第6回 再会
6
ホテル『カヴァルカンティ』二十階のラウンジには葵の名前でテーブルが予約されていた。
店員にコートとキャスケットを預けると、仮添江市を見下ろす窓際の席に案内された。
葵はすでに席についていた。
ジーンズにセーターという普段着の鏡子とは対称的に、葵はジャケットを着てネクタイを締めていた。ほの暗いラウンジの照明の下では、そのスーツは喪服のように黒く見えた。
白い顔を揺らし、微笑む。
「お久しぶりです、錫黄さん。クリスマスイヴらしい場所を選んだつもりでしたが、お気に召しませんでしたか? ずいぶん色気のない格好ですね」
繊細そうな彼の指が、シャンパングラスを弾く。
それには返事をせず、鏡子もバッグを下ろして座る。
オーダーを取りに来たウェイターに、葵と同じもの頼む。
「あまり長々と話すつもりはないんだ。明日、僕は大事な用事があるんでね」
鏡子の宣言に、葵はきょとんとした顔をした。
「そうなんですか。今夜はてっきり、泊まっていかれるだろうと思って、ここに部屋をとってあるんですけどね。もちろん、シングルじゃないですよ」
はは、と乾いた笑いが漏れる。舐められてるな、と情けない気持ちになる。
「すごい自信だな。僕が、そこまで君に惚れてると思ってたのか」
「違いました? ほら、最後にお会いしたとき。鞍馬まで、王炊章一の取材に行かないかと誘ってくれたじゃないですか。あれは、そういうつもりだったんでしょう?」
当然のように葵は指摘する。
「否定はしない」
「王炊章一先生に面会するのは、上手く行ったんですか」
「ああ、会えたよ」
「ぼくも一緒に行きたかったですね。これは本当です」
「君なんかを連れて行かなくて良かったと思っている。君には先生と話す資格がない」
無邪気なその笑顔が凍りついた。
「へえ、どうして」
「君が、先生の作品のファンだからさ」
納得したようには見えなかったが、説明する気もなかった。
運ばれてきたシャンパンのグラスを取って、ぐいと一口飲む。
「乾杯もしてくれないんですか」
「乾杯なんかする理由がないな」
ふ、と葵は小さく息を吐いた。
「どうも、お会いしない間に嫌われちゃったみたいですね」
その端麗な顔、聡明そうな目をじっと見つめる。
嫌いになったわけではない。
盲目的に恋し続けていたかった。
何も見えないままでいたかった。
「それならぼくのことなんか無視すれば良かったのに。なぜ、こんな遠くまで来てくれたんですか? なにか他に、ぼくにして欲しいことでもあるんですか」
「理由を知りたいだけだよ」
「理由」
葵は不思議そうな顔をする。
バッグの中から、レポートの紙束を取り出して渡す。
「これが、君への解答だ。さっさと読んでくれ」
「すごい分量ですね。そんなややこしい話じゃないと思うんですが。でもせっかくですから、読ませていただきます」
両手でそれを受け取り、葵はページをめくり始めた。
待っている間に、鏡子はシャンパンをお代わりした。
窓の外に広がる、冴えない仮添江市の夜景をぼんやりと眺める。
中心部の飲み屋街だけが目立って明るい。周辺はすぐに住宅街で、これといってランドマークになるようなものもない。真っ暗だ。
何か食べなくていいんですか、と葵に促されたが断った。葵はキャビアとクラッカーを頼んだ。キャビアを乗せてクラッカーを口に運びつつ、葵は読みふける。
それを目にすると、キャビアのしょっぱさが想像され、口の中に唾が沸いてきた。
「良かったら」
「う、うん」
皿が鏡子の前に押し出された。クラッカーを一枚、つまむ。
葵が読み終えるまで、長い時間がかかった。
周囲のテーブルからは、次第に人が退けていく。クリスマスイヴらしく、男女の二人連れが多かった。
やっと終わった、と呟いて、葵はレポートの最後の一枚をテーブルに投げ出した。
「これで満足か?」
「満足か、と言われても。ぼくにはとっくにわかっていたことですから」
「うん、そうだな。君は少なくとも三月にはその仮説を立てていた。諏訪路先生をつかまえてその話をしたが、取り合ってもらえなかった」
