第6回 進展

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 六星社市では、毎年七月の終わりに花火大会が開かれる。市街地から東の方角に駅を越えた、木津川沿いの河川敷で催されるその花火大会は、近隣の街からも大勢見物客が訪ずれる大きなイベントだった。これは試験期間中の学部生にとっても抗しがたい誘惑で、鏡子も学部生時代には、試験期間の息抜きと称してサークル仲間と誘い合わせ、この花火を見に行くのが毎年恒例であった。


 今年、鏡子の隣にいるのは葵。

 鏡子はこの日のために奮発して浴衣を購入し、着てきたのだが、葵はいたって普通の、ハーフパンツにシャツ、という普段どおりの格好であった。


 葵は鏡子の浴衣を見て、少し驚いた様子だったが、それだけだ。

 せめて「似合ってますね」くらい言ってくれてもいいと思うのだが。

 なんだか自分だけが気合いを入れてきたみたいで、恥ずかしい。

 花火大会に誘ったことからして、鏡子としてはずいぶん積極果敢な行動であるのだが、その原因はあの明石という男にあった。

 先日以来、明石からは何度もお誘いのメールが来ており、その相手をするのには辟易していたが、その大胆さ、図々しさに触発されたのである。

 うむむ、確かに、いい年こいて異性にアプローチするのなら、このくらいの積極性は必要であろう、見習うべし、というわけだ。

 拍子抜けするくらいあっけなく、葵は誘いに応じてくれた。

 明石が知るよしもないが、鏡子は彼に感謝している。


 二人は河川敷の土手の上に並んで座り、屋台で買ったたこ焼きを食べていた。

 花火は佳境を迎えていた。ひっきりなしに打ち上げの音が鳴り響き、夜空に色とりどりの花を咲かせていた。


「安宅さんには結局、お会いできなかったんですね」

「うん? そうだよ。長井さんから頼んでもらったんだけどさ、あっさり断られちゃって」

 ドン、ドンと新たな光の環が炸裂し、あでやかに消えていく。

「それで、諦めちゃったんですか」

 葵の口調はやや非難がましい。

「うーん、だってねえ。もう必要なさそうだし」

「ネット上ではもう終わった事件として扱われていますしね」

 葵は鏡子の調査の結果に不満そうだった。

 せっかく花火を見に来たというのに、彼は鏡子の浴衣姿よりも、第三次六星社文学の話を聞きたがっていた。

 鏡子としては、葵との話の種になれば、なんでも良い。


 第三次六星社文学をめぐるネット上の騒動は、電撃的に決着した。

 佐富はこの問題についての特設サイトを設置し、諏訪路と共に弁明を載せた。決定的だったのは、BARRELが贋作の容疑者に名指しした六辻出流の遺族である、安宅美伶が実名で記事を寄稿したことである。

 その内容は、六辻出流の遺稿類は、かねてより親族で調査を行い、整理しているが、第三次六星社文学に関わるメモの類は何一つ発見されていない。BARRELという人物の主張は、亡き父の名誉を毀損するものであり、法的制裁も検討している……というものであった。

 また諏訪路が記したエッセイも、なかなか説得力があるものであった。その主眼は文体検証だった。まず語彙の点から第三次六星社文学第二号準備稿と第一号を比較検討したもので、少なくとも、昭和末期に書かれたことを示唆するような用法、語法は用いられていないことを論証していた。次に傍証として、第二次六星社文学から引き続き参加している加藤陽文かとうようぶんが、晩年の日記で第三次六星社文学への寄稿作品に言及していることも挙げられていた。

 2ちゃんねるで、猛威を振るっていた、諏訪路と佐富を糾弾する書き込みも、急激に減少した。BARRELただ一人が、必ずメモは存在する、と自サイトで佐富の記事を攻撃していたが、その記事を引用しようとする人間はいなくなった。


「うーん、あんなのさ、元々騒いでたのは、数人だと思うんだよねえ。2ちゃんねるに書き込みして、諏訪路先生たちを攻撃してたのなんて、もしかするとBARREL一人かもしれないくらいだ」


 ネット上の、特に匿名の書き込みというのは、少数派でも声が大きければ(書き込み回数が多ければ)それなりの勢力に見えてしまうものだが、実際には、攻撃手な言説を執拗に書き込む人間というのは、それほど多くない。


