第13回 Why
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返事をしろよ。
してくれよ。
つぶやきながら鏡子はキーボードを叩く。日本語がダメだというなら英語だ。英文を書くのは学部二年の語学の授業以来のことで、あまり自在な文章は作れない。グーグル翻訳という頼もしい相棒を駆使して、質問を繰り返す。
『天河』のアカウントはアクティブ状態になっているはずだが、スカイプのチャット欄には今夜も反応がない。
あきらめて鏡子はキーボードの上に顔を突っ伏す。頭にはタオルが乗っている。湯上がりだ。部屋にはエアコンがガンガンに効いている。お気に入りのジャージに身を包んでいるので、身体を冷やしすぎるということはない。
あー、とうめき声を上げる。
事件から一週間が過ぎようとしていた。
樽田の暴行事件は、全国紙やネットニュースでも大きく取り上げられ、六星社大は一躍世間の注目を浴びていた。大学の周辺にも新聞記者やらテレビ局やらの報道陣が押し寄せてきた。さすがにもう大手の記者は見かけないが、週刊誌記者やフリーランスのジャーナリストが、学生からインタビューを取ろうと文学部周辺をうろうろしている。大学からは「うかつに取材を受けて不注意な発言をしないように」という旨の警告メールが、学部の各学科・研究室単位のメーリングリストで流されている。
どうやって調べたのか、鏡子の携帯には取材を申し入れる電話が直接かかってくる。桜下にもだという。現場にいた人間はすでに全員特定されているらしい。もちろん、取材だとわかった時点で即切りし、着信拒否にしてある。電話だけでなく、しばらくはアパートの側にも張り込まれていて、おちおちコンビニにも行けないほどだった。
ネットは見るのもうんざりだった。ツイッターで、2ちゃんねるで、まとめサイトで、今夜もネット民は騒がしいことだろう。
逮捕された樽田は、一貫して自分一人がやったことだ、と証言している。新聞他、メジャーメディアは、背後関係はなく、佐富との共著の出版がぽしゃったことに対する恨みによる犯行だという論調だった。
だがネット民はそうではなかった。
先月までの第三次六星社文学の真贋を巡る騒動を覚えていて、事件と結びつけてきた者がいる。
更新の止まっているBARRELのサイトはとても有名になってしまった。
BARREL=樽、なのだから、樽田=BARREL、という推測には無理がない。
真贋疑惑を提起したBARRELと、それに反論して封じ込めた佐富・諏訪路両教授の応酬は、人文界隈のみならず、一般のネットユーザーにまで広く知れ渡った。
その時点では、これが樽田の隠された動機なのだろうなあ、というくらいのもので、大したことはなかった。
全ては樽田の逆恨みにすぎず、最初から佐富を陥れるつもりで真贋論争を仕掛け、それが失敗したので凶行に及んだのだ、という理解が一般的であり、佐富はあくまで被害者だと目されていたが――一昨日、BARRELへの反論で重要な役割を果たした安宅美伶は、佐富と婚約していることが暴露された。火元はツイッターの捨てアカウントだった。六星社大の教員か院生ではないか、と言われている。
そこから、この事件は安宅美伶という女性を巡る三角関係なのではないか、という推測が生まれ、次第に主流になりつつある。
そうすると、真贋論争の決着の仕方も怪しいのではないか。安宅という女性は、婚約者の佐富をかばっただけなのではないか、という見解も当然生まれてくる。
真贋論争は再び蒸し返され、第三次六星社文学の第一号と第二号を読み比べて、新たに作品カラーの差異が検討されている。
違うだろ、佐富教授は被害者だろ、樽田というキチガイが全て悪いんだよ、と熱心に佐富を擁護する一派も唐突に沸き始めた。その手の擁護はあまりにも露骨であったし、六星社文学の話題には触れようとしない、避けているのが見え見えだったったので、すぐに六星社大の雇った火消し要員の書き込みとみなされるようになってしまった。
正直、鏡子もそう思っている。
まとめサイトのコメント欄は、佐富を必要以上に擁護するコメントと、それに対する「火消し乙」「六星社大の工作員乙」のコメントであふれかえっている。
どこかのネット工作会社に委託したのだろうか、それとも大学事務局の職員が、勤務時間中にせっせと書き込みしているのか。後者なんじゃないかなあ、と鏡子は思っている。
事件の後、呼び出されて大学に行った際、事務局にも寄ったのだが……通りすがりに事務局長のPCをちらりと覗くと、ばっちり2ちゃんねる専用ビューアーが起動されていた。
このネット上の騒動に、来週からは大衆週刊誌も追随しそうな流れだ。
一方、文書館の盗難事件は、まったく報道されていない。