「よくご存じですね。それも調べたんですか? あの、諏訪路って先生は、頭が固いですよね。どうしようもない」
ははは、と葵は笑った。鏡子はそれを無視した。
「以前から王炊章一、松涛武夫を愛読していた君は、文書館でのバイトを始めて第三次六星社文学を読み、その考えに至った。そうだろう?」
「ええ。第三次六星社文学に興味を持ったのは、もう少し前ですけどね。六辻出流の遺したノートを読んで、知りました」
葵は、隣の椅子に置いていたファイルから、古びた大学ノートを一冊取り出し、テーブルに置いた。
「良かったら、どうぞ」
「読まなくても、中身は見当がついてるからいいよ。それは、六辻出流の贋作構想メモなんかではなくて、六辻が羽生蝉耳の作品『豆と能』を研究したメモかなんじゃないか? いずれにしても、六星社文学とは、何の関係もないノートだ」
「その通りですね。六辻という人は、『豆と能』を上手く換骨奪胎して、作品に活かせないかと考えていたようです」
葵は少し、残念そうな顔をした。
「鏡子さんが、このノートを贋作のキーであると、誤解したままになれば面白いかなあ、と思って。ミスリードさせるつもりで取っといたんですけどね。無駄でしたか」
「小細工だな。でもそれを聞いて、ますます分からなくなる。
君はずっと、僕をせっついていた。『第三者六星社文学の真実に早く気付け』『早く解いてみろ』と、そう言われていたような気がする。あの犯行声明が極めつけだ。なのに、今度は、真相にたどり着かないように妨害しようとしていた、などと言う。君は、ほんとのところ、何がしたかったんだ」
「怪盗文士アオイ、お気に召しませんでした? ぼくは気に入ってたんですけどね。
……どちらでも良かったんですよ。ぼくの考えに、追いついてくれるのでも、的外れな方向に迷走するのでも」
その答えは、鏡子の推測した彼の動機と合致しなかった。
ふうん、と曖昧にうなずいておく。
「追いついた、と君は思っているんだ?」
「ええ。あれだけヒントを出して、やっとですね、と呆れてます。それもこんなまどろっこしい表現で」
と鏡子のレポートを手の甲で叩く。
「鏡子さんがこんな風にごちゃごちゃ考えたということは。王炊先生は、せっかくお会いできたのに何も話してくださらなかった、あるいは、もうお話できる状態になかった、ということなんでしょうね」
「いいや。話してくれたさ。おかげで僕は決定的な確証を得ることができた」
医療老人ホームでの、南老人との対話を思い出す。あれは、自分の願望が作りだした幻聴だったのではないか、と疑ってしまうほどの奇跡的な時間だった。
葵は目を丸くする。
「それならなぜ、こんなレポートを書いたのです。ぼくに、一言言えばすむ話じゃないですか。王炊先生から真実を聞いた、と」
鏡子は手で葵を押しとどめる。
「ああ、僕はどうやら、完全に間違っていたみたいだな。僕は、このレポートで、君を徹底的にやり込めることができると思っていたんだけど。君が頭を下げてくる、あるいは――感謝される、ということすら想像していた。だけど君はまったくそうじゃない。僕にはやはり、君のことがわかっていないようだ」
「そうみたいですね。ぼくにも鏡子さんが何を言ってるのか、さっぱりわかりません。ぼくが、どうして鏡子さんに感謝するんです」
はあ、と嘆息が漏れる。
「僕がこのレポートを書いたのは――君が、最終的にはそれを望んでいるのだと思ったからだ。君は、君の思いつきを、学問的に論証して欲しいのだと、そう考えたんだ。
君は最初、諏訪路先生にそれを期待したけれど、相手にされなかったから、僕に目をつけた。たまたま僕は、王炊章一を研究の題材に選んでいて、諏訪路先生の本から第三次六星社文学に興味を持った。ちょうどいい奴が手近に現れた――というところなんじゃないかと、推測していた。僕にはそんな常識的な理由しか、想像できないんだ」
「後半は合ってますけど、前半はまるで。ぼくの考えを論文に書いて欲しいのなら、鏡子さんに頼まなくても。姉さんのところに下宿していた人たちを頼りますよ。樽田さんと荒見さんは、工学部ですから丸きり畑違いですけど。堀戸さんと阿東さんは、文学部の講師ですからね」
