第7回 低い寒空の下で

 7

 「カヴァルカンティ」を出ると、葵は先に立って歩き出した。鏡子は少し離れてその後ろを着いていく。


 どこに行くつもりなのだろうか。


 小脇に抱えた封筒がやけに重く感じられた。時間と精力を注ぎ込んだ渾身のレポートは、まったくの徒労だった。


 自分は失敗した――葵の真意にたどり着くことができなかった。それは自分の知性が及ばなかったからではない、と思いたい。

 同じ街を歩いているのに、すぐ目の前に彼の背中が見えているのに、隔たりは大きくなっていくばかりのように思える。


 二人は無言のまま歩き続ける。

 ライトアップされた市庁舎の前を抜け、飲み屋街に入った。まだ人通りは多かった。道の両脇に並ぶ大小のビルの壁面には、飲み屋の看板が所狭しときらめいている。街路のそこかしこに人の輪が出来ては崩れ、歓声が上がる。大学生、高校生、勤め人。楽しげな酔っ払いたちの声が耳を通り抜けていく。

 葵は、さらに一本、裏手の路地に入った。行き止まりに小さな雑居ビルがある。開放的なフロアに足を踏み入れ、階段を登り始める。無言のまま鏡子も従う。




 階段からは薄汚れたフロアが丸見えだった。各階にドアが二つずつ並び、バーやスナック、ホストクラブの小さな看板が出ている。

 ドア越しにカラオケのメロディと笑い声が聞こえてくる。

 どこかの店に入るのだろう、と思っていたがそうではなかった。

 ついに四階しかないそのビルを登り切り、屋上まで出てしまった。


 風はないが、空気が冷たい。とても寒い。手袋をしてくれば良かった、と鏡子は後悔した。ポケットに手を突っ込んだまま、コート越しに自分の身体を抱きしめる。

 周囲を囲むビル群は、やはりみすぼらしく、高さもあまりなかった。それでもこの屋上より低い建物はない。四方から圧迫されているようで少し息苦しい。しかしそれでも、空はやたらと低く感じられた。前に建つビルの隙間から、明るい大通りが見える。酔っ払った歩行者と、横に広がった若者たちの集団がちらほらと通り過ぎていく。


「ここで、話しましょうか」

 葵はようやく言葉を発した。


 少し歩き疲れた。

 電力設備を収めた小屋の壁によりかかる。

 座ってもよいものか、と迷う。あまり清潔ではなさそうだ。


 それを察したのか、葵は薄く笑った。

「ああ、そこは止めた方がいいですね。反対側へ」

「ん、そうなのか」

「ええ。そのあたりは、休憩に来たホストがゲロを吐く場所なんです。――少なくとも、ぼくがいたころはそうでした」

 あわてて飛び退き、葵の側に駆け寄る。

「ここに勤めていたのか? というか仮添江市に住んでたことがあるんだ?

 てっきり僕の地元だから、この街を選んだのかと思ってた」


 あれ、話してませんでしたっけ。

 そうでしたね、と葵はつぶやく。


「ぼくにとっても、この街は地元ですよ。住んでたのは外れの方ですけどね。ここの店に勤めてたのは、高校二年のころ。初めてのお店でしたから、ちょっと懐かしいですね」

「アルバイト?」

「ええ、まあ。でも勤務は毎晩。夜9時から朝5時まで。おかげで学校では寝てばかりでしたよ。」

「高校二年……」

「ええ、高二です。親父から逃げ出したくて。ひどい親父でした。大阪に出たのはその後です」


17歳で既に働いていた、と告げられて、鏡子は少し衝撃を受けていた。それも深夜に八時間も。高校の友人には、飲食店やコンビニでアルバイトをしていた者もいたが、それでもせいぜい週に二、三日、一度に三・四時間くらいのものだったはずだ。

 

 自分は高二のころ、なにをしていた?