葵宏大の犯行は警察に届けられることなくもみ消された。大学はこれ以上、世間の注目を集めたくなかったのだろうか。
そして彼は、失踪した。
桜下からその件を知らされたのは、事件当日から三日も経ってのことだった。
葵くんからメール返ってこないなー、と軽く心配していたくらいのもので、鏡子にとってはまったくの不意打ち、意味の分からない事態だった。
出版局でバイトしていた桜下は、彼と親しかったということで呼び出され、内々に大学執行部のお偉いさんから事情を聞かれたそうだ。桜下にしてみても、まったく不意打ちの話だったという。
葵くんは何か事件に巻き込まれただけなんじゃないのか、という鏡子の希望的観測は、桜下が見せられたという犯行声明カードの存在によってあっさり打ち砕かれた。
さすがにそれは渡してもらえなかったから、文面を覚えてきましたよ、と桜下は暗唱してくれた。
第三次六星社文学はいただいていく
真に文学を愛好する者は目を覚ませ
怪盗文士アオイ
怪盗文士アオイ、て。なんだその署名。
そんなはっきり名乗らなくても、と鏡子は絶句した。
誰かに連れ去られたという可能性もない。勤務時間中に、彼が一人で文書館から出ていくところを目撃されている。
文書館にとって、被害は軽微である。第三次六星社文学は、五十部も保管されているのだから。犯行声明を直接目撃したのも、通報してくれた少数の来館者だけであり、騒ぎ立てたりはせず、大人しく口止めに応じてくれたという。
バイトがバックれる前に悪戯していっただけ、樽田の事件とは関連性なし、ということで大学は勝手に事件を決着させた。新たな第三次六星社文学が保管庫から展示室に移され、何事もなかったかのように文書館は開館している。
樽田などよりも、こちらの方が鏡子にはショックだった。
葵くんはなぜそんなことをしたんだ?
そしてどこへ消えた?
これまで、ついにかけることことができなかった彼の電話番号に発信してみた。既に、その番号は使われていなかった。
翌日、桜下はさらに不愉快な事実を調べ上げてきていた。
葵は、少なくとも、六星社大学の法科大学院の卒業生ではなかったことが判明した。
桜下はサークルの先輩から伝手を辿って、法科大学院に進んだ学生を紹介してもらい、クラス名簿を手に入れてきた。彼が在籍していたはずの年度にも、その前後の年度にも、彼の名前は載っていなかった。
「今にして思えば、司法浪人というのも、嘘だったんじゃないすかねえ。わたし、彼が何冊か司法試験の問題集持ってるの見たことありますけど……使い込んでる風に見えませんでしたからね」
スカイプ越しに桜下はそんなことを教えてくれた。
「それ、葵くんに突っ込まなかったのか?」
「新品同然すね、って言いましたよ。そしたら、『法学書は毎年改訂されますから、問題集も毎年最新のものにしないといけないんですよ』って言われましてね。信じましたよ。確かに、法学部の連中は、毎年ポケット六法を買い直してますしねえ。そういや司法試験受けてる後輩もそんなこと言ってたかなあ、なんて思いやして」
あの花火を見に行った夜。
今夜は人出が凄いですね、と彼は言った。
六星社大生なら誰でも知ってるはずの、花火大会の日のことを、彼は本当に知らなかったのではないか。
司法試験の勉強のことを話したくなさそうだったのも、試験の手応えについて語らないのも。話せることが何もなかったからではないか。
桜下の声を聞きながら、鏡子はぼんやりとそんなことを考える。
「……偽装する気はあったということだよな」
「え?」
「司法試験の受験生になりすます必要があった、ってこと。だってそうだろう。問題集を持ち歩いたりしてたわけだし。誤魔化し方だって、けっこう説得力がある」
「そうすね」
桜下は大人しかった。鏡子が動揺しているのを察していたのだろう。
「なんのためにさ。なんのためにそんなことをしてたんだ、彼は」
後半はほとんど泣き声になっていた。涙が止まらなかった。
わからない。
まったくわからない。
「ほんとに。なぜ、彼はあそこにいたんでしょうね」
「こんなのって、ひどいよ。いきなりいなくなるなんて」
はい、と桜下。
「わたしにもわかりやせん。ほんとです」
何か言おうとしたが、言葉はすべて嗚咽になってしまう。
スカイプの向こう側で、どぼどぼと水音がした。グラスに飲み物を注いでいるのだろう。通話を切られるのではないかと思ったが、桜下は鏡子が泣き止むまで待つつもりのようだった。
声が届かないようにミュートボタンを押して、ひとしきり泣いた。
「もう大丈夫だ。すまなかった」
鼻水をすすりながら、鏡子はマイクに向き直った。
はいはい、と軽い声が返ってくる。
「あのね、わたし、これを解き明かせるのは鏡子さんだけだという気がするんですね」
「え?」
