第15回 姉
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「ずいぶん寂しいところだな。僕はこのあたり、歩いたことないんだ」
道々、コンビニが一軒あった他は、民家もぽつりぽつりとしか建っていないことに驚いた。鏡子の住む学生街とは大違いだ。
「市街地と反対側ですからねえ。ほら、ここを越えると近道なんです」
言われるまま、鏡子も生け垣の破れ目を越えて敷地の中に足を踏み入れる。
「うお。これは」
雨流館を初めて見た鏡子の感想は、「時間が止まっている」というものだった。コーポ六辻も昭和建築の香りが漂う、古くさいものだったが、そんなレベルではない。
次いで、「緑色の館」だと思った。
緑に塗られた急角度の屋根が、陽の光を反射してきらめいている。それだけでなく、窓も板張りの壁も、屋根の真ん中から突き出た時計塔の文字盤も、伸び放題の蔦で覆われている。黒いチョコレートケーキを、緑色の抹茶クリームでデコレーションしたかのようだ。
「どうです。すごいでしょ」
築造は昭和初期だというが、もっと昔、明治や大正に建てられたと言われても信じてしまいそうな、レトロ感満載の洋館である。
窓が開け放たれている二階の一室が、桜下の居室だそうだ。
「静かだな。他の人は外出してるのか」
きょろきょろと周囲を見渡す。桜下の居室以外、窓は全て閉ざされており、館を囲む木立にも人の気配がない。
「実は、いまここに住んでるのはわたしだけっす。昨日、最後のお一人が引っ越していかれましたからね」
「え」
「さ、中にどうぞ。美伶さんが来るまで、ロビーでお話しましょう」
中央に広い階段を備えたロビーには、向かい合った一組のソファーとテーブルが置かれていた。テーブルの上には、巨大なガラスの灰皿が乗っているが、吸い殻は一つもない。
「広いなあ」
ソファにもたれた鏡子は思わず声を上げた。隣に桜下も腰を下ろす。
階段が場所を取っているので、実際はそんなに使えるスペースはないのだが、二階まで天井が吹き抜けになっているので、開放感がある。
「昔はここに電話が置いてあったそうです。黒電話の時代ですね。んで、下宿人が交代で電話当番をやってたんだとか」
「へえ。しかし学生下宿としちゃ、ものすごく快適そうじゃないか」
「ええ、快適でしたね。同居人たちには困らせられましたが」
桜下の言葉から、最近までは入居者がいたことを知る。
「その人たちは、どこ行ったんだ?」
さあ、と桜下は肩をすくめる。
「六星社市からは出て行ったんでしょうね。もういる意味がないですから。ここに住んでいた人たちは……や、ここにはね。堀戸講師も住んでいたんですよ」
免職になった近世専修コースの非常勤講師の名を、桜下はさらりと口にした。
「堀戸先生が!?」
「それだけじゃなくて……。四月に、鏡子さんが怪文書を撒いてる犯人だと推定した、西洋史研の『川上』、仏文の『山田』も住んでいたんです。本名は、阿東さんと荒見さん」
思わず桜下の横顔を見る。
いひひひ、と悪戯がばれた子供のように桜下は笑った。
「そうなんです。聞き込みをする前から、わたしは犯人を知ってたんですよ」
「もしかして、桜下さんも怪文書を? いやそれはないか。それなら、聞き込みを邪魔するよな」
「はは。できれば妨害するように言われてましたよ。わたしはそんな気、さらさらなかったっすけどね。鏡子さんの捜査が上手くいくことを望んでました」