「……専門が違うじゃないか。堀戸先生は近世だぞ」
「でも論文が書けないというものじゃないでしょう」
そりゃそうかもしれないけど、と口ごもる。
「近世の堀戸先生が書いても、発表の場がない」
ふうん、そういうものですか、と葵はそれには興味なさそうだった。
どこまでも彼と僕とはすれ違っていたのだな、と鏡子は落胆を深めていた。
自分が想定していたことはすべて的外れだったらしい。
何か、鏡子には想像の及ばない何かが、葵を突き動かしていた。
それが氷原を割るアイスクレバスのように、二人の間に深い溝を作っている。鏡子はそのクレバスを飛び越すことが、ついに出来なかった
「鏡子さんはこの論文を、明日発表なさるんですか?」
「いいや。発表は別の論文でやるよ。これは、君のためだけに書いたんだ」
やはり葵は、そのことに興味を示さなかった。
窓の外に顔を向けて、話題を変えた。
「姉さんと話したんでしょう? どうでしたか」
「どう、って。何がさ」
「聞いてないんですか? 僕が樽田をはめたこと」
ああ、なんだそんなことか。
話が横道にそれる。
「美伶さんは、『君は関係ない』と言ってた。もちろん僕はそう考えていない。
君は最初から、樽田に――佐富先生を陥れるには有効じゃない計画を教えた。第三次六星社文学についての、偽の真相だ。行き詰まると分かっている計画だ。最初は、ノートを使わせると樽田に言ったんじゃないのか? 構想メモでも研究メモでも見た目は似たようなものだ。部分部分を上手く使えば、十分効果的な武器になっただろう。だけど、君は後になって手のひらを返した」
「そんなすぐばれる嘘をつくなんて。姉さんもどうかしてますね」
「君をかばったんだよ。一面では君に感謝してるからだと思うぞ」
"感謝してるからだと思うぞ"という言葉に反応して、葵は薄く笑った。
「おや、それについては鏡子さんも理由が分かったんですね。恋愛には疎そうだから、わからないかと思った」
さりげなく失礼なことを言う。
僕のことをどんだけ舐めてんだ、と心中、かすかに憤慨する。
「君は――樽田って人が、美伶さんにはふさわしくないと思った。もしかすると、別れさせたかったんじゃないのかな」
「ええ。そうですよ。ぼくは色恋にはちょっとくわしいつもりですから。樽田はダメな男です。姉さんを幸せにはしない。佐富先生が姉さんのことを思い出して、もっと早く接触してくると思ってました。案外、時間がかかりましたね。なんだか桜下さんが、二人をとりもってくれたみたいで。助かりました」
独善的な優しさだ。善意からでも、弟であっても、他人に運命を操られるのは良い気分ではあるまい。だがそれでも、その善意には報いたかったから、美伶は鏡子の前で葵をかばったのだろう。
「ふうん。君たち姉弟は――ずいぶんと、お互いを気遣い合ってたんだな。僕は一人っ子だからわからないけど。姉弟ってのはそういうものなのか」
どうでしょうね、と葵は顔に手をやって、目を隠した。
「いきなり現れた姉ですから。去年まで、自分に腹違いの姉がいるなんて知りませんでしたよ、もちろん。隔たりを埋めたかったんです。ぼくは何か姉さんの役に立ちたかった。それだけです」
安宅美伶と同じようなことを言う。
店内にはいつしか、鏡子たちの他に客がいなくなっていた。ウェイターたちはレジの近くに集まり、礼儀正しく並んで立っているものの、ちらちらと視線をこちらに向けているのがわかる。閉店時間なのだろう。
「場所を、変えないか。ぼくはまだ、一番知りたいことを聞いていない」
「ぼくがあそこにいた理由、ですか」
葵は突然立ち上がって、窓にべたりと両手をあてた。
「うまく説明できるかなあ。自信ないですね。でも場所を変えるのは賛成です。ここから見える眺めは、ぼくには少し、高すぎました」
目がくらみます、とつぶやいて、葵はガラスに額を押し当てた。
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