第7回 天河

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 楽しいときには楽しいことが重なるものであるらしく、葵の手を握ってから数日たった八月五日の夜。

 鏡子はアパートに一人の客を迎えていた。

 残念ながら、葵ではないが、待ちかねた喜ばしい客人だった。


 遠来の友人にして、桜下が再会を心待ちにしている才女、天河てんかわ

 アメリカから帰国した彼女は、他県の実家に寄った後、六星社まで足を伸ばしてくれた。


「ちゃんと寝る場所はあるようね」

 キャリーバッグを部屋の隅に押しやって、天河は部屋を見渡した。


 痩せて背が高く、黒髪を長く伸ばしている。肌は日本人離れした白さだが、その白さはどことなく見る者に不健康さを感じさせる。険のある目つきの美人だ。その目つきを、彼女を知る者からはみな――ただ見られているだけで、見下されてるような気がする目だ、と表現する。


「うむ、けっこうがんばって片付けたからな」

「隣の部屋は……と。開けない方がよさそうね」

 くくく、と天河は笑う。

「お察しの通りさ」と鏡子は肩をすくめる。元々、隣の部屋には資料が山と積まれているが、そこへこの部屋からもベッドを解体して押し込んだので、とても見せられたものではない。


 冷蔵庫からチューハイの缶を二つ取り出し、お菓子と一緒にトレイに乗せて運ぶ。

 畳の上に腰を下ろした二人は、プルタブを引き開けて乾杯した。

「お帰り、天河」

「変わらぬ友情に、乾杯」

 天河は洋画の字幕のような、芝居がかった物言いを好む。留学する前からそうだった。四年間で三つの学士号を取った才女は、尊大で、どこまでも上から目線の女だった。


「たまにはスカイプで話そうぜ。いきなり『明日帰国する』なんてチャットに書いてあるから、びっくりしちゃったよ」

「悪いわね。あちらに居るときは、できるだけ日本語を使いたくないのよ。思考言語を切り換えるてると、効率悪いの。ずっと英語で考えるようにしてないと、パフォーマンスが落ちるわ」

「そういうものか」


 共通の知人の近況を話しているだけですぐに時間が経つ。桜下が会いたがっている、という話をすると天河は面白そうに顔をゆがめた。

「あらあの男、まだそんなこと言ってるのかしら? 気が長いのね。あたしが帰国するまで待つつもりかしら」

「本人はそのつもりらしいよ。天河はどうなの」

 くくく、と意地悪そうに笑う。

「まあその時になったら。考えてあげないでもないわね」

 まじか、と鏡子は驚く。


「帰国することになったらの話だけど」

 なるほど、そもそも帰国しない可能性があるということだ。

「ああ……。アメリカの大学に就職するつもりなのか」

「まだわからない。とりあえず博論出してから考えるわ。鏡子、あんたはどうなの。最近どうしてるの。話しなさいよ」

 話すことはたくさんある。そして時間は限られている。天河は、明日の夜には関空からアメリカに戻るのだ。葵のこと、研究助手のこと、諏訪路と佐富をめぐるネットでの論争のこと。鏡子は大急ぎで話す。


「ふんふん、鏡子に男ですって? 明日連れてきなさいよ。あたしが鑑定してあげるわ」

「天河の鑑定って……おまえは相手が男でも女でも『頭がいいかどうか』でしか判断しないじゃないか……。そして絶対にほめないし」

「あらそう? 時々ほめてるわよ。例えば桜下のこととか。『頭が悪いってわけじゃないのね』。昔、そう言わなかったっけ?」

「それ、ほめてたんだ……」

「あたしとしては、彼との友情に免じて、最も高い評価が出るように、最も緩い評価基準を適用してあげたつもりなんだけど? はっ、友情だなんて、我ながら甘いものね。甘々だわ。……もしかしてこれが恋って奴かしら」

 天河は真剣な表情で眉をひそめる。

「違うでしょ。えーと、明日の予定なんだけどね。僕は正午から、大学院で昼餐会があるんだ」

「ああ、研究助手の候補の人たちで集まるんだっけ。あたしは明日帰るんだから、そんなのさぼりなさいよ」

「すまないけど、科研長も来るし大学執行部のお偉いさんも来るから、それは無理。二時には終わるからさ。その後、桜下さんと一緒にお茶でもどうかなと。葵くんは、文書館でバイトが入ってるんだ」

「いいじゃない。文書館まで行きましょう。どうせあんな辺鄙なところ、人なんか来ないでしょう。少し話すくらいできるわ」

「まあね~。別にいいけど……あんまり余計なこと言わないでくれよ? まだどうなるかわかんないんだからさ」

 ふふん、と天河は笑う。


「急に乙女になっちゃって。あーあ、キリッと探偵活動にいそしんでいた鏡子が、どうしてこうデレデレになってしまったのかしら。残念極まりないわ。ウォルマートのお刺身を電子レンジで温めたくらい残念だわ」

「なんだよ、僕に好きな人ができたことを祝ってくれないのかよっ。そんな不味そうな例えを出して残念がるなよっ! ていうかウォルマートに刺身置いてるのかよ、びっくりだよ」

