第14回 昼餐会(再)

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 お盆期間を過ぎ、八月も下旬になってから、研究助手候補者を集めた昼餐会が再び催された。やり直しである。

 樽田の襲撃事件など存在しなかったのように、文学研究科棟二階の小ホールにはあの日と同じ料理が並び、同じ顔ぶれがそろっていた。


 肩から包帯で右手を釣り、頭にガーゼを当てている佐富の姿だけが、わずかに事件の名残を思わせる。佐富の怪我はそれほど重篤なものではなかった。ハンマーがかすった頭部は皮がむけただけ、右肩とナイフで叩かれた手首の骨にはそれぞれヒビが入った程度だった。

 だが、それを気遣う人はいない。佐富は憮然とした表情で、一人たたずんでいる。誰も佐富に近づこうとはしない。皆こぞって、彼の存在に気づかないふりをしているかのようだった。樽田のことも誰も口にしない。思い出したくないのだ。


 乾杯を終えたあと、鏡子はまたも中世・古代専修コースの西園につかまっていた。

 西園は相変わらず、女三宮についてまくしたてる。彼女は、見かけによらず機敏であったらしく、あの日はさっさとホールの外に逃げ出していたのだそうだ。

「それでね、とりあえずまた一本『國文學』に載りそうなんだよ、うん。リライトしなくちゃいけないんだけどね、些細な部分だからすぐ直せると思うのね。これでやっと本論が書けるの。十二月に間に合うかなあ。あ、錫黄さんは修論もあるんだっけ? え? 修論を兼ねるんだ、へえ。じゃあ大丈夫だね。桜下くんも論文通ったみたいだね、『批評世界』に載るんだって。タイトルはなんだっけ? 『残念系とネットコミュニティの均質化の標準』だったかな? 私には興味ない感じだったね。残念系ってターム、流行ってるのかな? 私あんまりネット見ないからわかんないんだよね、うん」

 はあはあ、と適当に流しつつ、鏡子は諏訪路に話しかけるタイミングを図っていた。


 通りかかった桜下に西園を押しつけて、諏訪路を囲む輪に入り込む。

 諏訪路は、佐富とは対照的に上機嫌だった。白髭を何度も指でしごき、目を細めて講師たちと談笑している。もうかなり飲んでいるらしく、ほんのりと目の周囲が赤い。

 「無名文士たちの群像――羽生蝉耳を中心に――」の増刷が決まったのだ。

 ネットでの騒動は、この本の売り上げに大いに貢献した。


 あわや大炎上か、と思われた真贋騒動だったが、結局、週刊誌を初めとするメジャーメディアの記事になることもなく、ネット上でも急速に沈静化してした。佐富らを誹謗したとみなされる書き込みに対して、渦中の安宅美伶が片っ端から名誉毀損罪で刑事告発したからである。手始めに、二人の婚約を暴露したアカウントの主が特定された。

 それが近世専修コースの堀戸講師だったことは、彼を怪文書事件の実行犯の一人であると推定していた鏡子にとってあまり驚きではなかった。

 大学当局の対応は迅速で、堀戸はすでに懲戒免職されることが決まっている。後期から彼が講義を担当することは、ない。

 堀戸が告発されたことで、話題はまた別の方向に流れて行った。非常勤講師と専任講師や教授との待遇格差という、広い視点からの問題に転化されつつある。


 もともと、暴行事件自体は、どう見ても樽田に同情する余地がない。佐富は被害者である。樽田といい、堀戸といい、佐富教授には敵が多かったのだろう、自業自得だ、という声もなくはなかったが、あまり大きな影響力を持たなかった。


 六星社文学の真贋論争も、うやむやのうちに話題から消えた。

 精力的に贋作を立証しようとしていたBARRELがいなくなり、新たな証拠も出現する見込みがなくなったいま、この問題はどこまで行っても素人談義の域を出ない。

 なにせ、自信を持って口を出せる専門家がいないのだ。近代日本文学の研究者たちの態度は、唯一の専門家である諏訪路教授が贋作を否定しているのだからそうなんでしょう、という無難なものに終始している。