桜下は、この下宿に集った三人と樽田、そして安宅美伶のことを話した。安宅と佐富をとりもって、樽田の企みを阻止したことも。
鏡子にとってはどれも耳新しい話だった。ネットで盛んに諏訪路たちをパッシングしていたのも彼らだと聞いて、不思議な気分になった。無意識のうちに定めている、ネットとリアルの境界線が揺らいだ。もちろん、ネットの向こう側には本物の人間がいて、一人一人生活を営んでいることはわかっている。だがしかし、鏡子にとってそれは十把一絡げに、ブラウザの向こう側の住人たち、「ネット民」だ。鏡子がネットに書き込む時、その書き込みを読む誰かにとって、鏡子もまた「ネット民」という情報共同体の一部に過ぎなくなる。
桜下の話には、着ぐるみショーの舞台裏を見せられたような残念さがあった。遊園地のネズミやウサギの中に入っている汗だくのおじさんの姿など、誰も見たくないのだ。
「じゃあ、堀戸先生たちが、ここから出て行ったのって。安宅さんが佐富先生と婚約したからなのか」
「そうです。愛人だった樽田さんも含めて……皆さん、美伶さんを好きでしたからねえ。恋していた、というのもちょっと違いますが。ある意味、それ以上です」
「安宅さんは、お姫様みたいなもんか? 研究室に一人だけ美女がいると、みんなちやほやするし、いいなりになっちゃうだろ。そんな感じ?」
ですね、と桜下は笑う。
「女子が少ないサークルやゼミでは、どことも、よくある話です。美伶さんはまさに我が儘お姫さま、すよ」
そうであるとしても疑問は残る。
「うーんとさ。樽田って人は、安宅さんに突然裏切られたことになるよね。どうして警察に安宅さんや、堀戸先生たちのことを話さなかったんだろう」
「わたしもてっきり、ここの皆さんも警察に呼び出されて注意くらい受けるんじゃないかとおもってやしたがね。樽田さんて人は……ずいぶん、男気のある方だったようで」
「男気?」
「美伶さんは、昨日樽田さんに面会に行きました。美伶さんを非難したりもせず、『佐富先生とお幸せに』と言ってくれたそうです。
なにもかも、一人で黙って引き受けることにしてるんでしょう。『そういうのが、男らしい行動だと思ってるのよ』と美伶さんは言ってましたっけねえ」
「ふうん。そういう人なのか」
それは、僕にはわかりようがないことだな、と鏡子は考える。樽田という男がそういう決着のさせ方を選んだのだ。理解できるのは、樽田本人と安宅美伶だけだろう。二人には二人の時間とドラマがあったということだ。
「そのおかげで他の人たちは誰にもおとがめなし。それなのに、堀戸先生がツイッターで婚約のことを暴露したのはどうしてだ。あんなアカウント、すぐに特定されるに決まってるじゃないか」
「自爆テロ、っすね。どうせ大学は辞めるつもりだったようですし……。美伶さんには、『法廷でまたお会いしましょう、ふひひ』なんて言ってたそうです」
玄関ドアが開いた。
「おっと、お姫様のおなりです」
ロビーに安宅美伶が現れた。
歩み寄ってくる彼女の服装に、鏡子は目をむいた。美伶は、いつもよりさらに派手に着飾っていた。ミニスカートも、露出の多いタンクトップも、その上に羽織った薄いショールも、ミュールも、けばけばしい原色。ショールに散りばめられたラメがきらきらと輝いて存在感を主張している。
――ど派手なオバサンだなあ!
