第10回 天を渡る橋の終わりには
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ゆるゆると続く細長い道を、鏡子はてくてくと歩き続けている。
松林は帽子のように雪を被っていた。道ばたの、松の根元まで真っ白だった。
だが道の真ん中は土肌が露出しており、歩くのに支障はなかった。朝のうちに一度除雪されているのだろう。
対岸まで三キロはある。
仮添江市を出た鏡子は、さらに北上して
電車が日本海側に入った途端、家々が雪に埋もれていたので心配になったが、吹雪いてはいなかった。もうすっかり止んでいる。松を飾る雪も、単調な道沿いの景色を彩る、ちょうどよいアクセントになっていた。
はあ、と白い息を吐き出して、歩を進める。
こんな寒い日に歩いて渡ろうという物好きは少ないらしく、途中一組のカップルとすれ違っただけだった。
そういや、今日はクリスマスだっけ。
いいイヴであった、と昨夜のことを思い返す。
クリスマスイヴに良い思い出などあったためしがない。
その中でも、特に最低のクリスマスイヴとして、自分史上に燦然と輝くであろう。
――男に、自分から抱いてくれと頼むだなんてな。いくら喪女とはいえ、そんなプライドない台詞を吐く女はそういないだろう。よく言えたもんだ。
いや、もしかすると、それを言えないから喪女だったのかもしれん、と鏡子は自分に都合よく認識を転換する。
六星社には戻らなかった。
仮添江駅のホームで、北上する電車に飛び乗ったのは、かなり衝動的な決断だった。あと、ほんの五分も待っていれば、京都行きの電車が来たはずだ。
とんでもないことをしてしまった、という自覚はある。
だがこれで正しいのだとも思っている。
――葵くんはやはり子供だっだナ。
置き手紙にあった通り、彼も文学に対して誠実ではなかった。
彼はこれまでずっと、顔の見える敵、すなわち鏡子に勝つことだけを望んでいた。
鏡子を文学の理解で屈服させ、自分の文学への愛の正しさを確認することだけを求めていた。
「なぜ審査会で発表しないのです」、と彼は言った。
世間に発表したければ、葵がすれば良かったのだ。しかるべき手順と作法を守って、聞いてもらえば良いのだ。大学に入って論文にすることだけしか方法がないわけではない。樽田にやらせたように、ネット上で論争を巻き起こすという手だってある。
葵こそ、なぜ樽田に、真実を教えなかった?
姉にふさわしくない(と彼の考えた)樽田を排除するために、あえて真実を教えなかった。葵もまた、自分の知り得た真実を道具にしていた。
そんな彼に、鏡子の誠実さを非難する資格はない。
葵が文学への愛、と呼んだものは、鏡子にとっては単一の概念ではない。
葵の言い方にならうのならば、文学への愛と、研究への愛、だ。
彼はその二つをごちゃ混ぜにしていた。
葵が言うように、自分が文学そのものに対して不誠実だとは思わないが――文学研究に対しては、確かに。誠実ではなかったかもしれない。
彼に言われたことで、唯一鏡子を動揺させたのは、それだった。
だってそうなのだ。
仮添江市に行くまでの間、発表予定の王炊章一論にはまるで手を入れなかった。ずつと、葵に見せる第三次六星社文学の論考を直していた。
彼が指摘してみせた通り、鏡子の欲望は、葵という人間の真実が知りたいということに向けられていた。王炊章一でも、六星社文学でもなく。六星社文学の論考も、そのために必要だから書いたにすぎない。欲望のための手段にすぎなかった。
もし、二十四日ではなくて二十五日に葵が会いたいと言ってきていたら、どうだったろうか。
自分は葵を――葵の謎を解くことを選んだのではないか。すんなり審査会を選んだだろう、という確信はなかった。
「この世に謎などないよ」。
桜下にも天河にも言ってきたこの言葉は間違っていない。解けてしまえば謎は謎ではなくなるからだ。葵の謎は、もはや存在しない。ただちょっと、解けるまでに、これまでにないくらい長い時間がかかっただけのことだ。
――僕が、文学研究に対して真に真摯であったなら。葵に言われるまでもなく、諏訪路に相談したりもせず、審査会の発表には第三次六星者文学の論文を選んでいたはずだ。
こじんまりとまとまった王炊章一論などよりも、発表するにふさわしい、重大な真実だ。ささやかながらではあるが、文学史の一部を決定的に書き換えることになる、強烈なインパクトファクターを有する論考だ。
だからこそ、鏡子はためらった。
無理だと思った。
もし、今日、大急ぎで六星社に戻って発表内容を差し替えたらどうなっただろうか。
それはそれで愉快な想像だった。
諏訪路が顔色を変えるのが目に見えるようだった。質疑応答は盛り上がっただろう。発表の後も、会場内はその話で持ちきりになる。聞きに来ていた院生や学生の中には、ネットにその内容を書き込む者も出てくるだろう。
