第10回 昼餐会(その3)
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それから、樽田を取り押さえるまでの間、小ホールはちょっとした戦場の様相を呈した。
佐富たちが事務局長をつかまえて事情を説明している間に、樽田が駆け込んできた。どこかの清掃用ロッカーから調達してきたのだろう、ステンレス製のモップを新たな武器として携えていた。
まだ事情を知らない科研長が「君は誰かね」と穏やかに誰何したのだが、あっというまにモップで腹を突かれ、蹴り倒された。
ホール内は騒然となった。
樽田は、直線的に佐富を狙うことはせず、モップを振り回して威嚇しながら、料理を乗せたカートの列に近づいた。二人のウェイターが駆け寄ると、樽田はモップを投げつけた。二人がひるむ隙に、深皿を手にとってフォンデュをすくい、「うおりゃあ!」と二人の顔めがけて振りまいた。
スープは円弧を描いて飛び散った。ウェイターたちは、「アチチチッ!」と目をかばって引き下がる。
一同は悲鳴を上げ、入り口に近かった者は外へ飛び出した。次々とシャンパングラスの割れる音が鳴り響く。樽田はローストビーフを切り分けるための長い肉切りナイフを手にとり、素早く入り口の前に立ちはだかる。ドアまであと一歩という距離まで近づいた諏訪路にそのナイフを振りかざす。切りつけられはしなかったようだが、「ひいっ」と悲鳴を上げて、諏訪路はその場にへたり込む。残った者は、仕方なく正面ステージへと逃げる。できるだけ樽田と距離を取りたい、という心理の現れだ。四つん這いになって諏訪路もその後に続く。
鏡子と桜下は、佐富と共に逃げ遅れてしまった。佐富をかばうように、桜下が前に立つ。
「大丈夫か? あのナイフ、どのくらい威力があるんだろう」
「のこぎりみたいに刃がギザギザっすからねえ。やられると、痛いんじゃないすか」
「何をのんきなことを言ってるんだ、きみたち。事務局長、警備員はどうした」
「すぐに来るはずです、もう少しお待ちください」
「佐富くん佐富くん、彼は一体、何なんだね」
諏訪路がようやく追いついた。声が裏返っている。
ナイフを構えた樽田は、大声で佐富の引き渡しを要求した。
「佐富先生だけ、こっちに突き出せ。他の人間には危害を加えないことを約束する」
テレビドラマの銀行強盗のように、堂々とした態度である。
その言葉に、全員の視線が佐富に集まる。
「おい、まさか」
乾きかけの血が黒々とこびりついている顔をひきつらせ、佐富がつぶやく。
「いやいや、ないっすよ。そんなこと誰もしないっすよ、先生」
桜下が落ち着かせる。
「警備員がもうすぐ来ますから。少しだけの我慢です」
事務局長が繰り返す。
反応がないことにいらだった様子で、樽田はモップを拾い上げた。どうするのか、と見ていると、両開きのドアの取っ手にモップの柄を差し込む。かんぬきをかけた格好だ。所詮モップなので、外から強い力で押せば折れるだろうが、時間稼ぎにはなるだろう。
「そうか。みんなそんなに佐富先生が大事か。じゃあしょうがない」
樽田は、肉切りナイフを構え、大股に一歩踏み出した。
わっ、と事務局長は佐富の側から逃げ出し、料理カートの下に潜り込む。それを見て、いいアイデアだと思ったのか、諏訪路とウェイターもその後に続く。
「おいおい、諏訪路くんっ!」
佐富の声は哀しそうだった。
桜下が、鏡子にもカートの下に行くよう、手振りで示した。
「おい、大丈夫なのか」
「鏡子さんは女の子すからね。万が一、顔に傷がつくといけないっしょ」
「なんと。桜下さんからそんな気遣いをされるとは……でも、ありがたくお言葉に従うぞ」
鏡子ももそもそと料理カートの下に逃げ込む。
樽田の正面に残ったのは、桜下と佐富だけになってしまった。
