第8回 昼餐会(その1)

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 翌朝は天河と共に朝食をとり、十一時ごろには大学へ出かける準備をし始めた。


「待っている間、暇ね。鏡子の論文を読んであげるわ。ついでに、その第三次六星社文学とやらも」

 そう言われたので、PCを開いて資料をまとめてあるフォルダを教えた。

 天河の読書スピードは速い。三時間もあれば、読み切ってしまうだろう。

「第二号準備号をテキストに起こしたデータも入ってるけど。諏訪路先生の本を読んだ方が早いんじゃないかな」

「そちらは時間があれば読むわ。それより、この松涛武夫と王炊章一って作家の作品。論文で扱ってるのだけでいいからコピーもちょうだい。あたしは読んだことないのよ」


 天河は、もともと文学や歴史などの人文教養には興味が薄い。小説は、大学の講義で扱われたもの以外はほとんど読まない。三つ目の学士号として文学部を選んだのは、ただ「簡単にA+が取れそうだったから」というだけの理由である。


「『無敗の手』くらい読んでるかと思ったぞ」

「名前も初めて聞いたわ、そんなマイナー作家」

「そりゃまあ、同時期に三島・川端、ミステリでは横溝という大物がそろっているから、マイナーに見えるかもしれないが。それなりに大家なんだぞ」


 隣の部屋に押し込んだラックを一つ、引っ張り出す。全集本とコピーの束が突っ込んである。出版物の現物があるのに、別にコピーを取っているのは、いろいろと書き込みがしやすいからである。


 洗面所で念入りに髪を整え、化粧をする。服装は黒いパンツに白い半袖シャツ、ややフォーマルな場であることを意識してネクタイを締める。頭にお気に入りのキャスケットを乗せて、出来上がりである。


「んじゃ、行ってくるから」

「ちょっと待ちなさいよ」

 身支度を整えている間に、天河は早くも一本、論文を読んでしまったようだった。

 PCデスクのチェアに座って、鏡子を振り返る。

「ん、ん? 論文の感想なら、後にしようぜ」

「違うわよ」

「じゃあなんだ」

 天河は、「見下し」に定評のある、翳りのある目で鏡子を見つめた。


「あたしを勉強の動機付けに使うのはやめなさい」


 ピシリと、氷が割れる音が聴こえた気がした。

「え? え……」

 昨夜、寝る前に話していたことをおぼろげに思い出す。


 そういえば、そんなことを言ったかもしれない。


「それだけよ」

 ふっと天河は笑った。

「鏡子が学者になっても、つまらない気がするのよね。よくいる、平凡でドメスティックでローカルな文学研究者になっちゃうだけね。容易に想像できるわ」


 いやー、その平凡でローカルな学者になることすら、僕にとっては大変なんだけどもさ。


「じゃあ探偵にでもなるか。目指せ名探偵」

 冗談で話を逸らしたつもりだったが、意外と天河は食いついてきた。

「目指せ、ということは、鏡子は自分では名探偵だと思ってないわけね? 大学の中で、小さな事件をいろいろ解決したけれど……それでは不満なの? 鏡子の中で名探偵の条件て、何かしら?」

「ええー?」


 急いでるんだけどな、と思いつつ、鏡子は考える。大学までは歩いて五分とはいえ、ギリギリに着くのはまずかろう。しかし天河の質問は、鏡子を刺激した。


「……対決すべき怪盗が出現することかな」

 天河が目を見開く。

「ほう。怪盗。謎を解くだけではだめなのかしら? 鏡子はそれが楽しいのだと思っていたけれど」

「この世に謎なんかないよ」

 桜下にしたのと同じ回答だ。


 一瞬間を置いて、天河の目に理解の色が浮かんだ。

「なるほど。あんたは主役になりたいのね。だから引き立て役が欲しい、と」

「うーん、そうなのかも?」


 フィクションの中の怪盗は、それ自体を主人公にしたものを除けば、常に名探偵を引き立てるためだけに存在する、と言っても過言ではない。例えば、江戸川乱歩の作りだした名キャラクター、怪人二十面相と明智小五郎は実は同一人物である、自作自演だ、という解釈も成り立つ。二十面相は世間の注目を集める劇場型犯罪を引き起こし、一度で止めておけばいいのに明智小五郎が出しゃばってくるまで犯行を続け、最後には後一歩というところで必ず明智に捕らえられる、あるいは犯行を阻止される。

 実に明智にとって都合のよい、明智の名声を高めるためだけに存在してくれているような、ありがたい存在である。


「いや、ちょっと違うかな。僕は、嘘くさいくらい、わかりやすい敵と戦いたいんだと思うよ、多分」

「いい自己分析ね」

 天河は満足そうにチェアにもたれて背を反らした。

「なおさら、学者に向いてないわね。アカデミズムの世界には、そんなわかりやすい敵はいないわよ」


 そう、かもしれない。


「書を捨てよ、街に出よう……誰の言葉だっけ?」

 天河は眉をひそめる。

 寺山修司だよ、と鏡子は心の中で呆れる。作家の名前に疎いにもほどがある。

「まあ誰でもいいわ。どうせ死んだ作家でしょ」

 それは正しいが、実に乱暴なまとめ方だ。

「とにかく、あんたも街に出た方がいい」

「何が言いたいのかよくわからんが……続きは戻ってから聞くよ。もう時間がないんだ」

「あらそう。引き止めてしまって悪かったわね」

 あっさりと天河は引き下がった。

 じゃあな、と鏡子は部屋を出た。





 

