第2回 密約

 2

 それから鏡子は、二ヶ月をかけて二本の論文を書き上げた。

 夏に諏訪路のところで止まっていた準備論文、「ハードボイルド小説としての『無敗の手』」は、無事に『近代國文』に掲載された。


 葵のことを忘れたわけではなかった。むしろそれは、葵の問いに完璧に答えるための準備だった。葵には決して真似のできない緻密さで、真実を論証してみせる。

 鏡子が六星社文学の真相にたどり着いたと聞いて、桜下もそれを知りたがったが、言わないでおいた。王炊章一に面会したことも、伏せてある。どの範囲の人間までがそれを知るべきか――自分が決めてよいことではない、と鏡子は考えている。


 桜下は、まだ葵に連絡しなくて良いのか、と何度かせっついてきたが、それも断った。

 まだ早い、と思った。鏡子は、一部の隙もない解答を突きつけてやるつもりだった。葵の提示した期限は年内一杯。十分間に合うはずだった。


「ほんとにいいんですね? 今なら、すぐに会えると思いますよ? このまま行くと十二月に入っちゃいますよ?」


 十一月の下旬、桜下はそんなことを言った。

 十一月だろうと十二月だろうと大差はない、と鏡子には思えた。


「いいんだよ。放っておいてくれ。それとも、十二月に入っちゃったら、葵くんは何か都合が悪いのか?」

 や、そういうわけじゃないですけど、と桜下は言葉を濁した。

「……わたしが心配してるだけですよ。十二月には審査会もありますからね」

「大丈夫だよ。審査会で発表する方の論文は、もう出来てるんだから」

「ですか。わかりました。わたしが口を出すことじゃないすからね。鏡子さんの気がすむように。では、準備が整ったら言ってください」





 

 書き上がった二本の論文のうちの一本を諏訪路に提出した。

 十二月の一週には、諏訪路はそれを読み終えたらしく、鏡子は教授室に呼び出された。

 もう一本の論文を携えて、鏡子は約束した時間に研究科棟へ向かった。


 ノックして入室すると、諏訪路はデスクから顔を上げた。

「座って座って。コーヒー、飲みたまえよ」

 もちろんこれは、「わたしにも一杯」という意味だ。

「いただきます」

 応接テーブルの上に伏せられたカップを手に取り、いつもの瓶を振ってインスタントコーヒーを二杯作る。カップを一つ、諏訪路のデスクに差し出す。


「ありがとう」

 白いあごひげに湯気を当てて、諏訪路は目を細める。

 最近、とみに機嫌が良い、と研究室の他の学生から聞いている。


「いやあ、いい論文だったね」

「ありがとうございます」

「従来、王炊章一は、ヘンリー・ミラーやロレンス・ダレル、ことにミラーら米国文学の影響を強調されてきた。また、都市小説としての文脈で語られることも多かった……このあたりは君の方が詳しいかね。前の論文で、王炊がチャンドラーをいち早く原書で読んでいたことを指摘していたよね。今度は、それを踏まえつつも、近代日本文学の文脈で、『無敗の手』を読み直すという試みのようだね。『無敗の手』が、羽生蝉耳の『豆と能』の構造を越えようという試みであった、という理解で、良いかね?」

「はい、そのつもりです。王炊章一は、自著でも何度か言及していますが、第三次六星社文学に強く影響を受けております。ことに、羽生蝉耳の、近代的自我を相対化するというスタンスに惹かれていました」


「それなんだが」

 諏訪路はあごひげを撫でて、いぶかしそうな顔をする。


「王炊がしばしば引用したのは、羽生の第一号の方の作品……『砲と足』だったように記憶してるんだがね。そちらは、触れなくて良いのかね? いや、この論の展開からすると、必要ないとは思うんだが……」


