第9回 開演前に
9
演習室に入った桜下は、意外な人物に声をかけられた。
「よお、お久しぶり」
明石だった。コートを手に持って、きちんとスーツを着込んでいる。
「あれえ? なんで明石くんがいるんすか」
「……いや、ほら、審査会は一般人も入れるって言ってたじゃないか。錫黄さんの発表を見に来たんだよ。有給使って」
決まり悪そうにそう説明する。
そんな話は聞いていない。
「鏡子さんは知ってるんすか」
「言ってないよ。メールとか返事もくれないし」
なのに直接会いに来るという、明石の図々しさに、桜下はちょっと呆れた。
「……まあ見学するのは自由っすけどねえ。論文発表なんて、聞いて面白いかどうかは知らないっすよ」
「発表終わったら、お茶にでも誘ってくれよ」
「めんどくさいことを言いますねえ。まだ諦めてなかったんすか? はいはい、終わったら声かけてみますよ。ちょっとどいてください、教授と話してきますんで」
「うん、たのむわ」
明石の言葉を聞き流して、佐富を探す。
院生用の講義に使われる演習室は、普段なら数人の学生と教員だけしか入らないので、広々とした印象だったが、今日はやたらと人が詰めかけて混み合っていた。
それだけ審査会の注目度が高いのだ。
まだ開始時間までは間がある。机に座っている者は少なく、みな立って談笑している。
発表者と指導教官、審査をする教授たちの他にも、他学科の教員が大勢集まっていた。学生も多い。ほとんどは院生だが、中にはちらほら学部生らしい姿も見える。熱心なことだ。
その中に一人、場違いなほど華やいだ雰囲気の女性がいた。グリーンのセーターを身につけ、純白の毛皮のコートを手にしている。
「桜下くん、やっと来たのね」
驚いたことに、それは安宅美伶――いや、今は姓が変わって佐富美伶だった。
「美伶さん、すか? どうしてまた」
隣で、佐富が仏頂面をしている。
「来るなと言ったんだが、聞かなくてね。何が面白いんだか。たかだか教え子の発表に、妻を同伴してくる教員なんていないよ! おかげでぼくはさらし者さ」
大仰に両手を振る。
「あら、さらし者だなんて。しなびた老人たちにこんな若い嫁を披露できるんだから、堂々となさってればいいじゃないの。自慢げに院生の女の子を連れ歩くのはお好きだったでしょ」
嫌みまじりに佐富の悪態を受け流し、美伶は桜下に微笑んだ。
「君の応援に来てあげたのよ、感謝しなさぁい」
「そりゃどうもです」
と苦笑する。
結婚以来、佐富は少し老けたように見える。わずかに顔の締まりがなくなり、動作も緩慢になった。夏に樽田と大立ち回りを繰り広げた男とはとても思えない。
年相応に落ち着いた、ということなのかもしれない。
佐富と最後の打ち合わせをする。もう質疑応答の練習もしているので、改めて話すようなことはなく、手順を確認しただけだ。
だがそのやりとりは桜下の心を落ち着かせた。
そっと、周囲を見渡す。
演壇の横に、発表者の席が並べられている。西園はすでに席に座っていた。表情のないガラスのような目だけが、きょときょとと動いている。
部屋の中のどこにも、鏡子の姿がないことに気付いた。
まだ来ていない。
やはり昨夜は仮添江市に泊まることになったのだろう、と桜下は推測する。
それにしても、十分間に合うはずだ。
あるいは来ないかも。
桜下は悩んだ末に、鏡子と葵の待ち合わせを、審査会当日ではなくて、前日にセッティングした。当日にバッティングさせても意味はない、と判断したのだ。鏡子の葵への気持ちは醒めきっている。両方が重なったら、葵の方を無視するだろう。桜下はそう観察していた。ならば、前日を指定しておいた方が、不慮の事態が発生する可能性が高まる。
例えば、再会をきっかけになんだかんだと葵と燃え上がって、そのまま離れがたくなって、審査会をすっぽかす。そんなこともあるかもしれない。
――すみませんねえ、下衆なこと考えて。
桜下の想像通りにことが進んだとしても、審査会に来るか否かはあくまで鏡子が決めることだ。鏡子が来られなくても――桜下は負い目を感じなくてすむ。そういうことだ。
