




 僕の帰り道には菓子の宮内という老舗の菓子屋がある。そこのお菓子はなんでも美味しい。そしていま、そこに鹿子さんと来ていた。


「いらっしゃい、かわいい女の子連れてきたね、ぼっちゃん」


 もう高校生だというのに僕はまだ社長の宮内さんにぼっちゃんと呼ばれる。それにしても鹿子さんは他の人から見るとかわいい女の子のようだ。なんだか損している気分だ。


「お菓子、いっぱいですね。美味しそう」


 鹿子さんはウィンドウの中に陳列されたお菓子たちを眺めている。


「私、これ食べようかな」


 せんべいの詰め合わせのようなものを見ていた。渋いものを選ぶんだな。やっぱりシカだからせんべいが好きなのだろうか。


「じゃあ、それとあのいつものおかきください」


 僕はそういうとすぐに会計を済ませる。鹿子さんは慌てて財布を出すがそれを制す。


「いいって」


 僕はそういうとお金を受け取る代わりにせんべいが一杯入った袋を渡した。鹿子さんは申し訳なさそうな顔をしていたが、そういう表情もできるのだなと思う。


 それから長いこと無言で帰路を歩いた。彼女が何を考えているのかわからないが、後ろを付いてきているのはわかった。


「じゃあ、僕はここで」


 分かれ道に来たので、別の方向に進まねばならない。手短に挨拶を済ませ帰ろうとする。


「あ、待って」


 彼女は小さい声を上げる。僕も慌てて「なに」と答える。


「これ、あげるから」


 小さなメモが渡される。事前に用意でもしていたのだろうか。そのメモにはメールアドレスがかわいい丸文字で書かれている。これを渡す意図を聞こうとして顔を上げたときにはもう彼女は背中を向けて走りながら帰っていた。


 とても不思議で、そして魅力的な子だ。今日の夜はいまだシカの君へメールしてみるのもいいかも知れないと、夕焼けを見ながら僕は思ったりした。

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