 意図的に、それは避けたのだった。

 第一号の『砲と足』――羽生蝉耳を模して王炊自身が書いたその作品を論旨に組み込むことはできない。


「『砲と足』については……別の論じ方を考えていますので」

「ほう、次のネタ、というわけかね。意欲的だね」

 諏訪路はうれしそうだった。


「はい。王炊章一の、最初期の習作、という位置づけで、いつか論文を書いてみたいと思っています」

 淡々と鏡子はそう告げた。


 ぽかん、と諏訪路は口を開けた。

 それから、時間を稼ぐように、コーヒーに口をつける。


「それは、どういう……ことなのかね」


 諏訪路の声には、驚きと共に、用心深そうな色が含まれていた。鏡子の言葉は、彼にとってもまったく意外なもの、というわけではなかったらしい。その可能性もあるかもしれない、と鏡子も考えていた。なんと言っても、諏訪路は三十年間、六星社文学を研究してきた――おそらく国内唯一の専門家だ。


 鏡子は、バッグから取り出したもう一本の論文を差し出した。

「少し、目を通していただけませんか。論文というよりは、簡単なレポートのようなものですので、時間はかからないと思います」

「うん」

 そっと、しなびた細い手が差し出される。紙束をつまむその指は、どこか駒を挟む王炊章一のそれを思い出させる。


 第二の論文は、葵に見せる予定のものだった。

 タイトルは「第四次六星社文学」。


 現在、第三次六星社文学第一号とされているものが、王炊章一を初めとする、昭和二十年の六星社大生によって執筆された、模造文集であることを論証しようとするものだ。

 あくまで、その方法は作品の比較検討によって行っており、王炊章一の証言を使用してはいない。


 最初に諏訪路に見せた論文と同じく、序論は王炊の「無敗の手」と羽生蝉耳の影響関係から始まる。羽生蝉耳のものとされる二作のうち、「砲と足」はテーマ的に「無敗の手」と著しい相似関係にあること、モチーフの使い方や文章技法の相似点においては、「豆と能」をしのぐ、という指摘から始まる。

 鏡子の論は、「無敗の手」と「砲と足」の影響関係が、「豆と能」の時とは異なって、双方向的であるとひとまず結論する。双方向的である、ということは、「無敗の手」が「砲と足」に影響を受けたのか、その逆であるのか、作品発表の時系列を無視すれば確定できなくなる、ということでもある。一方で、羽生蝉耳の作品「砲と足」と「豆と能」の関係は、同様の方法を用いて検討していくと、必ずしも双方向的ではないことも明らかにされる。


 ここで初めて、論題が提示される。第三次六星社文学第一号への疑義である。

 本論の最初では、まず第三次六星社文学第一号の、実在性が検討される。

 同時代における第三次六星社文学への言及は少ない。まれに参加者名を挙げたものもあるが、作品名や内容に踏み込んだものは存在しない。第一号と第二号は参加者も同一であるから、これらの証言が、第一号について言及したものか、第二号準備稿について言及したのか、断定することは難しい。

 最も強く実在性を保証するのは、執筆者の一人、加藤陽文の日記であるが、鏡子はその記述もまた、第一号の作品に関して述べたものではないことを確定させる。


 次の章は短く、王炊章一と同期の、昭和中期の作家たちの交友関係と、その著作での六星社文学への言及が検討される。彼らが真の執筆者ではないかという仮定を立てて、次に進む。

 三章からは、第三次六星社文学第一号の作品の検討に入る。

 作風や、著作での言及から、ひとまず王炊=羽生、松涛=加藤、壺洗=藤井、千佃=米長、と比定する。

 第一号の作品群中から、羽生、加藤、藤井、米長、四名の作品を取り上げ、第二号準備稿における四氏の作品、及び王炊章一・松涛武夫・壺洗凱章・千佃哲也、四人の初期作とを比較する。果たして、昭和中期の四人の作家の作品と、第一号の作品群同一人物によって書かれたはずの作品は、いずれも双方向性のある相似性が存在する一方、第一号と第二号の作品群には、双方向性は存在しない。


 鏡子は特に、作中に描写される小さなモチーフの扱いに注目する。

 書き手が、大正期の学生文士であったとしても、王炊たちであったとしても、若い青年であることには違いがない。いかに書き手として優れていても、知識と経験の乏しさは隠しきれない。自在に扱えるモチーフというものは少なく、限られている。作中に配置する小道具を、そうそう器用に増やすことはできないということだ。

