第4回 安宅美伶
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鏡子が不毛な会食を終えたころ。桜下も京都市を訪れていた。一人ではなく、美女同伴――雨流館の家主、
まずは祇園の会員制倶楽部で酒を飲むのに付き合わされ、十一時に倶楽部が閉店してからは、木屋町通りのホストクラブへ。
祇園と木屋町通りは、地理的にはごく近く、歩いても十分ほどである。だが美伶は当然のようにタクシーに乗る。
美伶の馴染みだというそのホストクラブは、雑然とした裏通りの雑居ビルの中にある。ビルには居酒屋とキャバクラの看板が鈴なりになっており、通りでは店員が酔客に声をかけている。そんな騒がしい場所だったが、エレベーターを降りると別世界のように静まりかえっていた。
破れたビンテージジーンズにジャラジャラとシルバーアクセサリーをぶら下げた、金髪の男たちが出迎える。三人いたが、三人ともジーンズに白シャツやアロハシャツというスタイルだった。ホストと言えば派手なスーツ、という印象だが、京都のホストクラブではカジュアルな服装が流行なのだという。
桜下たちの他に、客はいない。
「いいでしょう。ここはいつ来ても静かだから気に入ってるのよ」
ソファに腰を下ろした美伶に、ホストがうやうやしくメニューを差し出す。それを見て、美伶は無造作に、指に挟んだ煙草の先で、とんとん、といくつかの酒の名前を叩く。
ホストたちが声を張り上げてボトル名を連呼する。大仰にカートに乗せて、二本のボトルが運ばれてくる。
「人気ないんすかね?」
「この店はわたしで持ってるようなものなのよ」
誇らしげに美伶は断言する。
「人聞きの悪い。今夜は美伶さんのために貸し切りっすよ!」
向かいに座る、グラスに酒を作っているホストが合いの手を入れる。
「そういうことにしといてあげるわぁ」
ふふん、と鼻で笑う。美伶が煙草を口元に運ぶと、さっと横手からライターが差し出される。ソファには誰も座らない。テーブルを囲んで丸椅子が置かれ、そこに三人が詰めている。
三人は、なんだかんだと美伶と桜下に話しかけてくる。うるさいことこの上ない。
とはいえ、主賓は美伶である。桜下はあくまで添え物。
――どこにいても、主賓でないと気が済まない美伶さんには、ホストクラブは打って付けの場所でしょうねえ。
馬鹿高い値段が付いているロマネ・コンティを口に運ぶ。
この一ヶ月、桜下は美伶に取り入って、時折その夜遊びに同伴させてもらっている。もちろん雨流館の三人には内緒だ。美伶も桜下を気に入ってるようで――無料ホストくらいに思われているだけだが――かなり立ち入った話もしてくれるようになっていた。
ひとしきりホストたちと歓談し、カラオケを三曲ばかり歌うと、美伶は満足したらしかった。
「よし。しばらく連れと話すから、ほっといてくれていいわよ。下がりなさい」
酒を作るため一人のホストが残り、後の二人は恭しく頭を下げて奥に引っ込んだ。
珍しいことだ。このまま朝まで歌い続けるのかと思っていた。
「さあて桜下くん」
「はいはい、なんでございましょう」
「そろそろ本音でいきましょうよ。君がわたしにへつらってる理由を話しなさいよ。まさか年上好きなのぉ?」
「嫌いじゃないっすよ」
「でもわたしのこと好きってわけじゃないでしょう。こんなオバサン」
「美伶さんはオバサンって感じはしないっすねえ。下宿の皆さんのアイドルですし。わたしなんかが独占しちゃって、お三方に悪いと思ってますよ」
またまた、と酒臭い息を吐く。
「分かるわよ。わたしのこと抱きたいとも思ってないくせに。あんたの笑顔は胸くそ悪い。ホストどもと一緒よ」
向かいに座っているホストは表情を変えない。
「いやあ機会があれば、ホテルまでご一緒してもよございますけど」
あははははは、と桜下の返事を笑い飛ばす。
「あのロト6の当選券が目当て、ってこともなさそうね。おっしゃいよ。佐富先生のことでしょ」
空になった桜下のグラスを取り上げ、ホストが酒を注ぐ。
踏み込むのならここでしょうねえ、と桜下は腹をくくる。
「美伶さんこそ。どうして、樽田さんにさっさとあのノートを渡さないんです?」
コーポ六辻に保存されていた、六辻出流の遺品であるノート。
安宅美伶は、六辻出流の娘だ。
BARRELの切り札を握っているのは、美伶のはずだった。
