第16回 プッシング
16
その日の夜、雨流館の小ホールでは寂しい宴が催された。
テーブルの上にはつまみはない。氷の中にワインボトルが突っ込まれたワインクーラーだけが置かれている。
美伶は、以前からの習慣通り、古びたソファに寝そべって煙草を吹かす。桜下はカーペットの上に立て膝をついて座り、グラスを傾ける。宴の参加者は、桜下と美伶の二人だけだ。堀戸たち、三人の従者がいなくなったいま、美伶から発せられていた女帝の風格もすっかり失われてしまった。四月の初めのように女帝に気を遣うこともなく、桜下は大学の友人と飲んでいるような気楽さでワインを楽しんでいる。美伶が自邸から持ち出してきたそのビンテージワインは、あまり酒に詳しくない桜下にもわかる程度には複雑で、濃厚な味わいだった。
開け放した窓から、生ぬるい晩夏の風が入り込んできて、美伶の吐き出す紫煙と入り交じり、桜下の頬をなでる。
「
桜下の下には、葵からメールが届いていた。
「いまは、あちこち知り合いのところを泊まり歩いてるようですねえ。京都、大阪、神戸、と転々としているみたいっす。鏡子さんが会いたいと言ってきてから、待ち合わせ場所を決めるつもりのようで」
「ふうん。日時はどうするの」
「年内一杯ならいつでも、とのことです。日取りはこちらの指定に合わせると。……なんでわたしを通すんですかね。直接やりとりすればいいのに」
そりゃあ、と美伶は言葉を切った。
ぼんやりとした目つきで、桜下を見つめる。
「あの子が、桜下さんに恩を感じてるからじゃないかしらぁ」
「わたしに?」
桜下には心当たりがない。葵のために、何かしてやったという覚えはなかった。
「一方的に借りを感じることもあるでしょう。桜下くんにとっては当たり前のことでも、彼にとってはそうじゃなかった、のかもしれないじゃない」
「ははあ? そうだとしても、鏡子さんとの連絡にわたしを介することが、どうして借りを返すことになるんでしょうねえ。わたしの手間が増えるだけじゃないすか」
桜下は首をひねる。
「その立場に、使いようがあるんじゃないかしら? 桜下くんとあの探偵ちゃんは、まだ敵同士なんだから」
「そういえばそうでした、が。研究助手の論文と、関係なくないすか」
テーブルのワインクーラーからボトルを引き抜き、美伶はぐびぐびとそれをラッパ飲みする。
「きみ、お友だちのことになると、察しが悪くなるのね。ちょっと思い出話をするわよ」
「はあ、どうぞ」
いつもながら唐突だ。
「高校の時ね。わたしバスケ部だったの。意外でしょう? 三年の最後の全国大会で、市の決勝に残ったわ。点数的には接戦だったけど、じりじりとチームは劣勢になっているのを感じていた。コートを走り回りながら、わたしは何か決定打はないか、と焦っていた。このままだと、最後の最後まで、勝敗はわからない。そのプレッシャーに耐えながら、プレイし続ける自信を失いかけていた」
「はい」
「相手チームのフリースローでゲームが一瞬止まった時、ラインそばに立つわたしを、コート外から、友人が目で呼んでいた。気配を感じてそちらに目をやると、友人は、そっと、わたしだけに見えるように、手を動かした。そっと、、突き飛ばす仕草を二度繰り返し、こくりとうなずいた。わたしは何を言いたいのか理解した」
「審判の見てないところで、相手チームの選手をプッシングしろ、ってことすか」
「そういうこと。突っ転ばせて、あわよくば怪我させて退場に追い込む。決勝で観客も多いからね。審判を誤魔化しても、必ず誰かが見ている。試合が終わった後で非難されるでしょう。でも、試合の流れは変えられる」
「やったんすか」
「どう思う?」
「できなかったんでしょう」
桜下はへらっと言い切った。美伶は、そこまで勝ちにこだわれる人間ではない。なんだかんだ言っても、お嬢様育ちなのだ。
顔をしかめて美伶は煙を吐く。
「やるつもりだったわよ。でもなかなかチャンスがなかった」