なんとなく気圧されたまま、立ち上がって帽子を取る。
美伶は鏡子を見ると、不満そうに綺麗な書き眉をしかめた。
「あら、ちょっと。この子、ずいぶん地味じゃないの。話が違うわ」
その非難するような声は桜下に向けられたものだった。
「え、はあ」
桜下は困ったような顔をしている。非難される心当たりはなさそうだ。
「『美少女探偵』なんて言うからぁ、がんばって張り合わなくちゃと思って気合いいれてきたのに。なんかすごく……普通の子じゃないの」
美少女探偵??? 誰のことだよ、と桜下をにらむ。
「そんなこと言ってませんて! 『美少女探偵』って呼んでたのは、堀戸さんだけじゃないすか!」
「え、堀戸先生が僕のことをそう呼んでたのか」
美少女、だと。もしかすると、堀戸先生は僕の隠れファンだったのかもしれん、としょうもないことを考える。
じろじろと鏡子の全身を眺めてから、美伶は向かいのソファにどっかりと腰を下ろして足を組んだ。
「ま、いいわぁ。しばらくこの子とお話するから、桜下くんは引っ込んでて」
「はいはい」
では失礼します、と手を振って、桜下は階段を上がっていく。
おい待てよ、と引き留める暇もない。てっきり同席してくれるものだと思っていた。
美伶は煙草に火を点ける。煙が高い天井へと昇っていく。
「ほら、座りなさいよ」
命令することになれた、傲慢な口調だった。
少しむっとしつつ、鏡子も座る。
美伶は一口だけ吸った煙草を灰皿になすりつけるようにしてもみ消す。
「あなた、いくつ」
ぶっきらぼうに問われる。
「今年、二十四になりますね」
「ふうん。わたし三十二」
それきり口を閉ざして、美伶は鏡子から目を反らす。新しい煙草を取り出し、火を点けずに指の間でもてあそぶ。
三十二歳ですかそうですか。だからなんだと言うのだ。
居心地の悪い沈黙が続く。
葵のことを知っているというなら早く聞きたいのだが、年齢などという予想外の質問に、出鼻をくじかれた。安宅美伶は、他人に会話の主導権を譲らないタイプのようだ。大人しく続きを待つ。
「学者になるの?」
「えーそうですね……。いまんところ、そのつもりでがんばってますが」
「あ、そう。研究助手だかのポストを、桜下くんと争ってるんでしょ。どう? いけそうなの」
桜下とだけ争っているわけでもないのだが、美伶に説明する必要を感じない。
「どうでしょうか。先生方に審査していただく身ですから」
「探偵ちゃんが、そのポストを取ったら、諏訪路先生は科研長なんだそうよ」
鏡子に名前を聞く気はないらしい。
探偵ちゃんでも何でも好きに呼んでください、という気分だった。
「え、はあ、まだ決まったわけではないでしょう」
「ほぼ決まりなのよ。佐富は降りるから」
それは知らなかった。
「もしかして、あの事件のせいですか?」
当然といった顔で美伶はうなづく。
「佐富先生は被害者ですのに」
「あれだけ大事件になっちゃったら、しょうがないのよ。襲われるほど恨みを買うような人間が科研長じゃ、まずいでしょ」
佐富先生の野心もここまでねえ、と他人ごとのように美伶はつぶやく。
昼餐会での佐富の憮然とした表情と、対称的に諏訪路が上機嫌だったことが思い出される。諏訪路のご機嫌ぶりは、本の増刷が決まったからというだけではなかったようだ。
「野心をなくした佐富先生なんてつまんないわよねえ。もう別れちゃおうかしら。どう思う?」
そんなこと聞かれても!