 アルバイトをすることなど考えたこともなかった。高校生のうちからバイトなどしない方がいい、というのが両親の意見で、その代わりに小遣いは十分にもらっていた。

 毎日、ぼんやりと授業を受けて、塾に通い。数少ない、友だちと言っていいものか曖昧な感じの連中となんとなくしゃべって、ネットを見て夜更かししていた。

 2ちゃんねるを徘徊するのが楽しくてしかたなかった。

 恋愛で忙しいクラスの女子たちとは違うのだ、もっと重要なこと、セカイノシンジツに触れているのだ、と信じて小さなプライドを守っていた。勉強をしていたのも、プライドのためだ。友だちよりもいい大学に行きたい。頭が良いと思われたい。その程度のことしか考えていなかった。 


 葵はそれ以上父親のことは語ろうとはせず、ジャケットのポケットから煙草を取り出した。カキン、とライターを鳴らして、口にくわえた煙草に火を点けた。

 屋上の手すりにもたれて、気持ちよさそうに煙を吐き出す。


「煙草、吸うんだね」

「知らなかったでしょう。鏡子さんはぼくのことなんかなにも知らないんですよ」

 ははは、と可笑しそうに笑って、葵は振り返る。

「どうですか、この屋上からの眺め」


 どう、と言われても困る。

 鏡子も、手すりに近寄ってみる。

 暗い、雑居ビルの背面がいくつも視界を遮っていて、眺めと言えるほどのものはない。

 見下ろすと、足下の路地で、男が一人、仰向けにひっくり返っていた。葵にそれを指し示すと、「喧嘩でもしてやられたか、酔っ払ってるかじゃないでしょうか」という興味のなさそうな返事が返ってきた。珍しくもないようだ。


「低い、低い、汚い街の夜景でしょう。でもこの眺めが、ぼくの原点なんです。……なんて言うほど、長く生きちゃいないですけどね。」

 金属の手すりは、手に張り付きそうなほど冷たかった。コートのポケットに手を戻す。


 葵は、寒さを感じないかのように、かすかに微笑みを浮かべて煙草を吹かす。

「ここ、けっこう好きなんですよ。高級ホテルのラウンジなんかよりも、この屋上の方が話をするには似つかわしい気がします」

「話してくれるのか」


 少し意外だった。場所を変えてまで引っ張るのだから、よほど話したくない事情があるのだろう、とあれこれ想像を巡らせていた。


「大した話じゃないですからね。理由、ぼくの理由でしょう?」

 そんなに理由が気になりますか、と声を上げて笑った。

「理由がなきゃ、何かしちゃいけないんですかね」

「そういうわけじゃないが。衝動的な行動だというなら、それでもいいんだ。僕はただ」

 君のことをわかりたかったんだ、という言葉を飲み込んだ。


「ええ、ええ。分かってます。鏡子さんや桜下さんや――頭のいい人たちはみんなそうですけど――説明が欲しくてたまらないんでよね。理由を知ったところで、何かの役に立つわけじゃないのに。ああ、そうでした、大学ってのはそんな風に、役に立たない理由を探して山ほど積み上げる場所でしたね。あなたたちは理由に埋もれて生きていく」

 どことなく皮肉っぽい調子だった。


 ああ、と鏡子はまたも隔たりを感じる。

 葵は、鏡子がレポートを書いた理由、鏡子の想定した葵の動機を説明されても、まったく感想らしい感想を持たなかった。何の感銘も受けなかったようだ。

 ただ、鏡子が葵に惚れているからここに来たのだ、と簡単に片付けてしまう。

 それが彼のことを理解しようという努力だったことは、彼にとって何の価値もないのだろう。それらはすべて、「女が男に惚れているから」というおおざっぱな観念の中に溶け込んでいるのだろう。


 なんて。

 なんて平板な男なんだ。


 失望と同時に、困惑も深まる。その薄っぺらさと、第三次六星者文学への繊細なこだわりが、なぜ同居しているのか。文学研究など――葵の嘲笑した、「役に立たない理由の集積」の最たるものではないか。「あなたには本を読む資格がない」と諏訪路に怒った原動力は何なのか。


 さて、と煙草を口から離して葵は語り始める。

「コーポ六辻からあのノートを持ち出したのは、ただ羽生蝉耳の作品について書かれていたから、興味を惹かれただけですよ」

「羽生蝉耳なんて、よく知ってたな」

「もともと、王炊章一が、羽生蝉耳という無名の作家をリスペクトしてるというのはそのエッセイで読んでましたから。でも、羽生蝉耳の作品なんて出版されてないでしょう。直に作品が読みたかったんです。六辻のノートに目を通してから、ますますそう思うようになりました。それで、姉さんに頼んで文書館に」


