第5回 悪くない取引
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雨流館の裏手で佐富はタクシーを降りた。手にしたケーキの箱を注意深く水平に保ち、ゆっくりと生け垣の奥へと進む。庭木は外から家を覆い隠すように密生している。ちょっとした森のようだ。木々のかなたに雨流館の背面がのぞく。
木立を抜けると、ガラスと鉄筋で作られたモダンデザインの平屋が現れた。
宇宙船の発着ステーションのように未来的な、曲線の多いデザインだ。一般的な建て売り住宅とはかけ離れた、富をさりげなく誇示する外観。
ふうん、と佐富はうなった。
――美伶くんが、安宅家の一員だとは知らなかった。
八年前、佐富の教え子だった時には、たまたま姓が同じだけで、安宅家とは無関係だと言っていた。名家の出だというのを誇って、得なことはなにもない。むしろ嫉妬や羨望で、嫌な目に遭うことが増えるだけだ。隠していたのもわかる。
知っていたら、自分は美伶と結婚した可能性はあったろうか。
佐富は自問する。
妻と離婚して、独身の自由を取り戻したように感じていた。可愛い女子学生をゲームのように口説き落とす、自分の手腕が健在であることを確認して、誇りを感じていた。
安宅美伶も、そうしたゲームで勝ち取った景品の一つにすぎなかった。
桜下がもたらしてくれた情報は、佐富にとって渡りに船だった。
探偵を雇うよりも早く、問題の核心を除去できるかもしれない。
全てはこれからの交渉にかかっている。
とはいえ。
桜下から聞いた限り、佐富が提供できる手札は、たった一つしかない。
美伶と結婚することだ。
彼女はそれを望んでいる。
――ぼくも五十五歳。潮時だな。離婚してから十年、十分に楽しんだことだし。
悪くない取引になるだろう、と佐富は考えている。
美伶のプライドを傷つけないように、慎重に話を進めなければならないだろうが。
その一冊のノートを手に入れることができれば。BARRELの陰謀を破綻させ、名声を守り。科研長の座を狙うことができる。
落ち着け、大した問題じゃないさ。たかだか、ぼくのプライベートを売り渡すだけのことだ。
庭石を踏み、玄関に立つ。
これまでも、数多くのトラブルを切り抜けてきた。冷静に対処すれば、乗り越えられない危険はない――佐富はそう信じている。
呼び鈴を鳴らす。
この時間に訪問することは、すでに桜下を通じて相手にも伝えてある。
――教え子に借りを作ってしまったな。いや、借りだと思う必要もないか。桜下くんにとっても、他人事ではない。ドクターの院生にとっちゃあ、教官の浮沈と自分の未来もある意味では一心同体、運命共同体だ。ぼくが助かれば彼にもメリットがある。
「お待ちしておりました」
そうだ、この声だ。
佐富は思い出す。
それまではぼんやりと顔のイメージが浮かぶだけだったが、声を聞いた瞬間に、はっきりと安宅美伶のことを思い出した。
修論は川端康成だったな。書き終えずに大学院を辞めてしまったが。
多くの教員と同じく、佐富は学生をまず第一に、その学業で把握している。いくら美人だろうと、論文を書かなかった学生など、記憶の彼方だ、たとえ身体を重ねた相手であったとしても、だ。
ドアは自動で開いた。
シックな黒いサマードレスに身を包んだ女性が出迎えてくれた。
ほっそりとした身体つきは、記憶の中にある彼女とほとんど変わっていないように見えた。顔立ちは、整ってはいるが、八年という歳月の影響に抗しきれていなかった。だが、華やぎの残滓がある。美貌、と言っても差し支えない。
安宅美伶、本人だ。
「お久しぶりだな。安宅くん」
何と挨拶したらいいものか、ついに態度が決まらなかった。ぶっきらぼうな、学生に話しかけるような調子になってしまった。
「佐富先生もお元気そうでなによりですわ」
美伶は、うれしそうに応じた。
すっと、ケーキの箱を差し出す。
「これ、照影堂のケーキ。ナポレオンパイ。君の好物だった」
覚えてくれてらしたの、と美伶は声を震わせた。
うん、と佐富はうなづく。
種明かしをすれば、安宅美伶についてのメモを残してあっただけのことだ。
佐富は交際した女性については、手帳に細かくメモを記す習慣があるのだ。誕生日から、デートした日付、場所、プレゼントしたもの、されたもの、好物。それは佐富の几帳面さの表れであると同時に、複数の女性とつきあっている場合に混乱を避けるための予習用メモだった。そのメモのおかげで、佐富はこれまで、二股三股をかけていても、言動で見破られたことは一度もない。
「では、お上がりになってください」
「失礼するよ」
美伶は佐富から目を外さない。見つめ合ったまま、佐富は靴を脱ぎ、部屋に上がった。
八年の時を経て、一組の男女の時間が動き始めた。
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