 文学研究科棟の二階にある小ホールの入り口には「二〇一一年度研究助手論文審査会関係者懇親会」と看板が立てかけられていた。受け付けは設けられていない。鏡子は両開きのドアを押して中に入った。


 方形のホールの左右二辺には料理がずらりと並んでいる。昼餐会は立食形式で行われるのだ。中央に人垣が出来ている。ウェイターから乾杯用のシャンパンが満たされたグラスを受け取り、鏡子もその輪の中に加わる。

「遅いじゃないすか、鏡子さん」

 桜下は藍色のサマージャケットを身につけ、やはりネクタイを締めていた。その隣に、なんとなく見覚えのある、目のくりくりした小柄な女性が並んでいる。第三の候補者である、中世・古代専修コースの西園にしぞのだった。微妙にゴスロリっぽいピンクフリルのサマードレスを身につけており、西洋人形のような、かわいらしさと不気味さが同居した印象を受けた。


 挨拶を交わすと、西園は興味津々といった様子で鏡子に話しかけてきた。

「錫黄さん『近代國文』の論文読んだよ、系譜研究ってあんな感じなんだねえ。私全然知らないから面白かったよ、うん。次は王炊章一おういしょういちなんだって? うんうん『無敗の手』は私も好きだよ。どんな感じでやるの? ああ、準備論文をまた『近代國文』に出したんだよね、桜下くんから聞いたよ。私は女三宮でやるんだけどねえ、源氏好きかな? 全部読んでる? 女三宮は好き? うんそう不思議ちゃんだよね、彼女には内面がない、とか言われてるけど私はそうは思わないんだよ、彼女の内面について、描写の方法からちょっと斬り込んで行こうかなと思っててね?」


 一方的にまくしたてられて、鏡子は少々引き気味だった。西園はD2のはずだが、あまり先輩後輩という学年の差を意識していないらしい。鏡子たちに対して、それよりは研究者の卵としての同志意識を強く抱いているようだ。

 研究テーマは源氏物語の女三宮おんなさんのみや。数多い源氏物語のヒロインの中では、あまり注目されない、マイナーなキャラクターの一人、と鏡子は認識している。ぶっちゃけ、よく知らない。父親に甘やかされた、幼稚で身勝手な人物、というイメージしかないのだが、西園はその女三宮に著しい共感を示している。研究上の興味というものを越えて、人間的なシンパシーすら感じているようにも見える。


 熱心に女三宮について語り続ける西園に、桜下も苦笑している。鏡子が到着するまで、ずっと相手をさせられていたのだろう。

 適当に相づちをうちつつ、周囲を見渡す。


 科研長は本部から来た執行役員の教授たちと談笑している。諏訪路は、西園の指導教官である草野に捕まっているようだ。

 草野教授はでっぷりと腹の突き出した、禿頭の巨漢である。その押し出しの強そうな外見とは裏腹に、とても声が小さい。そして早口である。学部のころに授業をとって、その聞き取りにくさに辟易させられた。

 「宇津保物語」の第一人者で、古代界隈ではスターと言っても差し支えない名声の持ち主だが、学生からは人気がない。授業が聞きづらいだけでなく、レポートは厳しく、単位認定も厳格だ。必修科目であまりにも「不可」を出しすぎる、毎年、受講生の半分以上が合格点をとれず留年してしまう、ということで事務局からも注意を受けているそうだが、本人はまったく気にとめない。厳しくしているつもりはなくて、ただ機械的に処理したらそうなった、というだけのことだという。一言で言って、教育に興味がないのである。諏訪路先生の対極、研究しかやりたくない……ある意味、学者馬鹿の典型のような人だった。

 今も諏訪路を相手に、その囁くような声で延々と平安前期文学について解説している。西園と同じく、自分の研究内容について語り出すと止まらないタイプらしい。


 やっぱり弟子と師は似るんだね、と鏡子は呆れる。近代が専門の諏訪路が平安文学に詳しいとも興味があるとも思えないのだが、そんなことはおかまいなしだ。


 壁にかかった時計は、十二時五十五分を指していた。もうすぐ始まるな、と思ったとき、桜下の側に文学研究科の事務局長が近寄ってきた。何事か桜下に囁いている。

「そうすねえ、遅いですねえ。携帯にも出ないんですか? んじゃわたしが呼びに行きましょう」


 ああ、と鏡子も気付いた。佐富がまだ来ていないのだ。ホールの中に姿が見えない。


「ん、僕も行こうか」

 西園の長広舌から逃げ出すチャンス、とばかりに鏡子も同行を申し出る。

「ですか。では一緒に教授室まで行きましょう」


 西園は話相手がいなくなることに戸惑っているようで、ん? ん? と歯車がずれてしまったオートマタのように首をかしげている。

 二人はウェイターの持つトレイにグラスをいったん返し、そろってホールを出た。

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