第8回 わたしと……

 身体にひときわ強い力が加えられた。急激に天地が反転したような感覚。


 落ちる!?


 と思ったのと同時、身体の半身に衝撃が走った。右肩から転げ、かろうじて手を付くことができた。

 落ちた先は、はるか下の路面ではなく――屋上だった。


 傍らには、葵が仰向けになって寝転んでいた。息が荒い。

 どうやら。落ちる直前で正気に戻った葵は、鏡子ごと身体を手すりの内側へ引き戻したらしい。


「お、おど、驚きました? は、ははは」

 切れ切れな葵の笑い声。鏡子は動転してそれどころではなかった。なんとか眼鏡は無事だ。キャスケットは、もうどこに行ってしまったかわからない。まだ頭がぐらぐらする。鼓動が早い。


「どうです、ぼくのキレ芸。こう見えて、キレたら怖いらしいですよ。女を殴るのは趣味じゃないですけど。びひらせる方法なんて、いくらでもあるんです、から。」


 なんですか、その、「俺、キレっとなにすっかわかんねーから」的な。テンプレの脅し文句。いや脅されているわけではないのだろうけど。


 葵の顔も真っ青だった。白い息が小刻みに吐き出されている。

 キレ芸、ではないだろう。本当に、彼は怒って我を忘れていたのだ。彼にとっても不測の危機だったのだろう。


「死ぬかと思った」

 ぼそりと正直な感想を漏らす。

「死んでくださいよ。いや、死ねよ」

 軽やかな口調だが、その声には本気の憎悪が籠もっていた。


「おれは、死んでも良かったんだ。一瞬、このまま落ちてやろうかな、と思った」

 空虚な言葉だった。

 だけどまあ、と言葉を切る。

「あんたの顔が、気になってね」


 何を言い出すのか。


「あんたの間抜けなたぬき顔。あまりにも無力そうな顔をしてるから。殺されそうな目にあってるのに、抵抗もできない、身体をガチガチにさせて、縮こまっているだけ。頭が良くて賢げなことばかり言う癖に、いざって時にはほんとに何もできねー女だな、って思ったら。可哀相になって」


 葵はゆっくりと立ち上がった。そして、手すりに手をかけ、身軽にそれを乗り超えた。

 あ、と鏡子が止めようとする間もなく。

 鏡子に背を向けて、葵の身体は手すりの外側、屋上の外縁に立っていた。ほんの数センチの狭い縁だ。まだ手は離していない。


 なにをするつもりなのか、鏡子は困惑する。


 顔を見せないまま、葵は短く笑った。

「落ちたりしませんよ。昔、よくやってたんです。度胸試しで」

 短い笑いを収める。

「ぼくはもうしばらく、ここで頭を冷やします。もう、用は済んだでしょう。鏡子さんは、帰って下さい」


 ひとつ深呼吸をして、身体を落ち着かせる。


 葵はさらに付け加える。

「もうなにも、話すことなんかありませんよ。そして、二度と会いません。人の秘密を暴きたてるのがそんなに楽しいですか? ぼくがあそこにいた理由が知りたいだなんて。たったそれだけのために、こんなところまで追いかけてきて。あなたはおかしい。異常です」


 そうだな。

 僕は、彼をひどく傷つけてしまった。彼のことを理解したいという欲望のために、彼を追い詰めた。


「お願いですから。ぼくを一人にしてください」

 それは懇願するような声だった。

 ほんとうに、鏡子と話しているのが苦痛なのだろう。


 秘密と謎の鎧をすべて剥がされた、むきだしの彼がそこにいた。ちっぽけで哀れな男。

 その哀れさは、彼が姿を消してから鏡子が抱いていた怒りと敵愾心の名残をすべて打ち消した。彼にとってはそうではなかったが、鏡子にとっては、理解することは愛着を増す方向に作用した。

 転落死しかけた恐怖を、彼を形作る核心を知れた満足感が癒やしてくれた。


 鏡子は、葵の言葉に逆らうことにした。


「わかった、帰ろう。ただし、きみも一緒に」

「……ぼくは帰りません。早く行ってください」


 あくまで、葵は一人になりたいのだと言う。

 初めて、彼のことを可愛いと思った。


「うん、そうか。とりあえずな」

「しつこいな。さっさと帰れよ」


「とりあえず、寒いからな。ホテルの部屋に行こう」


「はあ?」

 驚きの声と共に、葵が振り返った。


「僕の分のベッドもあるんだろ」

「頭悪い女だな。抱いてもらえると思ってるのかよ」

 その声には嫌悪感がにじみ出ていた。


 それでもいい。


 鏡子はずっと、自分は葵のことを好きだ、抱いて欲しいのだ、と思っていた。そして葵の方はそう思っていないだろうとも。

 だがもしかすると、ある意味では彼の方が、より強く、鏡子を抱きたいと思っていたのではないか。ずっとそうだったのではないか。そんな気がしていた。もちろんそれは、葵が鏡子を好きだからではない。決してそうではないことは、わかっている。