 今回の件でも実のところ、2ちゃんねるで煽っていた書き込みは、BARREL(樽田)の他には、それを支援しようという堀戸ら雨流館の三人組がそのほとんどを占めていた。

 その彼らも、今は書き込みを止めてしまっている。


「そうなのでしょうね。ところで、桜下さんから聞いたのですが」

「うん?」

「佐富先生がご婚約なさったとか。お相手は、安宅美伶さん……佐富先生のブログに記事を寄せた、六辻出流さんの娘さんだとか」

「へえ! それはいいニュースだね。佐富先生、二度目の結婚かあ。めでたい」


 打ち上がった花火の閃光が、葵の顔を照らし出した。

 失望しているような怒ったような表情だった。


「名探偵さんは気にならないんですか?」

 その静かな口調に慌てて考える。葵は一体、何を求めているのか。

 自分に何を答えて欲しいのか。

「名探偵、って言われるのはちょっと……。いやその、僕に何か関係あるのかな?」

「第三次六星社文学には関係ある、かもしれないですね」

 言葉は柔らかいが、鏡子はひるんだ。

「……えーと。葵くんが言いたいのは。安宅さんが、佐富先生と結婚することになったから……真相を明かす証拠を、なかったことにした、とかかな。そういう仮説はありうるね」

「かもしれませんね」

 葵は溜息をついた。

「錫黄さんは」

 まだ鏡子さん、と呼んでくれないんだよなあ、と残念に思う。

「探偵、と呼ばれるのはお嫌いのようですから。では文学研究者としてお聞きします」

「え?」


 たこ焼きの最後の一つに楊枝を刺して、鏡子に差し出す。おずおずとそれをつまむ。

 葵が何を言い出すのか、予測がつかなくて恐ろしい。


「前に喫茶店でお話した時。錫黄さんは、おっしゃってましたね。自分も2ちゃんねるの書き込みに同意だ、と。第一号と第二号準備稿では、明らかに作品の質が異なる、と。その見解は、撤回なさるのですか?」

「諏訪路先生が、論考でそれは検証してるじゃないか。それに、第一号よりも第二号の方が、良い作品になっているのは、当たり前じゃないかな。書き手も研鑽を積むわけだし」

「諏訪路先生のエッセイでは、あくまで語彙や語法を比較したにすぎませんね。語彙や語法が作品の本質でしょうか。錫黄さんが感じた、違和感、質的な違いの原因になり得ますか?」

「……作品の本質では、ないね」

「錫黄さんは、ご自分で読まれた経験を否定するのですか? 2ちゃんねるの意見に流されていただけだ、と?」

 葵の言葉は鋭く鏡子を追い詰める。

 鏡子は黙ってしまった。


 どうして、葵くんは、こんなにも第三次六星社文学にこだわるのだろう。


 疑問が渦を巻く。

「それとも、大学院で文学を研究する人にとっては、そんなことは些末なことなのでしょうか。ぼくのような、ただの小説好き、ただ作品を読むだけの人間からすると、それはとても大事なことのように思うのですが」

 明石に答えた時よりも、数段難しい問い。あるいは、素朴な問い。

 作品にどんな解釈を立てるにせよ、その基盤となるのは正確な読解だ。何が書かれていて、言葉の指し示す射程はどこまでで。文学研究の基礎は、当たり前すぎるくらい当たり前のこと……「読む」ということに置かれている。

 花火の音が途切れた。

 途端に、あたりが暗くなる。葵の顔が闇に沈む。

 鏡子は返事をしたくなかった。答えるのが難しいからではなくて、葵の声に含まれる調子が、攻撃的に感じられたからだった。


 ――まるで、僕が憎いみたいじゃないか。


 喫茶店でのやりとりを思い出す。

 あのときも、そうだったかもしれない。

 葵は、鏡子が文学部の大学院生であることを、過剰に意識しているように思う。

 笑って流したいが、そうはできなかった。正直に答えることにした。


「なぜ僕が、第三次六星社文学を読んだ経験を軽んじるのか、と言うと。一言で言って、興味がないからだ。読んだのも、研究対象として読んだわけじゃない。方法を確立せずに、漫然と読んだだけの経験を、僕は重んじない」


 自分の声が、冷ややかに聞こえることは自覚していた。明石に文化研究の意義を説明したときよりも、格段に冷たい対応だ、と思った。だが、葵の発言は、本人が自覚しているかどうかわからないが、プロ――もしくはプロの卵である鏡子に挑戦しているものだった。

