第11回 アオイ
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昼下がりの文書館は来客もおらず、静かなものだった。
カウンターに座る
もう三時を過ぎていた。
――遅いな。
昨夜、鏡子からメールがあり、友人を連れてくると知らされていた。桜下も一緒のはずだった。
カウンターの下から携帯を取り出す。桜下からメールが着信していた。
相当慌てているらしく、文面は乱れていた。十行ばかりの間に、誤変換らしき誤字が二箇所もある。鏡子や桜下に感心することがあるとすれば、常に文章が正確なところだ。そこはさすが、文学部の大学院生らしいところだな、と葵も認めている。
メールの内容は、樽田による白昼の襲撃事件を簡潔に記したもので、現在は警察がやってきて事情聴取を受けているとのことだった。
今日は、鏡子も桜下も、文書館には来られそうもないという。
「樽田さんが」
葵はひっそりと呟く。
諏訪路と佐富を陥れようという陰謀の中心人物であった樽田。この、元大学教員が、少し精神を病んでおり危険な状態にあることは、聞かされていた。
誰に?
安宅美伶に、だ。
もともと、大学を退職したころから不安定な状態だったようだが、美伶が佐富と婚約したことで、振り切れてしまったのだろう。
「彼女が悪いわけじゃない」
さて、自分はどうしようか。
葵は一分だけ考えた。
考えた、というほどのことではない。
考えるのは苦手だ。これまでの人生で、葵はじっくりものを考えたことなど、ほとんどない。ただ一つ、第三次六星社文学のことを除いては。
樽田の口から、ぼくの名前も出るのだろうな。
特に隠し立てする理由がない。
春に、諏訪路の研究室に置かれたビラ。あの文面を考えたのも、葵だ。
それについて、鏡子や桜下に言い訳をしたり、嘘をついたりするのは面倒だった。
鏡子にはこれまでたくさん嘘をついてきた。それを心苦しく思っているわけでもないが。
どうせ、そろそろ限界だったのだ。
元々、葵がこの文書館に潜り込んだのは、第三次六星社文学に目を通すためだった。
そこから、好奇心がむくむくと沸いて来た。
その好奇心も、四月には十分満たされていたので、さっさと辞めるつもりだった。
いまだに居続けているのは――鏡子が、
それを見届けるつもりだったのだが。
鏡子がどんな結論を出すのか、知る方法は他にもある。わざわざ恋人ごっこをして時間を費やしてやる必要もない。
――まどろっこしいことこの上ないからな、あの女は。
鏡子のそういう面を、葵は可愛らしいともうっとうしいとも思わない。「そういう類の女だ」とカテゴライズするだけだ。勉強だけしてればいい、と甘やかされて育ち、そのまま大人になろうしている、未熟な女。
葵は静かに席を立つ。事務員控え室に入り、私物をザックに詰める。大したものは置いてない。漫画雑誌と、歯ブラシが一本、香水の瓶、整髪料、シガレットケース。
ふとあることを思い出した。
鏡子は桜下に言ったそうだ。
「アルセーヌ・ルパンか怪人二十面相でも連れてこい」と。
それは、葵のユーモアセンスをかすかに刺激した。
どうやら、あの女は怪盗が好きらしい。探偵に怪盗はつきものだからな。
自分の思いつきに、一人で笑い、葵は紙を探す。
新しいコピー用紙の束の封を破り、一枚取り出す。なるたけ、カード大になるように折りたたんで、切り取る。太いマジックペンで、さらさらと文を綴る。色を変えて、青いペンで署名する。事務所にはラミネート加工機もある。それを使って、丁寧に表面をパウチすると、なかなか見栄えのいいプラスチックカードになった。カードは胸ポケットに入れる。
カウンターに戻ってザックを床の上に置く。館内用の鍵束を取り出し、葵は二階へ向かった。
六星社文学の展示室は、四方にガラスケースが並んでおり、その中に歴代の六星社文学の原本と、解説文を記したプレートが収められている。葵は、第三次六星社文学のケースの前で立ち止まった。