つい先月婚約したばかりなのに、それはあんまりではないか、と思う鏡子だった。
「どう、どうなんでしょうね??」
あははは、と美伶は突然笑い出す。
「嘘よ、嘘。別に、出世なんかしなくてもいいのよ」
美伶は虚空を見上げた。ソファに首をもたせて、天井を仰ぎ見る。
「わたしと一緒に、ここで暮らしてくれればそれでいいの。もうどこにも行かないでさ」
何と答えて良いかわからず、鏡子は黙る。
佐富先生は、もっと出世したかった――まだまだ遠くへ行きたかったのだろうな、と想像する。美伶にとってはしかし、それは不要だという。
野心を挫かれた方が、佐富がほどよく家庭に収まってくれる、と思っているのかもしれない。
「
顔を起こして、美伶は話し始めた。話の進め方に脈絡のない女だ。
宏大、と葵の名前を呼び捨てたのが気にかかった。
「弟なんだけどね」
え、と鏡子は美伶の顔を改めて見る。言われてみれば、葵と似ているような、似ていないような。その整った目鼻には、確かに遺伝的つながりがあるようにも思える。
姉弟とは、予想外の関係だった。鏡子はもっと悪い想像もしていた。例えば、葵が安宅美伶の愛人の一人であるとか。
「腹違いのね。母は、父――
カチリと音を立てて、ライターから炎が吹き出した。
わずかに紙の焦げる臭いがした。美伶の指先で、煙草のフィルターが燃えている。灰皿にこすりつけて炎を消し、美伶は煙草をくわえる。
「再会したのはごく最近。去年のことなのよ。あの子は梅田のホストクラブで働いてたわ。何度か話してみて、姉弟だとわかった。奇妙な感覚だったわ。初めて見たときから、なにか――なにか特別なつながりを感じたわ。運命的な? 一目惚れかしら、と思って、早速指名してあげたんだけど。そうではなかった。良かったわ、寝なくて」
寝る、という単語に鏡子は反応した。
そういう関係にはならなかった、と聞いてほっとする。
「ホスト、だったんですね、葵くんは」
ええ、と美伶はうなずく。
「なかなか人気あったわよ。若いしね。探偵ちゃんも年下が好み?」
年下と言われて、ようやく鏡子は気付いた。
美伶が十歳の時にその母が出て行ったというのだから、葵と美伶は少なくとも十歳以上は年が離れていることになる。
大学院卒で司法浪人二年目の二十六歳、というのは思い込みにすぎなかった。
「二十一・二歳ですか、彼」
「わたしが出会った時は、まだ未成年だったわ。今年二十歳ね」
そんなに下だったのか。そりゃあ肌も綺麗なはずだ。
そうか。年齢までも騙されていたのか。
なにが探偵だ。
自嘲がこぼれる。
自分の観察眼のなさに呆れる。
あるいは単に、男を見る目のなさ、かもしれない。
鏡子の驚きに気付いているのかそうでないのか、美伶は淡々と続ける。
「わたし、あなたへの伝言を一つ、預かってるの。昨夜、電話がかかってきてね」
それがここに呼び出した理由か。
「彼はなんと」
紫煙を吐き出して美伶は意地悪く口元をゆがめる。
「真剣な顔しちゃって。どうしようかしらぁ。よく考えたら、わたしが伝えてあげる義理はないわねぇ」
「教えてください」
その言葉が素直に口をついて出た。
美伶はあごをひいて、その美貌をゆがめたまま、じっと上目遣いに鏡子を見つめる。
「最初に見たときから、あなたが気に入らなかったの」
そう言われても、不思議と嫌な気がしなかった。
「地味だからじゃないわよ? わたしが八年前に止めた時間をあなたが生きているからよ。わたしだって、研究は好きだったのよ。意外でしょう」
いいえ、意外ではありませんね、と心の内でつぶやく。
美伶の退廃的な生活は桜下から聞いているが、鏡子は彼女をそれだけの人間だとは感じていなかった。その虚無的な瞳の奥に、わずかに燃えかすのような知性の光がある。
探偵の経験からくる判断ではなかった。
文学部の大学院に通っていた人間なら、誰でもわかるのではないか。西園などは、あるいは鏡子よりももっと敏感に感じ取るのではないか。
