第4回 西園

 二十四日の午後遅く、鏡子は荷物を持って六星社駅に向かった。荷物と言っても、いつもの肩掛けバッグで、中には例のレポートが一本入っているだけだ。


 駅のホームで、たまたま西園に出会った。

「あら、錫黄さん、偶然だね、こんにちわ」

「あ、どうも」

 大学の帰りだという。伏見から通っているという西園と、否応なく同じ列車に乗ることになった。


 シートに座っても、西園は、相変わらず研究のことばかり話す。鏡子がどこに行くのかにはまったく興味がない様子だった。間近に迫った審査会のことを意識しているのだろうか、テンションが高めだ。人形のように口だけを動かして喋り続ける。

 いい加減、女三宮について講釈を聞くのも、王炊章一について話すのもうんざりした鏡子は、ふと思いつきで問うてみた。


「西園さんは、どうしてそんなに研究に打ち込まれるんです」

「うん? うん?」


 突然の質問に戸惑っている、というよりは、質問の意味がわからないという顔だった。


「いや、その。いつも研究のことばかりお話しになるから。ちょっと違うことを話したいな、なんて思いまして」

「そう? うーん、そうかな? 私は研究してることが私にとってごく自然なことだと思うからそうしてるだけなんだけどな。大学ってそういう場所でしょう」

 それはごもっともである。

「うーん。将来はどうなさるんです?」

「え、そりゃあ。大学で教えるようになるんじゃないかな? 違うのかな? いまもマスターの子たちの研究の相談に乗ったり、TAで学部生の面倒みたりしてるから。そんな感じでなんとなく、教える側に回っていくんだろうなあ、と思ってるよ? 錫黄さんもそうじゃないの? まだマスターだからかな?」


 教える側になる、という発想はまったくなかった。

 同じようにTAを務めたりはしているはずの桜下からも、そんな考えは聞いたことがなかった。


 僕たちは自分のことで精一杯なのだ、と自覚した。鏡子は、研究室のメンバーは、先輩も後輩もまるで興味がない。桜下の場合は、興味はあるだろうが、競争相手、としてとらえているのではないか。だが西園は違う。


 そこにあるのは、小さなギルドに属する同胞、としての意識だ。

 彼女はすでに、自分をギルドの一員と規定して振る舞っているように見える。本当にそうなるのかどうかはまだ決まったわけでもないのに。未来は不確定なのに。


 急に鏡子は、彼女のその確信、自分は大学に残ることができるはずだと心底信じて疑っていないだろう言動が、いらだたしく思えてきた。

 天河が同じことを言っても、腹は立たないだろう。


 何が違うのか。


 一瞬だけ理由を考えた。


 天河が、遠くへ行きたいと思っているから、か。


 彼女の確信は、鏡子の居る場所から離れていくことに向けられている。そこには、ある種の痛快さがある。仰ぎ見るほど遠くへ行ってしまうのではないか、という期待を、見る者に抱かせる。

 西園は、いま鏡子がいる場所に居続けられることを確信している。彼女がこの大学にポストを得て残るということ、それはつまり、鏡子や桜下や、あるいは西園の同期生たちを、この場所の外へはじき出す可能性を内包している。

 その言外の傲岸さが、鏡子を刺激した。

 諏訪路と取引したような格好の鏡子、佐富の失脚を防ごうと暗躍した桜下。西園はそのどちらも知るはずはないが、その態度は、そんな、不確定な未来に向けてあがいてる自分たちを、馬鹿にしたものであるような気がした。


「錫黄さんは、なんか別の話がしたいんだったよね。うーんと……彼氏の話でもした方がいいかな?」


 あ、はい。彼氏さんがいるんですね。


 また別の意味で鏡子はショックを受けた。西園に彼氏がいるかもしれないとは、想像すらしていなかった。しかし、話を変えましょうと自分から頼んだ以上、そんな話はしたくないです、とは言いにくい。しかたなく、鏡子は伏見で西園が降りるまで、その話につきあった。

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