多くの人を傷つけるとしても、鏡子は名声を得るだろう。研究助手のポストは取らせてもらえないかもしれないし、博士課程後期への進学も拒否されるかもしれない。少なくとも、諏訪路は自分の研究室に受け入れることは断るに違いない。
だが進学先に困ることはあるまい。あの論文を見せれば、どこの大学でも歓迎されるだろう。第三次六星社文学を研究しているのは諏訪路だけなのだから、深刻な利害を有する研究者は存在しない。ただただ、鏡子の慧眼と、それを師の前で発表した勇気を称えられるだろう。ネットニュースくらいなら、取材してくれるのではないか。「迷ったけれど、真実を明かすことが大事だと思ったのです」とまるで学問の使徒のような台詞を吐く自分の姿が想像できる。ネット民は、大喜びで鏡子を持ち上げ、諏訪路を叩くだろう。
――ま、一応、僕も若い女だからさ。話題性はあるんじゃないかな。
しかし、その未来を実現させたくはなかった。
しれっと王炊章一論を発表しておけば、問題ない。誰も傷つかず、鏡子もこれまでどおり六星社大学の住人としてやっていける。
鏡子は、大学で知り合った誰にも、不幸になって欲しくない。桜下や天河、諏訪路や佐富はもちろん、西園も、美伶も、葵も。
だが実は、そんなことを考えてしまう時点で、自分は、大学に残るにはふさわしくないのじゃないか。羽生蝉耳ら六星社文学の同人たちとその作品、王炊章一らとその作品。研究の対象としてきた、そんな過去の作家たちや作品よりも、自分は、身の周りにいる彼らの方を大事だと考えている。
突然、それに思いあたった瞬間、ホームの反対側の電車に乗り込んでしまっていた。
文学に対する愛などなくてもいいかもしれないが、大学に必要とされているのは、研究に対して愛がある者だろう。さもなくば、せめて教育か。
仮添江市からの電車に揺られている間に、ますます、自分には、どちらもないのだ、という気がしてきた。
天河は「あたしを勉強の動機付けに使うのは止めなさい」と言った。美伶は「学者より探偵業の方が向いてるんじゃないの」と言った。
美伶の言葉を借りるなら、自分はまぎれもなく蛮族である。ただしその欲望は、文学研究に向けられていなかった。鏡子はやっとそれを自覚した。友に、天河に釣り合いたいから研究をやっていただけであった。研究の蛮族になりきれていない。そんなことを、ずっとやっててよいものか?
自分のあり方について、初めての疑問であった。
考えているうちに、第三次六星社文学の真相を発表したくなかった理由が、自分の中にもう一つ見つかった。
――僕はしょうもない矜持を持っている。
それはとても簡単な理由だった。他人からあれこれ誘導され、ヒントをもらって解いた答えを、さも自分が解き明かしたようにドヤ顔で発表することは、鏡子の誇りが許さなかったのだ。
それは学究の卵としての誇りではなく、探偵としての誇りでもない。
ただの個人的な規範の問題だ。
樽田と同じである。彼が凶行に及ぶまでの過程や、関わった人間の名前を一切説明しなかったように、他人からは理不尽に見えようとも、本人が守り通したい規範がある。
これが本当に自分の「足」でたどり着いた真実だったなら、喜んで発表しただろうな、と思う。例え諏訪路を怒らせることになったとしても。そもそも諏訪路に配慮しようなどという気すら起きなかったのではないか。
自分の持つ欲望と矜持は、何を指向しているのだろう。
鏡子は考える。
わからない。
大学を辞めたら、何をすればいいのかな。
審査会での発表を放棄しただけでなく、鏡子は大学院を辞める決心をしていた。
博士課程後期には進学しない。
前期課程で辞めていった先輩たちのうち何人かは、「才能がないことがわかった」と口にしていた。
都合の良い逃げ文句だなと思っていたが、そうではなかったかもしれない。
彼らも、鏡子と同じように、「自分には研究への愛がない」そう思ったのかもしれない。才能、とは。論文が書けることだけを指すわけではないのだな、と鏡子は初めて思った。
仕事にするなら、自分が本当に誠実にやれることをしたいものだ。
ぼんやりと、そう考える。
するとますますわからなくなる。
わからないなあ、と繰り返しつぶやいているうちに、鏡子は天橋立を北端まで渡りきってしまった。
雪に覆われた松林の回廊は途切れた。開けた視界の先には、屋根に雪を乗せた家々が並ぶ。どの家の店先にものぼりがはためいてる。土産物屋と飲食店ばかりだった。幻想的な回廊から、急に俗界に引き戻されたような気分になった。
自分の大学生活は終わったのだ、と鏡子は納得した。
さて、桜下さんにも何か買って帰ってやろうか、と鏡子の興味は買い物に移った。
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