どこか、同族の臭いがするのだ。
この人の部屋が見てみたいものだ、と鏡子は不意に思った。
書棚にどんな本が並んでいるのか、興味が沸いた。きっと長らく手にとっていなくて、どれも埃をかぶっているのだろう。鏡子の部屋のミステリ小説のように。
「でも、教えてあげましょうか。年下のホストなんかに惚れちゃうあたり、わたしよりも可能性を感じるから。もしかすると、それも気に入らなかった理由なのかしらぁ」
知っているのだろうな、とは思っていた。鏡子が葵に惚れていることを桜下が話さないはずがない。
なんの可能性ですか、と苦笑する。
「もちろんそれは」
美伶は肉食獣のように歯茎をむき出しにして、はっきりと発声した。
「蛮族として生きていける可能性よ」
「蛮族、ほう」
眼鏡を押し上げる。彼女の口から、なにか含蓄のある言葉が飛び出すような予感がした。
「学者なんて蛮族なのよ。そう思わない? お上品なわたしには無理だったわ」
けらけら、っと短く美伶は笑った。
なんだそんなことか。鏡子は笑わなかった。別に可笑しいとも、冴えた言い回しだとも思わなかったから。
そんなことは、とっくに知っている。
上品さ――洗練された文化とは複雑なものだ。リーガルコード、モラルコード、あるいはドレスコードやテーブルマナー。様々なレベルで様々な種類の複雑なコードを使いこなすことが文明人の要件だ。
蛮族はその対極。複雑なコードで織りなされる文化を食いちぎり、噛み破り、あるいはそれらを無視し、蹂躙し、欲しいものだけを手に入れる。単純でそして純粋だ。
学問をやる人間が、そうでないはずがないじゃないか。
「安宅さんと違って、僕は庶民ですからねえ。中流家庭ですし」
あたりさわりない返しで韜晦する。
「で、葵くんの伝言とは」
面白くなさそうに美伶は目を細めた。
「答えが出たら、会ってもいいそうよ。ただしチャンスは一度だけ。『考え抜いて真実に到達するのをお待ちしてます』、だって」
何の答えか。もちろん第三次六星社文学のことしかない。
「どうやって知らせればいいんです。安宅さんに言えばいいんでしょうか」
「桜下くんに連絡方法を伝えておく、と言ってたわ」
直接教えてくれればいいのに。何か意図があるのだろうか。
「安宅さんも、彼がどこにいるか知らないってことですか」
知らないわよぉ、と美伶は首を振る。
「消えるまでは、
狛田。六星社からはたった一駅、同じ市内で、歩いてもいける距離だ。京田辺に住んでいる、というのも嘘だった。
鏡子は緊張を解いて、ソファに座り直した。
「葵くんが、まだ第三次六星社文学の話をしたいというなら、つきあいましょう。でも、僕が知りたいのはそんなことじゃない。美伶さん、ご存じでしたら、教えてください」
「なにを?」
不思議そうな顔をしている。
「いったい、彼はどうして、こんなことをするんです。僕にはまったくわからない。樽田という人の企みと、どう関係してるんです。彼はなぜ、文書館にいたんだ」
言いたかったことを一息に吐き出す。
美伶は初めて、ひるんだ表情を見せた。
「……そんなこと本人に聞きなさいよ。わたしも知らないわぁ」
それは少し意外だった。
眼鏡をちょいと押し上げて、鏡子は確かめる。
「安宅さんも、ご存じないんだ」
「ほんとに知らないのよ。でも、一つだけ言えるのは。宏大があんなことしたのも、伝言をくれたのも、あなたを好きだから、気を引きたいから、ではないでしょうね。
勘違いしない方がいいわよぉ」
そんなことは分かってますよ、と静かに返す。
ホストなんだしね。色恋で僕を手玉にとるくらいは、余裕なんだろうさ。
その伝言自体が、鏡子が葵に会いたいと思っていなければ、なんの意味もないものだ。鏡子に惚れられていることは、彼にとって自明の前提なのだろう。
「葵くんは、どうやって生活してたんです」
「生活費は、出してあげようとしたんだけど、断られたわ。貯金があったみたい。……女に貢がせた金よ」
