第12回 天河の解
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鏡子からメールを受けたとき、
研究科棟の状況を把握した天河の感想は、「ふうん」と素っ気ないものだった。
――佐富教授が負傷しただけで、死者はなし、と。銃の所持が禁止されている国で幸いだったわね。
何より鏡子に怪我がなかったことが喜ばしい。
これがアメリカなら、樽田という男は間違いなく銃を乱射している。佐富の巻き添えになって、鏡子や桜下の命も危なかったかもしれない。
そもそも、六星社大学のセキュリティ体制がなってない、と天河は憤る。樽田のような杜撰な凶行は、大学院棟のセキュリティチェックが機能していれば、阻むことができるのではないか。
六星社大の大学院棟など、学部棟と同じく素通しだ。不審者などいくらでも入り込める。
――せめて身分証持ってないと入れないようにしときなさいよね。おかけで、あたしの友人たちが危険にさらされてしまったじゃないの。
あら、これは、と天河は少し遠くまで思考を伸ばす。日本の民間のセキュリティ体制というのは、国家単位で銃規制をしていることに甘えているということね? ふむ、これまで興味のなかった観点だわ。
民間各個に高いセキュリティコストを求めるアメリカに比べると、全般にコストが低くすむことは間違いない。しかしリスクの面を考慮すればどうか。樽田のような人間がどの程度増加すれば、セキュリティコストを高めざるを得なくなるのか。銃規制が無意味になるほどコストが高くなるのはどの時点か。この問題は計量分析して均衡点を調べる価値があるのではないかしら?
声にこそ出さないが、まるで目の前に聴衆か対談者がいるかのように、一人で脳内ディスカッションを繰り広げることは天河の日常の一部だった。
その問題については、予測を立てる方法を決定したところで満足し、読み物に戻る。
警察の事情聴取となれば、長くかかるだろう。
天河は五時には六星社を出なければならない。鏡子とは会えない可能性が高い。
それでも、ぎりぎりまで待つつもりだった。
途中、天河は一度、読む手を止めた。
隣の部屋に通じるふすまを開いて、足を踏み入れる。
山と積まれたラックや段ボール箱の中から、目当てのものを見つけ出す。それは、鏡子が以前の論文で使った、松涛武夫に関する資料だった。王炊章一、松涛武夫。それから六星社大出身の同世代の作家である、壺洗凱章、千佃哲也。後者二人の本や作品のコピーを、鏡子はあまり持っていなかった。それでも代表作はそろっている。
天河は時計に目をやる。もう四時になってしまっている。
いまから図書館に行く時間はない。
――ふん。多分、ここにあるものだけで足りるでしょう。
四人の作家の作品を、文庫本になって現代でも残っている代表作だけに絞って読んでいく。経歴や交遊関係などの伝記的事項は、文庫本の解説頁だけで十分だ。
読み終えたのは三十分後だった。
「はーん。これだけ?」
天河は眉をひそめた。
「こんな簡単なことがわからないなんて。鏡子はやっぱり、色ボケしてるんじゃないかしら? 恋煩いというのは脳の病気なのね」
頭の良さ、というものには様々な要素が含まれる。天河の長所は推論や解釈ではない。情報の整理でもない。特定の方法論に当てはめて考えることでもない。もちろん、それらの訓練は十分に積んでいるし、先ほどの、見えない聴衆を相手にしたディスカッションもそうした訓練の一環ではあるけれど。
天河は、第一感がとても正確で、射程が長い。
将棋や囲碁のような頭脳ゲームのプロは、そろって第一感を大事にする。どれほど複雑な盤面でも、最初に閃いた手が最善手であることが圧倒的に多い。
統合的認識力、とでも言えば良いのだろうか。集めた情報の中から推論しうる、最大射程の結論を瞬時に把握することができる。
鏡子はそれを「パッシブスキル」だな、と評した。
ゲーム用語で、取得しているだけで自動発動する技能、という程度の意味らしい。
天河には文学趣味がない。
第三次六星社文学の第一号も第二号も、羽生蝉耳もその他の文士たちも、王炊章一も松涛武夫の作品も、どれも等しく「面白くなかった」。