 なるほど、簡単な話だ。しかし。

「美伶さんに、文書館から六星社文学のデータをコピーしてきてもらうのではダメだったのか? 安宅さんは大学のOBだから、申請すれば利用できただろうに」


 そうなんですけど、と葵は歯を見せて笑った。白い息がこぼれた。

 えーと、それはですね、と言いよどみ、照れたように顔を背けた。


「……大学ってところに、通ってみたかったんです」

「え?」


 その返答と葵の行動は、その一瞬、鏡子の頭の中でつながらなかった。


 めんどくさそうに葵は付け足す。

「だから、大学生ってやつを体験してみたかったんですよ。こう言えば、わかります?」


 あ、と鏡子は声をあげそうになった。ようやく理解が及んだ。

 進学校だったので、同窓生たちの中で大学に進学しない者は少数派だった。その少数派も、ほとんどは資格の取れる専門学校に進んだ。

 日本の大学進学率は五割程度であることは、知識としては知っている。しかしその、進学しない方の五割の人間とは無縁に六年間を過ごしてきた鏡子にとっては、大学に行かない人間がいる、という当たり前の事実は、いつしか実感を伴わないものになっていた。ましてや、その大学に進学しない五割の中に、「通いたかった人間がいる」ことは、ますます意識の外だった。


「ほんとうは働くなら文学部関連の施設が良かったんですけど。文学部の事務局や図書館では、バイトも現役の学生しか採用してなかったので。出版局は、卒業生でもいいんです。それで、身分を偽って」

「司法浪人ということに、したのか。なんで司法浪人?」

「突っ込まれにくいと思ったんです。司法試験の仕組みや日程、科目、簡単な法律用語とか、表面的なことは勉強しましたよ? 役者にでもなったみたいで、ちょっと楽しかったですね」

 ふふふ、と葵は笑った。

「じゃあ、講義にも潜ったりしてたんだ?」

 葵は首を振った。

「四月からそうするつもりだったんですけどね。その……桜下さんと親しくなっちゃったし、鏡子さんが現れたので、文学部に潜るのはやめました」


 なるほど、文学部キャンパスで鏡子たちに顔を合わせると、身分を隠すのが難しくなる。


「それは、すまなかったな。楽しみにしてたろうに」

「ええ。代わりに、教育学部や商学部の講義に出てました。この二つは、文学部キャンパスから遠いですし。まずお二人に会うことはないだろう、と思いまして」

 なんだかねえ、と葵はますます可笑しそうな声を上げた。

「だんだん、目的が変わっちゃって。どうせぼくは学生じゃないんだから、文学部でお二人に見つかったらその時はその時、本当のことを話してしまえばすんだ話です。だけど、桜下さんや鏡子さんを騙し通せるか、いかに六星社大法科大学院卒の司法浪人という立場になりきるか、それが楽しくなっちゃったんですね」

「なんと……」

「笑っちゃいますよね。高卒ホストのぼくが、名門大学の法科大学院を卒業して司法試験に挑んでる、だなんて。他人に何度もそう言ってるうちに、だんだん自分でも信じてしまいそうになりましたよ。四月ごろ、けっこう憂鬱な顔をしてたでしょ、ぼく。あれは、演技してるつもりもなかったんですけど、自然と演技しちゃってました。あと一ヶ月で試験本番だ、今年こそ受からなきゃ。そんな精神状態になってたんです」


 それですべての説明がつくような気もしたし、わからない気もした。

 彼の執拗な六星社文学へのこだわり、あの犯行声明、美伶への伝言。六星社文学の真実に至ってみろと、鏡子を挑発し続けてきた理由がわからない。


 ホワイ、ホワイ、ホワイ。

 凍えそうな頭の中で、ホワイがこだまする。


「八月のあの日、僕たちの前から姿を消したのは、もう身分を隠しておけなくなると思ったからなんだな」

「ええ、そうです。樽田さんが、警察にぼくのことも話してしまうと思ったんです。場合によっては、ぼくに責任をかぶせようとするかもしれない。佐富先生を襲ったのは、樽田さんが勝手にやったことですけども。ネタを提供して、佐富先生たちを陥れるようそそのかしたのは葵だ、と言われたら、それは嘘ではありませんから。ぼくの名前が出てしまうのは確実だと思った」

「だけど、樽田は誰の名前も出さなかった」

 静かに鏡子は指摘する。

「そうなんですよ。ぼくや姉さんや……堀戸さんたちの名前も出しませんでした。全部自分一人でやったことにしてしまった。そんなことしても、誰も褒めてくれないのに」

 わっかんないですねえ、とくだけた調子で笑って、葵は煙草の吸い殻を踏みつぶした。

「六星社大学の人たちは、鏡子さんたちも含めておかしな人ばかりです。みんな馬鹿なのかな、と思っちゃいました」


 馬鹿だ、というその表現で鏡子は閃いた。葵という人物を理解する鍵を見つけた気がした。安宅の言っていた意味がわかった。ずれている。彼とは決定的にずれている。

「樽田さんは、君や美伶さんの未来を大事にしてくれたんだと思うよ」

 

