第9回 昼餐会(その2)
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佐富は生命の危機に瀕していた。教授室のある七階フロアの一隅に追い詰められている。
目の前には、無精髭を生やした長髪の男が、小型の工作用ハンマーを構えている。小さいとはいえ、鋼鉄の塊。立派な凶器だ。頭を殴られたら、頭蓋骨が陥没する怖れがある。
男は教授室を出たところで待ち伏せていて、いきなり襲いかかってきた。その一撃は間一髪でかわしたものの、逃げる方向を間違えた。反対方向に走っていれば、エレベーターホールだ。階段もあった。
自販機を背にして荒い息を吐きながら、佐富はめまぐるしく思考する。
この男は、誰だ?
伸びすぎた前髪に隠されているが、その目鼻にはなんとなく覚えがある。
「誰か、来てくれ!」
叫ぶのは二度目だ。やはり誰も出てこない
いま、このフロアに誰も在室していないということはないだろう――一人や二人はいるはずだ。だが、教授室は防音がいい。ドアを閉じてしまうと、廊下の音は全く聞こえないのだ。
暴漢は大きく振りかぶって、ハンマーを叩きつけてくる。
それは予期していた。
一か八かで、男に向けて突進する。
ハンマーが頭をかすめた。衝撃で身体が揺れ、タックルは失敗した。男はひらりと身をかわす。しかし前方が開けた。つんのめって転びそうになるのをこらえ、佐富は走り出す。全力疾走だ! と自分を鼓舞するが、エレベーターホールはひどく遠い。教授室のドアの列が無限に続いているように思える。自分はこんなにもノロマだったのか、と愕然とする。
オリンピックの短距離選手並に疾走しているつもりなのだが、佐富の肉体は年相応に衰えている。ふうふう、と息を切らし、どたどたと床を蹴る足は、なかなか次のドアまでたどりつかない。
後ろから風を切る音がした。右肩に激痛が走る。
ひっ! と叫び声が漏れる。
倒れそうになるが、足を踏ん張って前に飛ぶ。
思い出したぞ!
関数型プログラミング言語万能論者の、
何年か前に、共著を出すことになって一度だけ顔を合わせた、工学研究科の助教だ。
BARRELだ、と頭の中で結びつくまで、さらに一秒かかった。
共著を出せなくなったことを恨んでいたって?
もういいじゃないかそんな本!
だいたい、文学批評とプログラミング言語論のコラボなんて馬鹿げた企画を立てた編集者が悪いんだ。そんな本、誰が読むんだよ!
世間から見向きもされない本を書くなんて時間の無駄だぁぁぁ!
まてまて、それだけじゃないな。奴は、美伶の情夫だったのだから、えーと、つまり、奴からすると、ぼくが美伶くんを寝取ったという認識になるのか。
心外だぞ、と心の中で絶叫する。
エレベーターホールまで、あと五歩。ドアを二つ越えればいいだけだ。
裏切って梯子を外したのは彼女だ。恨むなら、美伶くんを恨め!
女なんてそんなもんじゃないか、え?
ぼかあ別に、今さら結婚なんてしたくなかったんだ。
あれは取引だぞ。
八年も昔のことを引きずってるメンヘラ女を引き受けるんだから、大した社会貢献じゃないか。あの女に振り回されてきた、そしてこれからも振り回され続けたかもしれない、君みたいなあわれな男たちからは、感謝されてもいいくらいだよ!
右手が動かないことに気付く。
肩を割られたのかもしれない。
だがかまっていられない。
「うおおおお!」
背後から雄叫びが聞こえた。次の一撃が来ることを予期して、また跳躍する。
後頭部をハンマーがかすめたのがわかった。髪の毛に痛覚が芽生えたかのようだ。
その時、佐富は視界の隅に希望の天使の羽を見いだした。エレベーターの扉が音もなく開いていく。
階数表示の「7」の数字が点灯している。
「あけろおおおおおおおおっ!」
肺から空気を絞り出し、樽田に劣らない咆吼を放つ。
左肩からエレベーターの中に突撃する。
中には、見知った二人の学生が、ぽかんと口を開けて突っ立っていた。それが桜下と鏡子であると認識するより先に、再び絶叫する。
「閉じろ、閉じるんだっ! 早く!」
のろのろと――佐富にはそう見えた――桜下の手がエレベーターの横面に伸び、「閉」のボタンを押す。
樽田もエレベーター目がけて突っ込んでくる。
ハンマーを振りかざしている。
そうか、と佐富は恐怖する。
ドアに手を挟むだけで、エレベーターを止めることができるのだ。接触を感知したら、ドアはまた開いてしまう。
最後の力を振り絞って、回し蹴りを放つ。ぐきりと腰が悲鳴を上げる。
尖った革靴の先端が樽田の腹にめり込んだ。
「ぐっ」
低いうなり声。
手応えがあった。
ゴトン、と鈍い音を立ててハンマーがエレベーターの床に落ちた。あわてて足を引っ込める。
樽田の身体はエレベーターから押し戻された。するするとドアが閉じる。
全身から力が抜けた。くたくたと、佐富は床に座り込んだ。
「先生、あの、これは一体」
キャスケットを被った女子学生の声は震えている。おびえているようだ。
「ちょっとした、運動、さ。昼餐会の、前に、ちょいと、運動、をね」
ハリウッド俳優張りに気取った返しを決めようとしたが、息が続かない。
「もしかして、今のが、樽田さんすか」
さすがに桜下は理解したようだった。顔が青ざめている。
「そうだ。早く、警備員を呼ぶんだ」
「へ、へんなはなし、警備室の番号なんて知りませんよ」
それはそうだ。佐富も知らない。
「下に降りて、ひとまずホールのみんなに合流だ」
七階から二階までなら、階段よりエレベーターの方が早い。樽田が全力で階段を駆け下りたとしても、待ち伏せすることはできないはずだ。
その時になってようやく、佐富は額がぬめっていることに気付いた。手を当ててみると、べったりと血がまとわりつく。
――そりゃあ、スズキさんが怖がるはずだな。
痛みはあまり気にならなかった。佐富は安堵の溜息を漏らした。
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