 王炊たちの初期作と、第三次六星社文学第一号の諸作はその面でかなりの近縁性を持ち、一方で第一号と第二号準備稿においては、その面では近縁性が乏しい。大正と昭和、という時代的隔たりも考慮すると、これは書き手の同一性・非同一性を考える上では決定的に重要なファクターだと鏡子は指摘する。



「結論の章は読まなくて、いいかね。つまり、君は……。第三次六星社文学第一号は、終戦直前に王炊章一らが作った模造品。いわば第四次六星社文学、とでも呼ぶべきもので。いまは第二号準備稿と呼ばれている原稿を、本当の第一号だと考えるべきだ、と言いたいのだね」


 諏訪路は手を止めて、レポートをデスクの上に置いた。

 口を半開きにして、弱々しく諏訪路は微笑んだ。かすかにその薄い唇が震えていた。


「見事だね。見事な論考だよ。わたしには、これを否定することはできないよ。定年して、大学を離れてから読みたかったなあ。二本書いてきたのは、どうしてだい? わたしに気を遣ったのかね」


どう答えたものかな、と鏡子が迷っているうちに諏訪路は続けた。

「いっそ、こちらをもう少し書き足して、審査会で発表してもいいんだよ。夏の騒動の後だし、公刊したら話題性は抜群だ。

 遠慮しないで、私の無能ぶりを告発してくれたらいい。

はあ。自分に失望したよ。わたしはのろまなだけじゃなくて、間抜けだったね。三十年もやってて、気付かなかったんだから。いやいや、第一号と第二号では、モチーフにばらつきがあるな、というのは、本をまとめている時に気付いてはいたんだよ」


 諏訪路は一人で話し続ける。

 魂の抜けたような顔つきだった。第三次六星社文学の諸作について、鏡子の提示した視点に沿った、より細密な文体検証を、とめどなく喋り続ける。独り言は、鏡子がコーヒーを飲み干しても終わらない。しかたなく、それをさえぎる。


「あの、僕は先生を告発するつもりでこれを書いたわけじゃないんです。発表は、王炊章一論でやります。あっちの方が、まとまりもいいし……評価されやすいと思いますので」

 諏訪路は初めて声を荒らげた。

「告発するつもりじゃない? じゃあどういうつもりだと言うのかね。こんなもの読まされた時点で、わたしはもう、死にたくなったよ。明日から大学に出勤してくるのが嫌になった。期末まであと四週くらいだっけ? もう全部休講にしてしまおうか」


「僕はただ、採点して欲しかったんです」

 採点? と諏訪路は怪訝そうな顔をする。

「僕の考証に誤りがないか判定できるのは、諏訪路先生だけしかいませんから」

 なんたって専門家ですからね。

「採点なんか、するまでもないさ。補足するとより良くなる点がいくつかあるけれども、どれも些細なことだ。満点ではないとしても、九十五点だよ。Aプラスだよ。

 ……ほんとに君は、これを発表しないつもりなのかい?」

「ええ。それも考えないでもなかったんですが。影響が大きすぎる、といいますか。僕の手には余る問題のような気がしまして」


 公刊されてしまえば、少なくとも研究者の間では知れ渡る。諏訪路の面子は丸つぶれだ。それだけでなく、六星社大文学部の評判も失墜するだろう。自分の発表一つで、そんな騒動を引き起こして良いものか、というためらいがあった。

 

安楽椅子の背に、諏訪路の頭がずるずるとずり下がっていった。デスクの上には顔だけしか見えなくなった。

 何か考え事をしているような顔で、諏訪路はつぶやく。

「夏の騒動なんて茶番だったね。六辻さんが『豆と能』を贋作をするなんてことは、ありえなかったわけだ。王炊章一らがいたころには、参考にするべき作品が、ちゃんと揃っていたということなんだろうな」