 ゆっくりと鏡子は口を挟んだ。

 葵は口を閉ざす。


「いや、それは良いように解釈しすぎか。でも、自分が破滅するときに、他人を道連れにしようと考える人間ばかりでもない。樽田もそうではなかった。それだけのことだな」

「不合理ですね。賢いとは言えない」

「馬鹿でもないさ。道連れを増やしたところで、自分が破滅することには変わりないのだから。これは損得ではなくて、個人の規範の問題、どう生きるかという話だ」

 葵は不機嫌そうな顔つきになった。鏡子の初めて見る顔だった。

「お上品なんですね。鏡子さんや桜下さんが、ぼくの身分を疑わなかったのも、そんな風に性善説で生きてるからなんでしょうか。諏訪路先生や鏡子さんが、六星社文学の真実に気付かなかったのも、そのせい? 

 それって普通は、頭が悪い、と言うんじゃないですか」


 うん、君はずっと、それが言いたかったんだ。


 鏡子はようやく理解した。

 第三次六星社文学の真相について、鏡子が「葵に追いつこうと」「道に迷おうと」どちらでもよい、と言っていた意味がわかった。


 僕より頭がいい、という優越感を得たかった。すでにそう思っているのだろうれども、それをはっきりと示したかったんだ。

 君が期待していた答えは二つ。


 ①わかりませんでした、教えてください。

 または、

 ②やっとわかりました、ずっと前からわかってたなんて、葵くんは凄いですね。


 そのどちらかを期待していたんだ。


「……葵くん」

「なんだか久しぶりですね、その呼び方。もしかして、怒らせてしまいましたか」


 怒っていない、怒っていないのだ。


「さっき読んでもらったレポート。あれが、僕たちの作法なんだ。諏訪路先生が君の言葉に耳を貸さなかったのは、君が作法を踏んでいないからなんだ」

 諏訪路には責任がある。第三次六星社文学の権威(あるいは、唯一の専門家)として、学問の作法を踏んでいない仮説を勝手に承認することはできない。検討する義務もない。それは真実だったかもしれないが、手続きが正しくなかった。

 賢いとか賢くないとか、頭がいいとか悪いとかいう問題ではない。


「それがなんだって言うんですか!」

 突然、葵は声を荒らげた。

「あんなまどろっこしい議論を経なくても、両方読んだら誰でもわかるでしょう。似てますよ、そっくりじゃないですか。『砲と足』なんて、王炊章一の文体そのものじゃないですか! 大学で偉そうに何年も勉強してるくせに、そんなことも分からないなんて、馬鹿ですよ!」

 その言葉には憎悪がこもっていた。身体の外からの寒さとは別に、心の中に冷たいものが伝わってきた。それは、あの夏の日の、樽田の殺意と似ていた。


「葵くん。君は、大学の中にいる人が――僕や桜下さんのことが、嫌いだったんだね」


 やんわりと言ったつもりだったが、その言葉には取り消しようのない鋭さが含まれていた。


 僕たちは、対立していたのだ。敵同士だったのだ。僕は、知らぬ間に君の敵だったのだ。


 桜下さんが研究助手の座をめぐって僕を敵だとみなしてることなんかよりもずっと深刻に、僕は葵くんに敵視されていた。

 君は、自分の持っている知見、王炊章一ら四人の作家と第三次六星社文学への知見で、僕を屈服させたかったんだ。いや、僕じゃなくてもいい。条件があっていれば誰でも良かったはずだ。大学院生だとか、大学教員であるとか、教養があると世間から見なされている人間なら誰でも。

 第三次六星社文学の真実は、君が教養の世界で戦いうる唯一の武器だったんだな。


 葵は激高した。

「ええ、そうですよ! 言わないでおこうと思ってましたけどね、言わせたいんですか! おれが飲みたくもない酒を飲まされて、女のご機嫌とって、高校もろくに行けずに働いてるときに、あんたらはのうのうとあんな居心地がいい楽園で甘やかされた生活をしてたんだ。桜下? はっ。友だち面されるだけで反吐がでるよ。あいついくつだよ。働かないで一生大学に寄生してるつもりか? なめんなよ、こっちは十六から働き詰めだよ」