と、理屈を付けてみても、自分の決断が中途半端であることは自覚していた。二人を合わせるのは審査会当日か、審査会に影響しない、もっと離れた日か。その二択だったはずなのに、そのどちらも選ばなかった。葵の用意してくれた謀略に半ば乗り、半ば降りたような、不徹底な態度を選んだ。
自分はやはり、美伶と同じく上品な人間で――コートの中でプッシングできるほど冷徹にはなれないってことですかね、と自嘲しないでもない。
鏡子はこのまま現れないかもしれない。
いまさらながら、桜下は鏡子が来てくれることを願っていた。
ライバルを一人消せるかもしれない、という誘惑に負けたことを後悔していた。
自分の論文発表を、鏡子にも聴いてもらいたかった。
――ちゃんと来て下さいよ。堂々と勝負しましょう。
ぎりぎりまで直し続けた自分の論文に、自信を持っていた。桜下のこれまでの学業の集大成と言ってもよい。
「『こころ』のミステリ的構造――その意(こころ)は――」と題されたその論文は、佐富にも絶賛された。
「博士号を取ったら、ネットカルチャーでもなんでも好きなことを論じればいい。でも、それまでは、学術的に評価されることをやりなさい。専門家、と名乗れる分野を持つのは強みだからね。……諏訪路くんのように、誰もやってない隙間産業であっても、専門家は専門家、ってことさ」
微妙に諏訪路への皮肉を込めて、佐富にそう諭された。
夏目漱石は、嫌いではなかった。何か一つ専門として選べ、というのであれば、博士号を取るまでの三・四年の間なら、つきあっていけなくもない、と思っている。
その諏訪路は、落ち着かなさそうだ。
しきりに色んな教員に挨拶して回り、学生たちの顔ぶれを確かめている。
鏡子が来ていないことを気にしているのだろう。
ちらりと時計に目をやる。
あと五分で始まる。
用意された自分の席に向かおうとした時、また明石がやってきた。
「錫黄さん、遅いじゃないか」
ちっ、と内心で舌打ちする。
鏡子さんのことがそんなに心配ですか。少しはわたしにも気を遣ったらどうなんですかねえ。そんなに女のことばかり気にして生きてるんすか?
明石に対して、少し意地悪な気分になる。それは桜下の余裕のなさの現れかもしれなかった。大舞台を前にして、緊張している。
「寝坊でもしたんじゃないすかね」
「そうなのか。錫黄さんの下宿って大学から近いんだっけ。あ、おまえの発表ってなにやるの?」
ほんのついでのように、明石は尋ねる。
「漱石っす。『こころ』」
「ああ、『こころ』ね。高校の教科書に載ってたよな。文学部の勉強って、そんなことずっとやってるんだな」
高校生のころから進歩してない、と言いたげな明石の言葉には、反論する気も起きない。
営業成績を上げることと、早く結婚相手を見つけることばかり考えて生活してる明石にはわからない。
――わたしらは違う世界を生きてるんすよ。
返事をせず、西園の隣に座って膝の上に論文を乗せる。発表の順は、鏡子、西園、桜下。
「……いきなり押しかけてすまんかった。がんばれよ」
桜下が緊張していることにようやく気付いたのか、申し訳なさそうに明石はそう言った。
そのとってつけたような励ましの言葉は、意外に心に沁みた。
明石が部外者だからだろうか。
自分が一人ぼっちで荒野に立っていることにいきなり気づかされた。
明石の声は、幽霊の声なのだ。桜下の住む世界の外からの声。
あるいは――桜下のいる世界の方が死者の国で、明石こそが生者なのかもしれない。佐富も美伶も、教員や学生たち、演習室の風景が陽炎のように頼りなく揺らいだ。
それはほんの一瞬のことで、すぐに室内のざわめきが耳に戻ってきた。
「はい。ありがとうございやす」
手を振って、桜下はへらりと笑い返した。
うぜえと思ってましたが、やっぱ来てくれてよかったですよ。
明石には伝わらないだろうし、伝える気もないが、心底感謝した。
この、さほど親しかったというわけでもない学部時代の友人が、いまの自分には唯一の味方のように思えた。
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