古びた本が一冊だけ、寂しく置かれている。元々は白かったのだろうが、時を経て茶色く変色してしまっているその表紙には、「六星社文学」の題字が飾り文字でレタリングされている。題字の横に小さく、「第一号」と号数が付されている。
第二号準備稿はここには置かれていない。さすがに生の原稿用紙ともなると、温度と湿度を常時管理された、地下の特別保管室に収められている。
ケースの鍵を開け、葵はためらいなく第一号を取り上げ、小脇にかかえた。そして、先ほど作ったカードを胸ポケットから取り出し――代わりにその場所へ置いた。
元通りにケースを閉じ、鍵をかける。
カードは、犯行声明だった。
第三次六星社文学はいただいていく
真に文学を愛好する者は目を覚ませ
怪盗文士アオイ
あははは、と葵は再び笑った。
なんと無意味な犯行声明か。
これはただの、サービス。あるいは挑発だ。
誰がやったのか、数時間もしないうちに明らかになる。それに、これを一冊盗んでいくことは、文書館にとっても大した損害ではない。なにせ、地下にはまだ五十部近く、同じ雑誌が保管されているのだから。
この犯行声明は、警察に向けたものでも、大学に向けたものでもない。
ただ一人、錫黄鏡子に向けられたものである。
鍵束を振り回して、葵はケースに背を向け、展示室を出た。
悠々と階段を降りる。
カウンターの前に、来館者の姿が見えた。
ときどきやってくる、政治学部の教授だ。訪問者の少ないこの文書館にとっては、常連と言ってもよいだろう。
「こんにちは」
葵はいつものように微笑みかける。
教授は眼鏡を押し上げ、笑い返してくる。
「ああ、君か。カウンターにいないから困っちゃったよ。映像閲覧室を使いたいんだがね」
とんとん、と使用許可願の紙を指で叩く。リストには、葵を待っている間に書いたのだろう、すでに教授の名前が記入されている。
「はい、お待たせしてすみません」
手に持っていた第三次六星社文学を無造作にカウンターの下に突っ込み、葵はリストに印を押した。
「ありがとう」
教授は何事もなく、文書館の奥へ歩き去った。
葵は肩をすくめてそれを見送る。
教授の姿が見えなくなってから、第三次六星社文学もザックに放り込む。少し折れてしまうが、かまうことはない。
ザックを肩にかけ、葵は歩き出す。カウンターの正面にある玄関ドアへと。
職員用のカードをリーダーに通し、自動ドアを開ける。
外に出ると、芝生の庭園は太陽の光に輝いていた。夏の陽が葵の目に刺さる。
まぶしい。
――ここはぼくにはまぶしすぎた。
葵は、ザックの奥からシガレットケースを取り出した。真新しい煙草が二十本、入っている。ライターも一緒に。一本を引き抜いて、慣れた手つきで指に挟む。
玄関口に立ったまま、火を点ける。
一口吸って、ゆっくりと吐き出す。
濁った煙は庭園の中をゆらゆらとたゆたい、陽光に紛れて消えていく。
それが痛快だった。
汚してやりたい、とずっと思っていた。
また一人、来館者が現れた。これまた顔見知りの教員だ。この文書館に用事がある顔ぶれは大体決まっているのだ。最初は鏡子もその一人にすぎなかった。
それなのに、彼女にずいぶん引き留められてしまった。
教員は、葵が煙草を吸っているのを見て、ぎょっとしたような顔をした。
「君は、受け付けの……。煙草休憩かね? でも喫煙所は……えーと、どこだっけ」
「ここには喫煙所はありませんよ。庭園内も、館内も、全て禁煙です」
教員は困惑したように目を見開いている。反応に困っているのだろう。
あはははは、ともう一つ声を立てて笑い、葵は煙草を手にしたまま、悠々と芝生の上を歩き出した。
教員は、首をひねってそれを見送った。
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