「明石さんていうサラリーマンにもアプローチされてるんでしょう? モテ期到来ね」

「そっちはあんまうれしくないんだけどっ」

「蜜蜂が寄ってくるのは、花が咲いてる証よ。お互い良かったわね、まだ枯れてなくて」


 チューハイの缶を二本ずつ開けたところで、二人は寝る支度を始めた。交代でバスルームを使う間に、鏡子は天河のために客用の布団を引っ張り出す。

 二組の布団を敷くと部屋は一杯になった。


 布団に入って消灯し、枕を並べたまま、二人は語り続ける。

 天河がイェールで取っている講義の内容を切れ切れに話していく。博士課程扱いで在籍している天河は、学部の授業も興味が赴くままに何でも聴講しているという。宇宙は情報で構築された架構にすぎないという仮説だとか、シンボリズムから検討するフリーメーソンの歴史だとか、極地で観察される逆光進化生命体の話だとか、アメリカの各州法の相違点であるとか。彼女の中心的な興味は、ポスト資本主義と修正民主主義の連合思想、というものであるらしいが、それについては多くを語らない。まだ話すほどまとまっていないのだそうだ。

 鏡子は、それに比べて自分の話すことが、あまりにも狭い領域に集中していることに気付かされる。論文を書いた松涛武夫の系譜論、これから書こうとしている王炊章一の『無敗の手』について、第三次六星社文学について。最近、知識を得たり思索したりしたことを中心に。


 天河が笑う。

「なんだか、鏡子はずいぶん真面目に院生をやっているのね。普通、日本の文学部の院生はM1では論文なんて出さないでしょ。相変わらず、桜下さんと探偵ごっこをやっているものだとばかり思ってたわ」

「天河がアメリカに行っちゃってから、どうもつまんなくてさ。暇だから論文を書いてみたんだ」

「暇だから、か。余裕あるじゃない。鏡子も日本の大学なんか辞めて、アメリカに来なさいよ」

「日本文学で留学する人なんていないだろう」

「日本学、なら受け入れてくれるんじゃないかしら。英語で論文が書ければ、鏡子なら十分やっていけると思うけど」

「そのハードルが高いんだよ……。僕だけじゃないけど、日文学科なんて、外国語やらなくていいから選んだ、なんて奴ばかりだぞ」

「消極的ね」

「それにさあ」


 僕はそんなに遠くまで行けないんだよ、とつぶやく。


「思ってるほど遠くないわよ。飛行機でほんの半日よ」


 そうじゃない、そうじゃないんだ。距離の問題ではない。


 天河もおそらくは分かってて言っている。

「おまえは、よくモチベが続くな。すごいと思うよ」

 称賛の言葉が口から飛び出す。

 三つの学士号を取り、学卒助教試験を通り、今やアメリカの名門大学で博士号を取ろうとしている。頭脳明晰であることは当然だろうが、それだけでは成し遂げられない。鏡子が敬服するのは、彼女のバイタリティだ。


 遠くへ行きたい。


 若者なら多かれ少なかれ誰にでもある欲求だ。生まれ故郷の街を出て、もっと価値のある場所へ行きたい、と。

 天河は、その欲求が人並み外れて強い。

 この人生で行ける限り遠くまで行ってやろう、という気概がある。

 鏡子にもあったその欲求は、多くの平凡な若者と同じく、受験の勝者として有名大学へ進学したことで半ば満たされてしまっている。

 あるいは、大学院へ進学したことも、かろうじてその欲求の続きかもしれない。学部よりも、もっと価値のある何かに接近できているような気がする。

 でも、そこまでだ。


「あらもっとほめてくれてもいいのよ」

 天河は持ち上げられたからといっていい気になるような安っぽいメンタルの持ち主ではないが、称賛されること、評価されることは大好きである。

 鏡子は苦笑する。

「い・や・だ・ね。僕はおまえほど、ほめ甲斐がない奴を知らない」


 次第にやりとりは、不明瞭なものになっていった。天河の言葉に、時々英語が混じるようになってきた。

 その綺麗な発音を聞いているうちに、鏡子の目から涙がこぼれた。

 言わないだけで、アメリカでの生活は大変なんだろうな、と想像してしまった。

 天河は誰にも愚痴をこぼさない。

 鏡子にとって、天河が同性の唯一の親友であるように、天河にとっても鏡子はそのはずだ。その鏡子にも言わない。もちろん、桜下などに言うはずもない。

 本当は苦労してるんだろう? と尋ねても、天河は決して認めない。自分にとっては大したことではない、平気でやっている、と言うはずだ。それが本当なのか嘘なのか、鏡子に知る術はない。もしかすると、本人も分かってないのかもしれない。


「本当は」

 眠気に襲われながら、鏡子は本音を吐く。


「おまえが帰ってきた時に。馬鹿にされないように――まだ友だちに値すると思ってもらえるように。おまえに見放されないように。そう思いながら論文書いてた」

 隣からは寝息が聞こえてくる。

「いまもそうだ。研究助手、取りたいのもそう。おまえと友だちとして、釣り合っていられるように、かな。なんたっておまえは、頭が悪い人間が嫌いだからさ」

 僕はもともと、あんまり頭良くないけどさ、と付け加える。


「馬鹿ね」

 しばらく間を置いて、天河から言葉が返ってきた。

「馬鹿正直ね」

 彼女の声が遠くに感じる。

 本格的に、鏡子は眠りに落ちかけていた。


「友だちは頭の良さで選ぶものじゃないことくらい、あたしだって知ってるのよ」

「……なんだよ。昔、僕に向かって『あなたは優秀だから友だちになってあげるわ』なんて言ってたくせに」

 かろうじて言い返す。


「馬鹿ね」

 天河は繰り返す。


 その声はあまりにも遠すぎて、もう鏡子の耳には届いていなかった。

「文学部みたいな世捨て人の集まりに加わろうと思う人が、優秀なはずないでしょ」

 出来のいい冗談のつもりだったらしく、天河は自分の言った言葉に自分で笑いを漏らした。

「ちょっと、聞いてるの」

 鏡子からは返事がない。

「ずるいわよ、先に寝るなんて」

 やがて、あきらめたように天河も眠りについた。

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