 怒鳴り声が、寒空に吸い込まれていった。

 不思議と、鏡子は怖いと思わなかった。

 それどころか、心の中で「いや桜下さん、出版局でバイトしてるじゃん」と突っ込みをいれる余裕さえあった。もちろん、火に油を注ぐつもりはないので口にはしない。

 大学を、「楽園」と表現したのは気に入った。鏡子もかねてから、そうなのかもしれないと感じていた。


「自分の方が、大学で学ぶ資格があると思ってた」

「そうだよ、おれの方が、あんたらなんかよりよっぽと、文学を愛してる。あんたらにはわからないんだよ。酒の抜けない頭で、睡眠時間を削って王炊章一を読んでたんだぜ。感動したんだよ。こんな世界があったのか、って。あんたらは、不誠実だ」


 ――軍事教練で頭がおかしくなりそうだった。なんでもいいから文化的なことがしたかったんですよ。

 王炊章一の言葉が耳の奥によみがえる。


「不誠実?」

「そうだ。諏訪路先生もあんたも桜下も。みんな小説を愛していない。桜下もあんたも、作家や作品は自分の論文を書くための原料、アイテムくらいにしか思ってない」


 一面ではそれは真実だな、と認める。だがそれも愛があってのことだ。作家のあらゆる作品を読み、これまでにそれを論じてきた無数の評論や論文を読み、果てしない時間、考え続けることが、愛でなくてなんなのか。


「だいたい、あんたはおかしいよ。こんな重要な事実を発見しながら、発表しないなんて」

「まだその時期ではない、と諏訪路先生と話して決めたんだ」

 はっ、と葵は嫌らしい笑い方をした。

「それも大学の中で生きていくための『作法』ですか。やっぱり誠実じゃないでしょう。それなのに、ぼくにはこれを読ませる。これが僕たちの作法だ? あきれますね。あんたは、その作法とやらを、ただ自分の欲望のためだけに使った」

「欲望?」

「そうですよ、欲望でしょう。ぼくに会いたいから……というのはちょっと、うぬぼれのが過ぎたようですね。ぼくから理由を聞き出したい、というのがあなたの欲望です。

 そのために必要だと思ったから、書いたんでしょう」

 その指摘は、鏡子を少し落ち着かない気分にさせた。


 確かに。確かに。

 葵の理由を知りたい、というのは、鏡子の勝手な欲望だ。探偵趣味、と言ってもよい。

 そのために、真実も作法も利用した。

 でもそれは、根本的に僕が君のことが好きだからで。


 自分にそう言い訳する。


 葵は、落ち着きを取り戻しているようだった。

 一人称がいつのまにか「ぼく」に戻っていた。

「君が、美伶さんと一緒に暮らさなかったのも、それが理由なのか? 彼女が大学院まで行ってるから」

 近くに部屋を借りるくらいなら、一緒に住めばいいのに、と思っていた。

「姉さんのことは言うな。姉さんは、いい女ですよ、ええ。悪くない。これからも肉親としてつきあいは続けていくつもりだ。ぼくたちは離れていた方が、うまくやっていける」

「一緒に暮らすのは無理なんだね」


 君は、美伶さんのことが好きだったんじゃないのか?

 そう問いたいのを我慢した。


「……そうですよ。どうしてもね。気に障るんです。金は出すから大学を受験しろとかすすめてくるし」

「受ければいいじゃないか」


 そうだ、受験すればいい。

 そんなに大学生活に憧れがあるなら――いやありていに言って、コンプレックスがあるなら。本当の大学生になるのが、それを解消するもっとも手っ取り早い方法だ。

 

 顔をくしゃくしゃにゆがめて葵は吐き捨てた。

「無理ですよ。……高校の三年間、勉強なんて、まるでしてないんだ」

「遅すぎるってことはない。予備校に行ってもいいし、社会人向けの家庭教師を頼むことだってできる。それに、六星社大学じゃなくてもいいんじゃないか? 受験生が集まらなくて、定員割れしそうな大学もたくさんあるよ。簡単に入れる」

 姉の支援で経済的な問題がないというならば、大卒の資格を取ることはたやすいはずだ。


「なんなら、僕が家庭教師をやってやろうか」

 言ってから、しまった、と思った。

 地雷を踏んだ、とも。


 受験勉強を教えてあげる、だなんて。

 葵は、鏡子が自分の上に立とうとしている、ととるだろう。それこそ、彼のコンプレックスを大いに刺激してしまう。


 葵は予想に反して平静な顔をしていた。

 はっ、と軽蔑したような笑いを漏らしたものの、怒り出しはしなかった。

 ほとんどうつろと言ってもいい表情で、鏡子を見つめる。


「はは、は。ぼくはね……もう一つ隠し事があるんです。姉さんにも言ってない。」

 ゆっくりと葵は告白する。


「高校を卒業してないんです。中退なんですよ。大学受験なんてできません。ぼくにはその資格がないんですよ」


 葵は肩をふるわせて顔をそむけた。

 嗚咽が聞こえてきた。


 泣いている?