わざわざそう付け足された。鏡子はそれを無視した。
そんなことはどうでもいい。
黙って見つめていると、沈黙に耐えかねたように美伶はしゃべりはじめた。
「文書館で働きたい、っていうから、口を利いてあげたけど。どうしてとか、そういうのは聞いてないのよ」
「それはいつの話ですか」
「二月の初め。文書館の仕事が決まると、ホストを辞めて大阪から引っ越してきた」
コーポ六辻に、安宅家から若い男が訪れてノートを持ち帰ったのは一月だったはずだ。
「樽田の計画が始動したのは?」
「三月。でも、六星社文学の件には、宏大はほとんど関係ないわ。わたしに六星社文学の話をしてくれただけ。『あの文学雑誌にはおかしなところがある』って。それを聞いた樽田が、自分でいろいろ調べて佐富先生たちを追い詰める計画を立てたのよぅ」
なるほど、それは納得だ。工学研究科の樽田が、こんな古い文学雑誌の存在を知っていること自体、おかしかった。
「えーとそれじゃあ、コーポ六辻で、六辻出流の原稿を調べたのは葵くん? それとも樽田?」
「それは宏大よ。父の原稿が見たい、っていうから、行かせたの」
ふむ、とうなずく。
一月に葵がノートを手に入れる
→二月に文書館で働き出す
→三月に樽田の計画が始動。
時系列の流れはわかった。
「持ち帰ったノートは、どうなりました」
「わたしが持ってることになっているけれど。本当は、ずっとあの子が持っているの。わたしは中を一度読ませてもらっただけ」
「ふうん? 葵くんは、樽田には渡さなかったんですね、そのノート」
「樽田と宏大は、面識がないのよ。樽田の計画が佳境に入ったころ、渡してくれるようにわたしから頼んだんだけど……あの子は、樽田にノートを渡すことを拒否した」
おっと、と鏡子は立ち止まる。
「じゃあ、BARREL……いや樽田の、六星社文学検証サイトは、七月の時点で、すでに行き詰まっていた?」
「そういうことね。手詰まりになって樽田は焦っていた。わたしは、樽田に宏大の連絡先を教えて、自分で頼むように言った」
BARRELが交渉中だと言っていた、決定的な証拠を持った六辻出流の縁者というのは、美伶ではなくて葵だったということだ。
んん、ん、と鏡子は少し目を閉じて、頭の中を整理する。
「すると葵くんは――樽田の企てには賛成していなかった」
曖昧に美伶はうなずく。
「わからないわ。面白がっているようにも見えたけど。賛成でも反対でもなかったんじゃないかしら。ネットで成り行きは見ていたはずだけど。一度だけ、『樽田さんは馬鹿なんだね』と漏らしたことがあるわ。感想らしい感想はそれだけ」
そうするとしかし。
佐富は、ノートを葵が手にしたままであることに納得したのだろうか。
少しだけ、その意味を考える。
「なるほど、はい。その件はもういいです」
「あのノート、あなた、読みたかったんじゃないの? 内容、聞きたいかしら」
鏡子の気を引こうとするかのように、美伶はちらちらと鏡子をうかがう。
「いいえ。必要ありません……多分」
あらそう、と美伶は引き下がった。心なしか、その表情は悔しそうだった。
美伶から発せられていた、場を支配する力のようなものがだんだんと弱まっている。いつのまにか、主客の立場が逆転している。
鏡子は淡々と問い続ける。
「それだけなにも知らなくて、安宅さんはよく葵くんとつきあいを続けてましたね。文書館のバイトを斡旋したり、父親の原稿を漁らせたり。弟だといっても、昨年に知り合うまではまったく赤の他人だったわけですよね。名門安宅家の人間としては、少し不用心じゃないですか?」
不愉快そうな声が返ってくる。
「ずいぶん立ち入ってくるのねえ。いつのまにか、ずけずけと他人の領域に入り込んでくる……。探偵ちゃんらしくなってきたじゃないの」
「蛮族ですからね」
お上品なあなたと違って。
ホストクラブで遊び歩く刹那的な放蕩者、群がる男たちを利用して他人を陥れようとする陰謀家、かつて研究者の卵だったというささやかな誇り、八年前の恋を忘れられない健気な女――虚勢のコードをいくつも身にまとわないと自分を維持できないあなたは、お上品で脆弱なんです。