「彼が、六星社文学を盗む機会をうかがっていたとは思えません。やろうと思えばいつでも出来たわけですし。それよりあの犯行声明ですよ。あれは、鏡子さんに宛てられたものですね。『怪盗文士』という署名も、鏡子さんの探偵趣味に合わせたものだと考えるのが自然じゃないすか?」
「怪盗紳士、のもじりなのか? なんだか馬鹿にされてる気がするナ」
馬鹿にしてるのかもですねえ、と桜下も否定はしない。
「お望みどおり、怪盗の出現ですよ。連れてこい、なんて言ってましたよねえ」
ふふ、と小さく笑い声。
「こんなの怪盗じゃないだろ。僕は認めないぞ」
怪盗の定義はさておき、と桜下は真面目な声になった。
「わたしは――あれは、鏡子さんへの挑戦状なんだと思いやす。うん、いや、第三次六星社文学を盗んだこと自体が、そうなのかもしれやせん」
薄々、鏡子もそうではないかと思っていた。
これは、無意味な、ただ一人に向けられた犯行だ。
「……僕に、どうしろってんだ」
「第三次六星社文学の真相を解き明かしてみろ、という意味なんじゃないすかね」
静かに桜下は告げた。
「真相か。真相ってなんだよ。解いたら、どうなるんってんだよ。解いても、葵くんにどうやって伝えればいいんだよ」
スタンドマイクに怒りをぶつけるかのように鏡子はつぶやく。
「ですよねー。連絡する術がないですし。天河さんは、何か言ってませんでしたか?」
「ああ……それがどうも、天河にはわかっちゃったみたいなんだよな」
部屋に残されていた第三次六星社文学のコピーと、わざわざ隣の部屋から引き出してきた本の山。あれが、天河からのメッセージだろうということは鏡子も理解していた。彼女は、他人の部屋を散らかしたまま帰ったりはしない。わざと片付けなかったのだ。
「まじすか。さすがは天河さんすねえ」
「でも僕にはわからないんだけどね」
「まじすか。意味ないっすねー」
メッセージの意図はわかったが、解法はわからない。
結局会えなかった天河のことを、桜下は聞きたがった。
「冷たいよな、僕にもさよならのメールもなしだ」
「会いたかったすねえ」
「今度帰ってくるとしたら、来年の夏だろーね。残念でした」
「気長に待つとしましょうか」
桜下の声にはあきらめの色があった。
「元気だせよ。天河のやつ、帰国したら、桜下さんのこと、考えないでもないって言ってたぜ」
まじすか、もっとそこんところ詳しく! とうるさいくらいの大音量ではしゃぐ桜下。
たまには喜ばせてやろうかな、と思ったのだ。
葵がいなくなったいま、気分的には、桜下も同じ不幸の泥沼に引き込んでやりたい。足首つかんで、引きずり込んでやりたい。だがそうはしなかった。
他人を不幸にしても自分が幸せになるわけじゃない、ということを鏡子は知っている。
「いやいや、そんな嬉しい話を聞いちゃったら、部屋に籠もって論文書く甲斐もあるってもんです。鏡子さんも、論文書くのに集中したらどうです?
謎を解けるのは鏡子さんだけです、なんて煽ってから言うのもあれですが……へんなはなし、葵くんのことなんかすっぱり忘れちゃってもいいと思うんすよねえ」
明石のやつが鏡子さんに会いたがってますし、と不要な情報が付け足される。
彼はいいです、と拒否しておく。
「うーん。僕はやっぱり……。もうしばらく六星社文学について考えてみるよ」
鏡子はそう宣言して、通話を終えた。
以来、第三次六星社文学の真相に至るため、鏡子は日夜頭を悩ませている……のであれば、天河にわざわざ英文で質問を繰り返したりはない。彼女が何も答えてくれないのは、自力で考えろということなのだろうが。
考える気力が衰えている。
風呂に入っている時も、食事をしている時も、葵のことばかり考えてしまう。あの花火の夜に絡めた指の感触が生々しくよみがえる。
――きみは一体、何者だったんだ。
答えのない問いがぐるぐると頭の中で巡り巡る。
どれだけ冷房を効かせても、寝付けない、寝苦しい夜が続いている。これからも、そうだろう。
葵くん。
PCをシャットダウンした鏡子は、布団に倒れ込む。最近はもっぱら布団で寝ている。隣の部屋からベッドを運び出して、また組み立てる気になれない。畳の上に積み上げてある、天河が読んだ本の山に手を伸ばす。どれも過去に一度は目を通しているものなので、なんとか一日に一冊のペースは維持している。ほとんど惰性で読んでいる。
これらを読み解き、天河の出した解答に行き着くことができれば――もう一度葵に会える、のだろうか。
あやふやな希望にすがっている自分がみじめだ。読んでいるのが苦しい。早く、眠くなってくれ。眠っている時間だけは、葵のことを考えずにすむ。
眠りの扉が開いて、その中に逃げ込める時を待ち望みながら、鏡子はページをめくる。今夜も扉はなかなか開かない。
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