ためらってたんすね、と桜下は美伶の言葉を翻訳する。
そういうのは、ためらったら負けです。
「そうこうしてるうちに……。相手チームがそれをやったわ。うちのエースはひどい転び方をして手首をひねり、しかもこちらがファールをとられた」
「えげつないすね、相手も」
「もちろんわたしたちは負けたわよ。試合の後で、友人からなじられたわ。『いくじなし』って」
「なかなか面白いお話でしたねえ。おかげで葵くんの意図も、なんとなくわかりましたよ」
「審査会の日は十二月の何日?」
「二十五日っす」
「クリスマスとは、ちょうどいいじゃないの」
要するに、葵が鏡子と会う日時は、桜下が自由に決めることができる、ということだ。
それを利用して――論文の審査会当日を指定することもできる。
葵は、よほど自信があるのか。
鏡子が、審査会と葵なら、葵を選ぶと思っているのだ。
ずいぶん鏡子さんを馬鹿にした話です、と思いつつも、それが効果的であることは桜下も認める。いまのままなら、おそらく――鏡子は、葵に会いに行く方を選ぶのではないか。それとも、十二月までには気持ちが醒めてしまって、葵など無視するだろうか。
「それにしても、わたしは彼に低く評価されてるんすねえ。そんな手を使わないと、鏡子さんに勝てないと思ってるんですかね? こう見えても、けっこう同期の中では将来嘱望されてんですよ? 失礼な話です」
初めて投稿した論文が無事査読を通過して「批評世界」に掲載されたことで、桜下は学究としてやっていく自信を深めていた。
「宏大も、その手を使え、とは言ってないじゃなぁい。それは桜下くんが決めることよ」
「コートの外から手真似で指示されてるのと、同じだと思いますけどね」
そうね、と美伶は認める。
「あの子の気遣いは、わたしたちにはちょっとずれてるのよ」
「わたしたち、ってのは、美伶さんに対してもです?」
ボトルをクーラーに戻した美伶は、氷をいくつも口に放り込む。ぼりぼり、とそれを噛み砕く。
「そうよ。わたしやら、桜下くんやら。探偵ちゃんやら、よ。なんなら、樽田や佐富先生、諏訪路先生たちを含めてもいいわ。気遣いというより、根本的な距離感かしらぁ?」
わたしたちは住んでいる世界が違いすぎた、と美伶はやるせなそうにつぶやく。
「別にわたしは。佐富先生じゃなくても。これまでどおり、ずっと樽田を養ってあげても良かったのよ」
その告白に桜下は驚いた。
「そうだったんですか? え? えええ? それじゃ、どうして」
「うるさいわね。いいのよ、わたしはどうでも。どうせわたしは、自分で何一つ決められないお嬢様なのよ。審判の目をかいくぐってプッシングできるような根性があれば、佐富先生なんか八年前にとっくに落としてたわよ」
返事に困って、誤魔化すように桜下はボトルを取り上げた。その手首が、突然つかまれた。厚く飾り立てられたネイルが、肌に食い込む。
「いたたっ。なんですか」
寝そべったまま、美伶はささやく。
「十二月の発表には、未来がかかってるんでしょぉ? 桜下くんもいい年なんだし。コートに立つんだったら、迷わずにプッシングしなさいよ。あの探偵ちゃんは、正真正銘の蛮族よ。でも、あんたはわたしと同じでお上品な人間。色んな人に愛想良くして、気を回して、大事じゃないものに縛られすぎるのよぉ。論文なんて読まなくてもわかる。普通にぶつかったら、あんたは絶対勝てないわ」
そんなことは、ない、と言おうとした。しかし出てきた言葉は逆だった。
「……そうかもしれないっすね」
「桜下くんが勝ったら。あのロト6の当たりくじ、あげてもいいわよ」
「へえ、そりゃ魅力的です」
美伶の手を振りほどき、残り少ないワインをグラスに移す。
音を立てずにそれをすする。
「どうするかは、その時までに考えておきますよ」
口に含んだワインが、さっきまでより苦みを増したような気がした。
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