哀れむでもなく、憎むでもなく、鏡子は冷徹に美伶という人間を解剖している。
「わたしの言い回しを。嫌な使い方するわね」
鏡子の切り返しは気に障ったようだ。
「何か、彼に借りでもあるんですか?」
美伶は顔をゆがめた。
吸わないまま、指の間でほとんど灰になってしまった煙草を灰皿に投げ入れ、新しい煙草をくわえる。
「借りがあったわけじゃないけど。わたしが勝手に負い目を感じたのよ」
「負い目?」
「大した話じゃないのよ。わたしは安宅家の本家に育ててもらって、大学院まで行って、辞めた後は本家からもらうお金で遊び暮らしている。だけどあの子は、高校に通っている時からずっと、家出同然の状態でホストをやっていたの。母は三年前に死に、父親も生活力がなかった」
うんうん、と鏡子はうなずく。
「それで、何かしてあげたくなった?」
こくりと美伶はうなずく。その表情は、叱られた中学生のように幼く見えた。
「ふうん。でも、葵くんの身の上話なんて、全部嘘かもしれませんよね」
少し、挑発的に踏み込んでみる。
「興信所に頼んで、調べてもらったわよ。宏大とわたしは、どちらも間違いなく母の子だし、生活経歴についてもほんとうよ」
そういうことならば、そこは信じてもいい。
「なにか、姉らしいことをしてあげなきゃ。そう思って、あの子の頼みを聞いただけよ。わたしはなにも悪いことはしてないでしょう? ちょっとした、つまらない仕事……文書館の仕事を紹介しただけなのよ」
聞くべき事がなくなってから、鏡子は非礼をわびた。
「すみませんね。僕の方が質問攻めにしちゃって」
キャスケットを頭に乗せ、立ち上がる。
美伶はどこか打ちのめされたような顔で鏡子を見上げている。
「あなた、見かけによらず怖い人ね。学者より探偵業の方が、向いてるんじゃないの」
「そうですか? 僕はなにも暴いてないじゃないですか」
わかったことは――美伶が嘘つきだということ。葵と美伶は、どちらも、姉弟らしく振る舞おうとしていたようだ。いきなり出現した血縁を、彼らなりに大事にしようとしていた、ということらしい。
「ほんとに知りたいことは、まだわかってませんしね」
「第三次六星社文学のことなんか、大した問題じゃない、と思ってるように見えるわ」
「それについてはもう、およそ目処が立ってます。僕が知りたいのは」
「あなたが知りたいのはあくまで宏大の気持ちなのね。なぜ姿を消してからもあなたに構うのか。なぜ第三次六星社文学にこだわるのか。
ミステリ小説だと、これはワイダニットに分類されるのかしら? 動機を解明する物語」
ええ、とうなずく。
「あの子には、どうせ大した考えなんてなかったと思うわよ。綺麗な顔してるから賢そうに見えるけど、頭は空っぽよ。一時期、昭和の古い小説にはまっててよく読んでたみたいだけれど、それだけ。三島由紀夫、
美伶はぞんざいな口調で吐き捨てた。
教養がない、と言いたいのだ。弟といえども、そこは見下してしまうのだろう。
人文学徒の卵にありがちな、教養崇拝主義の悪しき側面だよなあ。
鏡子は美伶をあわれむ。
やはりこの女は、八年前から――大学院にいた時から、時間が止まっているのだ。
美伶の言葉を背中で聞き流し、玄関ドアに向かう。古風な館の高い天井をもう一度だけ見上げる。
「ええ、ええ。そうなんでしょう。でも僕はそれが知りたいんですよ」
ワイダニットは難しい。「頭」を使わない探偵である鏡子にとって、犯人の動機というものは、できる限り無視すべきものだった。これまで、ずっとそうしてきた。
「足」にとって、動機は天敵だ。
動機など――本人すらわかっていない場合だってあるのだから。
鏡子は静かにドアを押して、館を辞した。
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