「先生、増刷おめでとうございます」

「うんうん、おかげさまでね。いやあ、一時はどうなることかと思ったけどね、災い転じて福となす、だね、ははは」

 諏訪路先生も、ネットの動向は気にしているのだな、と可笑しくなった。


「こんな席でなんですが、少し、論文のことでご相談が」

 いいとも、と諏訪路が応じたのを見て、諏訪路を囲んでいた講師たちは輪を崩した。

 二人はグラスを持って窓際に移動した。

 ローストビーフの皿に置かれている長いナイフがちらりと目に入る。

「『近代國文』に投稿する論文ができたのかい? 是非読ませてもらうよ」

 七月には出来上がっていたのだが、諏訪路が落ち込んでいて読んでくれなかっただけだ。

「それもありますが。十二月に発表する本論の方を、少し変えようかと思ってるんです」

「というと?」

「『無敗の手』と――羽生蝉耳はぶぜんじの作品を比較検討して影響関係を分析してみようかと」

 ほう、とうれしそうな顔をする。

王炊章一おういしょういちも、第三次六星社文学に影響を受けていたようだしね、それは面白いね。で、どちらと比較するんだい? 第一号の方? 二号の方?」

「両方、ですかね。先生の御本も参考にさせていただきます」

 うんうん、と諏訪路は満足気だった。


 比較検討は、諏訪路がかつて博士論文で使った方法であるし、第二号準備稿と比較するのであれば、諏訪路の著書からも引用することになるだろう。

「いいねいいね。せっかくわたしの研究室にいるんだし、それがいいよ」

 弟子らしくなってきたじゃないか、と言いたげだ。


 先生にとっては、苦い結論になるかもしれないですよ。


 心の中で、鏡子はそっと呟く。

 天河が読んだものは、全て再読し終えた。

 彼女のメッセージと葵の犯行。

 二つのヒントを得て、鏡子の中ではようやく仮説が立ちかけていた。

 それと共に精神的な落ち着きを取り戻していた。葵がいなくなった、という現実を受け入れている。その一方で――葵に対して、静かな怒りを感じている。


「そうだ、先生がエッセイで取り上げていた加藤陽文かとうようぶんのことですが。第二次六星社文学から参加している彼が、第三次六星社文学に寄稿した作品として後に言及していたのは、第一号・第二号どちらの作品だと思われますか?」

「彼の日記じゃあ具体的に作品名が挙げられてないけど、ありゃあ第二号の方だろうねえ」

 鏡子もそうだろうと判断していた。

「なるほど。僕もそう思います」

「加藤陽文まで話を広げるのかい? ますますわたしの本が役に立ちそうだねえ。論文の骨子が固まったら、教えてくれたまえ。あの時期の作家たちについてなら、アドバイスできることもたくさんあると思うよ」

「そうですね、なんたって先生は第三次六星社文学の第一人者ですから、はい」

 たまには鏡子もおべんちゃらを言う。


 第一人者だなんて、照れるねえ、他にやってる人がいないだけのことだよ、いやいや、第三次六星社文学は忘れさられた金鉱みたいなもんでね、その価値にみんな気付いてなかったのさ(わたしだけが気付いたのさ)……諏訪路は謙虚ぶりつつも、自分の見識がいかに確かであったかを暗に自慢する。


 ――誰でも、ほめられると嬉しいものだよな。本も売れてるし。


 愛想笑いをしながら、鏡子はグラスを傾ける。




 

 昼餐会は二時間ほどでお開きになった。

 帰ろうとした鏡子は、廊下で桜下に呼び止められた。

「ひどいですねえ、鏡子さん。わたし、あれからずっと西園さんとしか話してないっすよ」

「いいじゃないの。どうせ、他の先生たちとも話すことなんかないだろ。普段から顔合わせてるんだし」

「そりゃそうですけど」

 桜下は口を尖らせる。

「ところで鏡子さん、これから時間あります?」

「かまわないけど、どうした?」

「うちの大家さんが、鏡子さんに会いたいんだそうで。下宿まで来て下さい」

「はあ? えーと、美人の大家さんだっけか。なんでまた僕に」


 桜下はそっと周囲を見渡した。教員たちはもう誰も残っていない。佐富たちは早々にエレベーターに乗って引き上げた。ウェイターが忙しそうに残りものの料理を積んだカートをホールから運び出している。

「うちの大家さんはいまやちょっとした有名人ですので……錫黄さんもご存じのはずですぜ」

「へえ? 誰なんだ」

 桜下は声を落とした。

「わたしが下宿している雨流館のオーナーは……安宅美伶なんです」


 おお?


 と頭の中で疑問符が浮かぶ。

 コーポ六辻で長井に紹介してもらい、面会を断られた相手――六辻出流の娘にして、六星社文学の贋作に六辻出流が関わっていたのか否かの鍵を握る女。そして、いまは佐富の婚約者。


「はあ? そりゃ安宅美伶の名前は知ってるけど。ネットで片っ端から告訴しまくってる、怖いオバサンだろ?」

「オバサンだなんて言ったら切れられるっすよ。本人の前では気をつけてください」

「それが桜下さんとこの大家さんだなんて、初耳だぞ。もっと早く言えよ」

「言ったでしょ、一つくらい秘密を持っておくのも悪くない、ってね。いろいろ大変だったんすから」

「ははあ。こんな近くに住んでいたなんてなあ。世間は狭い、イッツ・スモール・ワールドだな。んで、その安宅さんが僕に何の用だよ」


「葵くんのことです」


 その一言で、わずかばかりの酔いが吹き飛んだ。

「なぜ? いや、安宅さんは、葵くんとどういう関係なんだ?」


 ホワイ、ホワイ、ホワイ。小さな世界にはホワイがあふれている。


「それは本人から聞いてくださいな」

 わたしもよく知らないんですよ、と桜下は困ったような顔をした。

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