第5回 仮添江市
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西園と別れた後、鏡子は京都駅で京北線に乗り換えた。
一時間ばかり電車に揺られて、
駅前の広場は、帰宅するサラリーマンや高校生であふれていた。
仮添江市は人口二十万。丹波山地の真ん中にぽかりと存在するこの街は、京都府北部では最大の都市であり、周辺地域の中核をなしている。
鏡子は高校を出るまでこの街に育った。
大学院に上がってからは、一度も帰省していない。
久しぶりに目にする故郷の街は、一見、なにも変化していないように見えた。もともと、これといって取り柄のない、眠っているような田舎都市なのだ。だがよく見ると、広場を取り囲む商業ビルの看板が相当に入れ替わっている。かつてはこじゃれたレストランや名曲喫茶が入っていたはずのビルに、消費者金融と居酒屋の看板がやたらと目に付く。長引く不況の影響はこの街にも押し寄せ、衰退を加速させている。
たった二年で自分が浦島太郎になったような気がした。
ずっと大学都市で生活している鏡子には、不況の深刻化というものは、ネットで読むニュースや、それに群がってコメントされた文字列に過ぎず。実感がなかった。
葵にメールを送り、到着を知らせる。すぐに返信が来た。
「メリークリスマス。九時にホテル『カヴァルカンティ』の最上階ラウンジでお待ちしています」
ホテル『カヴァルカンティ』は、駅から少し離れた、この街では最も高級なホテルだ。二十階建てのそのホテルは、街で最も高い建物でもあった。
鏡子は一度しか入ったことがない。大学に合格した時、両親に、お祝いとして食事に連れて行ってもらったきりだ。
「かっこつけてんなあ。二十歳のくせに」
メールの文面にはそんな感想を抱いた。
まだ時間はある。ひとまず落ち着こうと、鏡子は駅前を抜けて十分ほど歩き、実家のある東仮添江町に向かった。
道路がやや狭い、一戸建てが建ち並ぶ住宅街だ。小さな庭とガレージのついた、似たようなつくりの建て売り住宅の列を歩く。鏡子は一軒の家の前で足を止める。
表札には「木村」と出ている。
塀の奥の二階建ての家、瓦屋根も壁もどことなくくすんだ色合いの古い家は、かつて鏡子が両親と住んでいた家である。土地と家の所有権はいまも錫黄家にある。貸しているのだ。この家からの家賃収入は、両親の計らいで鏡子が受け取っている。仕送りの代わりである。この貸し屋が、鏡子の学生生活を維持する経済基盤なのだ。
鏡子の両親は、現在、ベネズエラにいる。父親は教師だった。退職するまでに海外暮らしがしてみたい、と二年前に現地の日本人学校の校長として赴任した。母もそれについていった。南米の暮らしを、ずいぶんと両親は気に入ったようで、そのまま永住するかもしれないと言っている。
ほんの数秒、木村家の窓から漏れる灯りをながめてから、鏡子はその敷地に足を踏み入れた。木村家には別段、挨拶する必要を感じない。
木村家の隣には、細長い小さな二階建ての建物がある。敷地は貸してある家の半分ほどの広さしかない。一階はほぼガレージになっていて、二階の通りに面した側はガラス張り。
これも錫黄家のものだ。建物は母が営んでいた保険代理店事務所として使われていた。かつては家の隣に建つおまけのような存在だったが、鏡子にとって、いまはここだけが帰省する先である。
ガレージの横にある鉄の階段をカンカンと鳴らして、二階に上がる。
事務所の電気をつけて、窓をあける。
空気の入れ換えが必要だ。
二年分の淀んだ空気を追い出して、来客用のソファに腰を下ろす。
「むう」
思わず声が出る。
海外赴任と共に、母は代理店を廃業した。書類や資料は全て廃棄されており、部屋は空っぽだ。両親に対しても、家を借りている木村家に対しても、文句を言う筋合いはないのだが、その寂しい部屋に座っていると、なんだか家を追い出されたような気分になる。隣の家の間取りを思い浮かべて、少し感傷にひたる。とはいえ、仮に隣の家がそのままであっても、両親がいないのでは、帰省してきても仕方がなかろう。
この街に友だちがいないでもないが、みな働いているか、結婚している。
もう二十四なのだなあ、と久しぶりに自分の年齢を思い出す。
六星社にいると、周りの同年代はみんな学生だし、大人と言えば大学教員だ。誰も年齢など気にしていないかのように思えるし、鏡子もそうだった。
葵がまだ二十歳だということの意味を考える。
諏訪路に向かって、「あなたには本を読む資格がない」と言い捨てたのは、若さゆえの狭量さだろうか。
美伶は葵のことを、教養がない、とこき下ろした。
しかし大学には行っていなくて、ホストとして働いていたのだから、知識水準が高校生レベルで止まっていることは別におかしくない。
むしろ、そうでありながら、王炊章一や松涛武夫のような、ややマイナーな作家まで読んでいることは、褒められるべきなのではないか。
鏡子自身は、王炊章一を読んだのは、学部の三年のころだった。
――葵くんは、子供なのだ。
鏡子はそう結論している。
子供のように純粋なのだ。少なくとも、文学に対しては。
――だから、大人である僕の手を借りようとしたのじゃないか。
一応は、彼の動機を考えてはいる。しかし、「頭」で出した答えには確信が持てない。
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