無題短編

 最後の音韻は草臥れてもう遠い。あなたと重ね合った世界の旋律は、ここからは見えないどこかでまだ大勢の胸に居座っているらしいけれど。魂はもうクローゼットに仕舞ってしまった。埃を被ろうが黴が生えようが気にするものか。誇りを掲げ華美に生きた青いわたしはもう死んだ。

 轟いた雷鳴に身を竦ませるのも去年には飽きていたし、自分が少しずつ感情を内燃できないポンコツ機関になっている自覚はずっと前からある。視界を横切った虫は一瞥して無視した。風を通すために開けていた窓をさらに押し開けて、逃げ道でも作ってやろうか、という思考も、その裏に鎮座する煤汚れた網戸に指を触れるのがいかにも躊躇われて実行せずじまいだ。彼だか彼女だかはもうここを自分の住処ぐらいには思っているかもしれない。三日も寝食を共にしたのだし。「僕は旅に出ようと思うんだ。」嘘つき。わたしはもう、二度と誰も信じない。

 もちろん、あなたも。

 ガスが止まり、水道が止まる未来を想像する。それは割と近いところにある。財布は空で、もう一ヶ月は補充していない。口座の暗証番号は忘れた。親とは疎遠になって久しい。外に出るのも億劫だ。わたしはここで朽ちていく。朽ちていく。それこそ羽をもがれた揚羽蝶あげはちょうのように。足を抜かれた飛蝗ばったのように。風化した伝説上の鳳凰のように。いいえ、そんなに高尚なものじゃないでしょう。わたしはせいぜい飴坊あめんぼ。もうずっと、シンクに動かず浮いている、あの。

 さようならが蒸気を吹いて発車した。わたしの顔は真っ黒になる。それ以上の言葉は常軌を逸したスピードで舞い上がっていく。わたしの心には留まらない。

 ありがとう。

 お世話になったね。

 ごめん。

 また、いつか。

 全部ハリボテの人形が、ねじまきと少しの油で喋らされているだけの空疎な音素と、なにも変わらない。

 明日、何時に待ち合わせしようか。

 少し寒くなってきたね。

 これ、君に似合うかと思って。

 よかったら。

 よかったら、使ってみてほしいな。

 開けてよ。

 ――知らなかったんだね。

 よくなかったんだよ。

 あなたはなにも、わかっちゃいなかったのだ。

 君にとって、僕は人間じゃないの──

 そうだよって、何度も言ってきていたのに。なんだその下手くそな皮肉。なんだよその不純な期待を宿した虚哀しい目。いつから見え透いていたか忘れたけど、あなたはもとはそんな人じゃなかった。わかりあえないみたいだね。だって、

 お前は楽器だ。

 お前は道具だ。お前はわたしの伴奏だ。お前はわたしの世界を構築する歯車だ。お前はただ隣で、命じられた動きだけをしていればよかったのに──

 契約の切れた携帯端末が、ブルーライトを切って不気味な薄茶色に染まった画面を発光させる。愛憎入り混じった指紋の跡は醗酵していて、饐えた腐敗の匂いがそこら中に撒き散らされている。部屋のすべてが薄幸の紋章。明日と呼べるような明日はもう来ないだろう。未来生き切符は発行を終了しました。未来生き切符は発行を終了しました。わたしは動かなくなった脚を叩き撲り、しなびた二の腕の力で床を這いずり光に寄る。やっぱりそれは、羽を千切られた虫のように。

 指に長く巻きついた爪を、電源に滑らせた。

 それはアラームを止めるかスヌーズを続けるかの選択を迫る見飽きた映像で、意識の途切れそうな追慕の奥、わたしは人生に妥協してお洒落をして仮初めの笑顔を貼り付けて可愛い猫撫で声で愛を囁いてあなたと指を絡めてデートしていた並行世界の自分を夢に見た。

 流れた曲は、未だに世界を感動に包んでいる、わたしとあなたの追蹤の結晶。

 最後の音韻は草臥れてもう遠い。あなたと重ね合った世界の旋律は、ここからは見えないどこかでまだ大勢の胸に居座っているらしいけれど。わたしは魂の看板をクローズドに変えた。埃を被ろうが黴が生えようが気にするものか。誇りを掲げ華美に生きた青いわたしはもう死んだ。青い世界に生きたいつかのわたしはもういない、透明な世界。光。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る