情報量の少ない、とりとめのない駄文だ、と感じている。
天河にとって格別の快楽ではない、という意味で「面白くない」であって、世間一般的には、この程度に複雑な結合をしている散文は、読み手に快楽をもたらすし、名作と呼ばれる場合もある――そういう評価基準もちゃんと備えている。
ある意味、それはハンデキャップである。面白いと感じられないということは、興味が持続できず、注意が行き届かない可能性も出てくる。だがその雑然とした文字情報の海に溺れることはなく、天河は明瞭にすべての作品の構造を理解している。
「第三次六星社文学の真贋ですって? 片方は贋作に決まってるじゃない」
呆れたように天河はつぶやく。
「第三次六星社文学は、一号だけしか出版されていない」
時間の無駄だったわ、とあくびをする。久しぶりに大量の日本語、それも小説という興味の持てない種類の文章を大量に読みこなしたことで、脳が疲れてしまったように感じる。
わずかに、頭を環で締め付けられるような感触がある。頭痛だ。糖分を補給しなきゃ、と冷蔵庫を開ける。
口の開いたレモンティーのパックを取り上げ、コップに移して一息に飲み干す。
合成香料のレモンの香りは、天河の記憶を刺激する。
留学する前は、このレモンティーをよく飲んでいた。
二人で酒を飲んだ後だ。レモンティーはいつも冷蔵庫の中にあった。グラスに移すのが面倒になって、パックにストローを二本挿して回し飲みしたことが何度かある。
――何度か、なんて、あたしの記憶力も衰えたものね。そう、回し飲みしたのはたったの二回。レモンティーをこの部屋で飲んだのは十二回。大した回数じゃないわ。
まだ時間があることを確かめて、天河は畳の上に大の字になって寝転んだ。
天上の木目を見ながら、位置をずらしていく。
そう、この位置だわ。
ようやく、記憶の中の木目と一致した。
鏡子の部屋に初めて泊まった日に寝た場所だ。
天河は目を閉じる。
そのままじっと、身動きもしない。
十分経ってから、そっと目を開く。
その十分の間だけ、天河は二年前の、鏡子と初めて出会った頃の記憶に浸っていた。
文字通り、体感していた。記憶と身体感覚を共鳴させれば、そんな幸せな体験ができる。一種の自己催眠だった。
「そろそろ行かないと」
起き上がった天河はキャリーバッグを引き起こした。
鏡子に書き置きでも残したいところだった。
だが、天河が何を読んだのかは、この部屋を見ればわかる。
「しかし鏡子は察しが悪いのよね」
不満気につぶやくと、第三次六星社文学第一号・第二号の画像データを印刷したコピー紙の束を、わかりやすく読んだ本の上に積み重ねた。
ダイイングメッセージのように。
バッグを引きずって部屋を出ようとした時、今さらなことに気付く。諏訪路が書いた本を読んでいなかったのだ。
あたしとしたことが、と舌打ちする。
持ち出して飛行機の中で読もうか、と一瞬だけ考えたが、やめた。
――あの諏訪路先生だもの。どうせろくなこと書いてないに違いないわ。
読まなくても関係ない。そう決めつける。
そもそもこれは、あらゆる意味で鏡子が解くべき宿題だ。鏡子だけが回答者なのだ。佐富も諏訪路も、どうでもいいのだ。天河が手助けする必要はない。
部屋を出て鍵をかける。鍵は鏡子の名前が記された郵便受けに投げ入れておく。
キャリーバッグを引きずって、天河は懐かしい大学前通りを歩く。大学の前にはいつでもタクシーが何台か待機していたはずだ。
タクシーは記憶にあるよりもずいぶん離れた場所に停まっていた。本来のタクシーの停車場には、赤色灯を回転させたパトカーが何台も停まっている。
――
まったく、衝動的な犯行というのは誰にとっても迷惑この上ない。
そして、世の中はそんな事件ばかりだ。
天河を乗せてタクシーは走り出す。六星社大学は、背後に遠ざかっていく。
――計画的な犯行、なんてものにお目にかかってみたいよ!
と、その昔、鏡子が嘆いていた。それを思い出して、シートにもたれた天河はくすくすと小声で笑った。
残念だったわね、鏡子。今回も違ったみたい、いや何もかもが違うのよ。
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