 プロは、挑戦には正面から答えねばならない。


「そうですか」

 素っ気なくつぶやいて、葵はそれきり黙ってしまった。

 最後の仕掛け花火が終わるまで、会話は途切れた。


 駅までの帰る道々、鏡子は悩んでいた。

 葵は、一体、僕のことをどう思っているのか。

 恋愛脳、と笑うことなかれ。

 決して、好かれているかどうか、という単純な問題ではない。葵はなにか、鏡子には理解しがたい一面を抱えている。とても個人的な事情なのだろう、と鏡子は推測する。

 さきほどのやりとりを経ても、鏡子の葵への気持ちは醒めたわけではない。


 ちょっとした、行き違いじゃないか。些細な問題だ。


 そう思いたい。だが、葵にとっては、あれは些細な問題ではないらしい。

 彼を、もっと理解したい。

 決して、嫌われているわけではない、と思う。

 もう少し、時間をかけて距離をつめれば良いだけのことだ。

 鏡子の予定では、花火大会の後、どこかでお酒でも飲まないかと誘うつもりだったが、そんな雰囲気ではなくなってしまった。

 だが、まだ手がないわけではない。

 鏡子は切り札を一つ用意していた。


「あのさ、葵くん」

「はい。どうしました?」

 駅までずっと、道を埋めつくす人混みの中で問いかける。葵は、人混みに押されて鏡子の身体が密着していることもまるで気に留めていない様子だった。

 鏡子も、今はそれどころではなかった。表情が真剣になる。これを断られたら、当分は何もしない、と決めている。

王炊章一おういしょういち先生に、取材を受けてもらえそうなんだけど。一緒にいきませんか」

「え? なんですって」

 葵の声が弾んだ。

「王炊章一って、いや失礼。王炊先生って、ご存命でいらしたんですか! 同年代の松涛武夫や壺洗凱章らはみんな亡くなってますから、てっきり王炊先生もお亡くなりになってるんだと思ってました」


 どうやら、切り札は効果を発揮したようだ。

 本当は、作家本人を取材する必要などない。鏡子の論文に、伝記的事実は不要だ。これは葵の気を引くためだけに用意した企画だ。


「八十年代初めに筆を折って、引退なさってるからね。もう九十歳を越えているんだ。桜下さんを通じて、六星社大の出版局にお願いしてみたら、ご家族と連絡が取れた。今は、鞍馬の医療老人ホームに入ってるんだって」

「面会、できるんですか?」

「いまは少し体調を崩してるんだけど、それが良くなったら、かまわないそうだよ」

「ご健在なんでしょうか」

 心配そうな声だ。

「ちょっぴり認知症が進行してるとのことだけど。おおむね、受け答えははっきりしてるらしいよ。取材はおそらく八月、もしかすると九月までずれ込むかもしれない」

「行きます、是非同行させてください」

「良かった」

 葵は打って変わって朗らかな声になった。


 駅に着くまでの間に、二人はまた元の通り、和やかな雰囲気を取り戻していた。

 九月になったら、司法試験の結果が出るはずだよな、と鏡子は思いをめぐらす。合格していれば、翌年の四月から司法修習。不合格ならば、もう一年浪人だろう。

 どちらにしても、まだ年内一杯は時間がある。

 焦ることはないさ、と自分に言い聞かせる。

 駅にたどり着いた時、ふと思い出したように葵が鏡子を褒めた。


「いやあ、今夜は凄い人出ですね。あ、浴衣、似合ってますよ」

 なんだその流れ。

 とってつけたように浴衣をほめられて、鏡子はびっくりした。

 この夜の人出が凄いのは、六星社大生なら誰でも知っている。葵も知らないはずがない。浴衣姿を褒めるための枕ことばだろうか。それにしても、唐突すぎる。

 やはり葵くんて、もの凄く不器用な人なんではなかろうか、と思われてきた。

「あ、ありがとう」


 そして、さらに驚いたことに、葵は鏡子の手を握った。

 すっ、とごく自然に、向き合ったまま、葵の左手が鏡子の右手にからめられた。鏡子は硬直した。


 え、え、なんだこれ!?


「今日は、生意気言ってごめんなさい。専門家にあんなこと言っちゃいけませんよね。釈迦に説法です。王炊章一の論文、楽しみにしてます。がんばってください」

 言葉が耳をすり抜けていく。

 顔が紅潮しているのがわかる。息が止まった。

 右手が痺れたように動かない。葵の指がじんわりと熱を放っている。

 それじゃあ、おやすみなさい。

 一言、そう囁くと、するりと指をほどき、葵は改札口の奥へと消えていった。

 鏡子は呆然としていた。

 ホームに続く階段から、葵が手を振ってくれているのに気付いて、慌てて振り返す。

 葵の姿が見えなくなってから、右手を何度も開いたり閉じたりする。まだ葵のぬくもりが残っている。


 あ、あわわわわ。この手、洗わないぞ、一生洗わない、と鏡子は決意する(そんなわけにいかないだろう、と自分で突っ込みつつ)。


 ――AKBの握手会に行くキモオタどもはこんな気持ちなのかもしれない。


 ふわふわと夢見心地のまま駅を出て、鏡子はアパートへの帰路についた。 

 

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