「あ、僕は王炊先生とお話したんですよ」

 鏡子は手短に、王炊との面会の様子を聞かせた。

 それを聞いているうちに、諏訪路の声は少し落ち着いてきた。


 戦後、贋作が本物になってしまったことは王炊らにとっても意外だった、という話を聞いて、笑い声を上げた。

「ははは、中身を誰も読んでいなかった、だって。戦前の六星社大の文学部なんて小規模なものだったからね。そういうこともあるかもしれないな。あるいは、当時の先生たちもおかしいと思ったけれど、そのままにしたのかもしれない。蔵書も目録も空襲で焼けてしまって、大学はとにかく本が足りなかったみたいだからね。何でも良いから、収蔵するものがないと格好が付かなかったんじゃないかな。終戦のどさくさで、色々なことが杜撰なままになったのさ」

 デスクにあごを載せて、上目遣いに鏡子を見る。

「正直、発表しないでいてくれるとありがたいよ。大学のためにもね。研究助手が取れても取れなくても。君が博士号取ったら、講師として研究室に残れるように便宜を図ろう。えー、残るんだよね? 博士課程後期に」

「はい、そのつもりです」


 それから、諏訪路は少しだけ小ずるそうな目をした。

「告発するんじゃなくて、取引しようと考えるなんて、君は賢いね。女の子は怖い怖い」


 取引を迫ったつもりはなかったのだけどなあ、と鏡子は心の中で頭をかく。とはいえ、せっかく将来の講師の座を約束してもらえたのだから、否定する必要もない。


「これを論文にして発表するのは、わたしが定年退職してからにしてくれたまえ。いやまて、そこまで待たなくてもいいか。三年後に、わたしと共著という形で、本にしないかね」


 おっと、共著と来たか。先生も図々しい……。


 鏡子は表情には出さずに苦笑する。

 過ちは、自らの手で正してみせると称賛されるものだ。それが実現すれば、諏訪路にとっては名誉を傷つけないどころか、むしろ名声を高めそうないい解決ではある。

 だが鏡子にとっても妥当な提案だ。仮にこの草稿の出版を望んだとしても、若い研究者一人の名前だけでは、出版社も取り合ってくれない。

 三年後、というのは科研長の任期が切れる時だからだろう。諏訪路はすっかり科研長になる気でいるらしい。


 こほん、と咳払いをして話題を変える。

「ははあ。考えておきます。……三年、ということは、先生、科研長選挙、上手くいきそうなんでしょうか。信任投票ですよね?」

「うーん、そんな話も知っているのかね。君は油断がならないねえ」

 諏訪路は苦笑した。

「話してあげてもいいだろうね。佐富先生が降りた代わりに、草野先生が推されたんだ。わたしと一騎打ちさ。わたしは、草野先生に比べると業績がちょっぴり見劣りするからなあ」


 ちょっぴり、という程度ではない気がしますが、先生。


「結局、君が頼みってとこさ。君が、審査会で研究助手を勝ち取ってくれたら、それもわたしの手柄だ。王炊章一論でも、十分いけると思うよ」


 諏訪路はもぞもぞと身体を起こした。デスクから出てきて、鏡子に手を差し出す。

 あわてて鏡子も立ち上がって、その手を握る。


「がんばってくれたまえ」

「はい」


 鏡子はやっと、正式に諏訪路の弟子になれた気がした。格別、諏訪路を尊敬しているわけではないけれども、誰かに認められるというのは、悪くない気分だった。晴れてギルドの一員となった、という感触があった。アカデミックの世界は秘密結社に似ている。院試や博士号といった、広く開かれた通過儀礼をクリアしたとしても、それだけで結社の一員として認められるとは限らないのだ。





 部屋を出る前に、諏訪路から一つの告白を聞かされた。

「実はね、錫黄くん。わたしは、以前にも君と同じ説を突きつけられたことがあるんだよ」

「そうなんですか?」

 レポートを読んだときの反応から、もしかするとそうではないかと思っていた。

「うん。春休みのオープンキャンパスでね」


 オープンキャンパスは、主に学外の人間に向けて開講されている、短期間の集中講義で、高校生でも暇な社会人でも、事前に申し込めば誰でも参加できる。市民サービス的な色あいが強い、その講義の一コマを諏訪路は受け持っていた。講義が終わった後で、諏訪路は一人の青年に話しかけられた。