 拒まれないだろうという予感に包まれて、鏡子は告げる。


「わたしと寝るのはそんなに嫌ですか?」


 葵がぷっと吹き出して振り向いた。

「……なんだよ。急に。『僕』じゃないのかよ」


 そうだな。

 ずっと「僕」という一人称を使っている僕だからこそできる、デレ芸だ。こんなことを言うのは、一生に一度だぞ、たぶん。


「わたし、葵くんのことが好きです。抱いてください」


「だから、嫌だって言ってるだろうが」

 鏡子から顔をそむけ、頭をだらりと垂らし、じっと眼下の路地を見つめている。鏡子は黙って立ち続けた。寒さが気にならなくなっていた。

 待ったのは、ほんの短い時間だった。


 葵は、心を決めたように大きな溜息をついた。

 は、っと一声放って、手すりを再び乗り越える。屋上に着地して、軽く身震いする。


 名残惜しそうに、眼下の夜景に一瞥をくれ、鏡子に向き直る。


「あんた、頭おかしいよ。なんで抱いてもらえるなんて思ったわけ?」


 返事をせずに、鏡子は手を差し出した。葵の手を握ってやろうと思った。冷たそうだな、温めてやりたいな、と思った。

 葵は顔をしかめた。鏡子の手が、宙に浮いたままになった。鏡子は手を引っ込めなかった。やがて葵は、おそるおそる、といった様子で、右手を伸ばし、鏡子の手をとった。かじかんだ指が、重なり合った。


「冷たい」

「葵くんの手も」

 ぎこちなく手をつないで、二人はゆっくりと階段を降り始めた。





 

 目が覚めたとき、すでに葵はいなかった。

 シーツに触れてみたが、彼の体温は失われていた。

 鏡子が眠りに落ちてからすぐに、ベッドを出たのだろう。

 サイドテーブルに置いてあった眼鏡をかけて、部屋を見渡す。

 デジタル時計が八時三十分を示していた。それほど長い時間寝ていたわけではないようだった。

 カーテンの隙間から、光が差している。

 デスクの上に一冊の本とノートが置かれているのを見つけて、立ち上がる。

 素裸の全身を、空調された生温い空気が包む。

 デスクに残されていたのは、第三次六星社文学第一号と、六辻出流のノートだった。

 そばに部屋のキーがあり、その下にメモが一枚、残されていた。



 

 ありがとうございました

 ぼくの方こそ、文学に対して誠実ではなかったかもしれません

 さようなら



 たったそれだけの短い手紙を二度読んでから、クローゼットに吊した、コートのポケットに入れる。

 六星社文学の白茶けた表紙を見ていると、「あなたは不誠実です」と鏡子を非難した彼の声が聞こえてくる。そんな気がした。彼が言っていたとおり。もう会えることは、ないのだろう。


 もう一度時計に目をやる。時間は十分にある。

 今から六星社に戻って、参加者に配布するレジュメを刷り直すことも不可能ではない。すにわち、葵に読ませるために書いたレポートを、大学で発表するということ――。


 ほんの短い時間だけ考えて、鏡子は頭を振った。また眼鏡を外してバスルームに向かう。寝不足と疲労で身体が重い。


 熱いシャワーを浴びながら、鏡に映る自分の貧相な肉体をじっと見つめる。

 腫れぼったい目に、薄い唇、薄い胸。少ない腰のくびれ。

 葵が、鏡子と寝ることを承知してくれたのは、決してこの身体に欲情したからではない。

 好きだからでもない。


 彼には、自分と住む世界が違う女と寝てみたいという欲望があるのではないか。姉弟だとわかるまでは、美伶と寝てみたかったのではないか。だから、彼女と一緒に暮らさなかった。そんな想像。


 鏡子はその推測に賭けた。

 それが彼の劣等感からくる征服欲であろうと、かまわなかった。


 濡れた髪が目にかかる。

 奇妙な満足感があった。

 自分は決着をつけたのだ。

 

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