鏡子はカートの下から、どうなるとかと固唾を飲んで見守る。
佐富が桜下に何事かささやいた。
桜下は、さっと横に走り、料理カートから、樽田が手にしているのと同じ肉切りナイフと、スープ鍋の蓋を手にとった。
さらに肉皿の蓋とナイフを一本、手にして佐富の側に戻る。長い肉切りナイフを佐富に手渡す。二人は盾のように、皿の蓋を構えた。小窓から差し込む夏の陽に、銀器がきらりと輝く。
「二対一、ってわけか。教え子に戦わせようとはご立派ですね、佐富先生」
「盾がある分、武装はこっちが有利なんじゃないすか」
挑発するように、桜下が呼びかける。
樽田は、身動きせず、二人の出方をうかがっている。
佐富と桜下は、少しずつ距離を開けて、樽田を挟むように位置を取ろうとする。
「こ、これでもね。ぼくは昔、ちょっと剣道をかじったことがあるんだ」
左手にナイフを構え、脅すように佐富が吠える。だがその声は少し震えている。
「あっそ。俺もやってたよ。三段だぜ、先生」
樽田は、片手のままナイフを構え直した。正面に刃を向ける。
素人の鏡子が見てもその構えは様になっていた。迫力を感じる。
「……桜下くん、きみ、武道の経験は」
「ないっすねえ。先生の剣道に期待します。ちなみに先生は何段すか」
余計なことを聞くな、と言いたそうに佐富は顔をしかめた。
これは期待できそうもないなあ、と鏡子。
鈍い音がして、ドアを閉じているモップが揺れた。
どうやら警備員が到着したらしい。ドアを叩く音が強くなる。体当たりしているのだろう。
時間がないと見たのか、樽田が仕掛けた。一瞬で佐富の懐に飛び込み、ナイフで小手を打つ。激しい打撃音と共に、「ああっ!」と佐富の悲鳴が上がる。佐富のナイフはあっけなく床に打ち落とされた。
「痛い痛い痛い!」佐富は左手首を押さえて床に転げる。
駆け寄ってくる桜下の顔にめがけて、樽田は躊躇なくナイフを突き出す。怯えた顔で桜下は飛び下がる。
倒れ込んだ佐富に樽田がのしかかる。
――こいつ、本気だ。本気で殺すつもりだ。
やっと鏡子にも実感がわいてきた。樽田は、佐富の首にナイフの刃を押し当てようとしている。頸動脈を切るつもりだ。
その瞬間、鏡子はテレパシーというものの存在を信じた。思念波、というものはあるのかもしれない。樽田の殺意が、空気を震わせて伝わってきた――気がした。全身に鳥肌が立つ。
やっとドアが開いた。制服姿の警備員が二人、駆け込んでくる。樽田は振り返りもせず、もがく佐富の身体を押さえつけて、刃の先に固定しようとしている。
再び近づいた桜下が、樽田の身体に後ろから蹴りつける。
樽田の身体が揺れる。やはり、桜下の方を見ようともしない。彼の意識は佐富にだけ向けられている。
「殺すぞ。近づくな!」
樽田の怒号が響く。
その声に、警備員の足が止まった。
なにやってんだ、どちらにしても殺すつもりなんだよ。見てるつもりかよ!
はっと思い出して、鏡子はカートの外に這い出た。すぐ上には、ホットコーヒーのデキャンタが置かれている。電磁機で保温されているはずだ。それを手にすると、警備員の横を小走りに駆け抜ける。我ながら思い切ったことをしている、と自分の行動に驚く。えいや、っと渾身の力を振り絞って、デキャンタをひっくり返す。コーヒーを樽田の背後にぶちまける。佐富にもかかってしまうだろうが――多少の火傷ですむのなら、死ぬよりはましだろう。
「熱いっ!」
悲鳴はまたしても佐富のものだった。
――さーせん、先生。
コーヒーは樽田の首筋にも降りかかっていた。声は上げなかったが、さすがに樽田の身体が跳ねた。ナイフが佐富の首筋から外れる。警備員たちが躍りかかる。樽田はなおも暴れ続けたが、佐富は身体ごと床を転がって、逃げ出すことに成功していた。
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