「二十歳くらいかなあ。高校生には見えなかったから、どこか他大の学生かもしれないけど。彼はなかなかイケメンでね。教室でも熱心に質問していたんだ。長くなりそうだと思って、喫茶室に誘った。そこで彼に言われた。『第三次六星社文学第一号は、松涛武夫や王炊章一の作品とそっくりだと思うんですが、先生はどう思われますか? あれは、彼らが作った贋作なんじゃないんですか』とね」


 葵だ。それはきっと葵に違いない。想像しただけで、鏡子の心臓が高鳴り始めた。


「先生は、なんとお答えに」

 決まってるじゃないか、と諏訪路は笑った。

「『順番が逆ですよ、松涛武夫や王炊章一が、六星社文学に影響されてるんです』。そう言ったよ。もしかするとその時、わたしは少し、どきりとしたのかもしれないが。だとしても大して気にかけなかった。時々、突拍子もないことを言い出す素人、というのがいるものだしね。青年も、その類だろう、と思った。

 しつこく食い下がられたけど、わたしは同じ答えを繰り返した。自分の本の出版も控えていたしね、わたしとしてはそう言うしかないじゃないか」

「それで、青年はどうしました?」

「わたしが相手にしてないと気付いたんだろうね、捨て台詞を残して帰って行った。なかなか、強烈なことを言われたよ。『あなたには本を読む資格がない』だったかな」


 なるほど、葵の言いそうな言葉だ。


「君は知らないだろうが。夏休みに、文書館で六星社文学が一冊盗まれて、変な落書きが残されるという事件があった。佐富くんが襲われたのと同じ日にね。文書館の受け付けだった、若い男がやったんだそうだ。それを聞いて、わたしは真っ先に彼のことを思い出した。文書館には行かないから、確信はないけれど、同一人物だったのかもしれない。錫黄くんは、知らないかね」

「いいえ。全然、知りませんね」

 すらりと嘘が口から出る。

「そうかね、うん。その男がどういう人間か知らないが、なかなか鋭い所を突いていたということだ。素人でもまぐれ当たりはあるからね。君が書かなくても、六星社文学の真相は、いつかは暴かれる運命なのだろうねえ」


 へえ、そんなことがあったんですね、と当たり障りのない相づちを打つ。


 諏訪路は安楽椅子に掛けていたジャケットを手にとった。

「今夜は佐富くんの新居に呼ばれているんだ。妻と一緒に夕食をご馳走になる。わたしも下に降りるから一緒に行こう」

佐富は安宅美伶と十月に挙式した。

「佐富先生の奥さんの手料理というわけですか」

 あの、安宅美伶というやたらと若作りで派手な女性が台所に立って料理をする姿は想像しがたい。

「それが、新しい奥さんは料理が苦手だそうでね。代わりにお金ならいくらでもあるんだそうで……わざわざレストランからシェフを呼んで作らせるそうだよ」

「それは贅沢ですねえ」

 鏡子は目を丸くする。だが、彼女らしいもてなしという気はする。



 ジャケットに袖を通した諏訪路と共に、鏡子は教授室を出た。人気のない廊下は煌々と電灯に照らされていた。

「女性が料理をするとは限らない時代なんだなあ。君は、料理できるの?」

 ぼちぼちですねえ、と目を逸らす。

「男を落とすなら料理の腕を磨くに限ると、わたしは思うんだよねえ。胃袋をつかんでしまえば楽勝さ。ほら、もうすぐクリスマスじゃないか。君、彼氏とかいないのかね」


 あっはっは、とさらに誤魔化す。

 葵の顔が浮かんだが、むしろ苦い気持ちになる。


「僕もせいぜい。料理の練習に励みますよ。論文書いても、モテないですしね」

「まったくだよ! 論文なんかいくら書いても、女の子にはモテやしない。わたしは六星社大に就職が決まってから、やっとそれに気付いたんだ。それからは空しすぎて研究する気がなくなっちゃったよ。……なんとか結婚はできたけども、その後も論文はさっぱり書いてないんだから、これはいいわけだがね」

 と諏訪路は肩をすぼめる。


 二つ目の、意外な告白を聞かされて、鏡子は吹き出しそうになった。業績皆無の理由がそんなところにあったなんて。なんとか笑いをかみ殺したが、頬がゆるんでしまうのは止めようがなかった。

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