 鏡子はびっくりした。

 正直、大した違いはないだろう、と思った。

 たとえ高校を卒業していたとしても、ホストをやりながらだ、学力なんかあるわけない。お情けで卒業させてもらうだけなのだから――いや、そういう問題ではない、とすぐに思い至る。


 葵が、異様に「頭が良い」ということにこだわった原因が、わかった気がした。

 痛切に、彼は中退したことを後悔しているのだ。

 大検資格を取ればいいんじゃないか、などと無意味な提案をするつもりはなかった。司法試験の制度を調べることができる彼だ、そんなことはとっくに知っているだろう。

 美伶に高卒資格を持ってないことを打ち明ければいいだけだ。だが、それが彼にはできないのだ。できるのなら、とっくにそうしている。さっきも、実にさりげなく自分のことを「高卒ホスト」と表現していた。


 その嘘は、彼の最後の砦、たった一つの見栄だったのだ。



 

「軽蔑したでしょう」

「いいや。君にとって、それが嘘をついてでも守りたいものだったというなら、それを否定するつもりはないよ」

 葵は聞いていなかった。彼にとって問題はそこではなかった。

「高校中退なんて。バカだと思っただろ」

 口調が急にきつくなった。


 キレた、と感じて鏡子は慌てた。なだめなくては。


「だから、そんなの気にしてないって。高卒だろうが中退だろうが」


 いきなり、葵の顔が間近に迫ってきた。顔が蒼白だった――気温が低いせいではなく。その手が鏡子の両肩にかけられる。ぐいっと手すりに押しつけられる。


 ひゃっ! と思わず声が出た。

「そうかよ。高卒でも中退でも、あんたからしたらバカには変わりないからな! あんたにはその程度のことなんだよな!」


 ああ確かに。僕にとっては、大した違いはないことだが。

 彼にはそれが許せないんだ。


 彼の最後の秘密を知った僕は、そうと知りながら最大の地雷を踏み抜いてしまった。


 僕は、馬鹿だ。



 

 そのまま葵は、鏡子を揺さぶり続ける。がくんがくんと身体が前後する度に、揺れは大きくなり、手すりの外へと上半身が反り返る。眼鏡がずれて、視界が揺れる。華奢そうな見かけとは事なり、葵の力は強かった。


 男だもんな、と今さらな感想が、頭の片隅を飛び過ぎていった。


 危ない、と言おうとしたが声が出ない。葵は、鏡子の身体を屋上へ引き戻そうとはせず、逆に覆い被さってくる。体重がかかり、さらに背が反る、足が屋上から離れかけている。キャスケットが頭から離れ、夜空に飛ばされていった。横髪が顔に刺さる。


「落ちる」

 やっと声が出た。


「落ちるよ、葵くん! 一緒に落ちちゃう」

「知るか、この糞女! なんでもかんでも知りたがりやがって! 中退だってことまで暴きたてて、満足かよ!」

 葵は吠えた。


 君が勝手に話したんじゃないか、と言い返す余裕はなかった。

 かろうじて接地していた足が、浮き上がる。

 ぎゅっと目をつぶる。


 落ちる。

 死ぬ。


 僕はこの、顔の綺麗な男に、頭が悪いくせに妙に繊細なところもあって、熱く文学を愛好していて、それだけを拠り所に、僕や諏訪路先生や桜下さんや、教養ある人間をぶん殴りたくてしかたがないコンプレックスまみれの男に殺される。このまま二人で、うらぶれた路地に落ちて死ぬのだ。無理心中? なのか、これ。


 助かるためにはどうすればいいのか、考える余裕はなかった。頭の中をいろんなことが渦巻くだけで、身体は動かない。言葉も出てこない。諦めているわけでもなく、葵となら一緒に死んでもよい、などとはさらさら思ってもいなかったが、どうすることもできなかった。葵と身体的な闘争になるなどとは、想像もしていなかった。鏡子はただ、目を閉じて、間もなく限界を迎えて手すりを乗り越し、確実な死に向かって身体が落ちていくであろう瞬間を待ち受けていた。

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