「じらして楽しんでるだけよお。堀戸の報告によれば、諏訪路先生はかなり参ってるみたいだけど、佐富先生はまだまだ強気のようだし」
「わたしにはそうは見えないっすねえ。美伶さんは、迷ってらっしゃるんじゃないすか」
きっ、と睨まれた。
「なにを知ってるの」
「とくになにも。八年前に、美伶さんが佐富先生の研究室で大学院生をしてたことくらいしかわかりませんでした」
ひくひくと美伶の頬が揺れた。
唐突に、カラオケの操作パネルを取り上げる。立て続けに五曲ばかり入力する。ホストにマイクを差し出す。
「しばらく歌ってなさい」
あ、はい、とホストは慌てて歌い出した。
うるさいハイトーンボイスに隠れようとするかのように、美伶は、桜下の耳元に顔を寄せた。
「わたしの時間は停まってるのよ。わたしは、」
美伶は言いよどむ。
桜下は黙って続きを待つ。
「佐富先生と結婚するつもりだったのよ」
そういう仲だったわけっすか。
「捨てられたけど」
「未練がおありのようで」
「
「樽田さんて人とは寝たんですか」
ネット上でBARRELとして活躍している怪人とは、桜下はいまだ直接顔を合わせていない。
「寝たわよ。いまもわたしが養ってあげてる」
短いやりとりで、桜下はおおむね事情を察した。
「学者の男性がお好きなんすね」
そう、と美伶は自嘲の笑みを浮かべる。
「アカデミシャン・コンプレックスね。言っとくけど、堀戸たちとは寝てないわよ」
「はい」
それから、美伶は滔々と自分の男性遍歴を語り始めた。佐富に捨てられたショックで自暴自棄になり、大学院を中退して遊び暮らすようになった。ホストたちを金で買った。教養が低い男ばかり選んで寝た。それを佐富が知るはずもないのだが、彼へのあてつけのつもりだったのだろう、と自己分析している。
ホストの歌が終わりかけていた。美伶はまた新しい曲を入力した。
入力が受け付けられ、画面に並んでいく曲名を見て、ホストは困ったような顔をした。
「さーせん、ちょっと知らない曲なんで……」
別のホストを呼ぼうとする。
「いいから歌いなさい。途中で止めたらボトル一本一気飲みさせるわよ。声が枯れるまで歌え」
苦しそうな笑顔を浮かべて、ホストはマイクを握り直した。
「んじゃ、わたしの話も聞いて下さい」
頃合いを見て、桜下は切り出した。
「わたし、佐富先生に失脚されると困るんすよ」
美伶はワインボトルを取り上げラッパ飲みする。
手で口元をぬぐって、桜下にボトルを押しつける。
「飲め。全部」
ボトルにはまだ三分の一ほど、ワインが残っている。桜下はそれほど酒が強いわけではない。酒量はすでに限界を迎えている。我慢して、ボトルを取り上げ、喉に流し込む。胃と頭が燃えるように熱くなる。
「ふうん。あいつに科研長になって欲しいわけ? キャリアの後ろ盾になってもらおう、ってことかしらぁ?」
すでに美伶のろれつも怪しい。
ええ、まあ。頭が揺れる。
将来、桜下が大学に就職する時、担当教官が科研長に就いていれば、ポストを斡旋してもらえる可能性も高くなる。
研究助手のことも説明する。これが、科研長選挙にとっても、自分のキャリアにとっても、いかに重要であるのか。
「だから。このまま樽田さんに、例のノートを渡さないで欲しいんです」
「それでわたしに何の得があるのかしら」
頭を桜下の胸に寄せてくる。細い指先が、桜下の首元をなてる。
ぞくりとするような色気があった。酒の影響だろうか、そのまま押し倒してしまいたい衝動にかられる。
「えー、その……。佐富先生と、お会いしたらどうかな~なんて。思ったんすけど。僭越ですが、わたしが仲介してさしあげようかなと」
これは賭けだった。
美伶の、佐富への未練が、完全に憎しみに転化しているのであれば無意味な提案だ。だがそうではない方に桜下は賭けた。
「樽田と別れろってこと?」
「そうなります、かねえ」
美伶はドン・ペリニョンのボトルを取り上げ、あおった。ピンク色の酒が、口元からダラダラとこぼれる。
「どうなっても知らないわよぉ。わたしは別に樽田がいなくても平気だわ。いま、あんたと話してて確信した。わたしは佐富先生が好きなのよ。八年間、ずっとよ。でも樽田はそうじゃない。助教も辞めたし、女を作る甲斐性もなさそうだし。わたしに捨てられたら、ぶち切れるわぁ」
工学研究科情報工学科の助教だった樽田という人物は、一見佐富と接点がなさそうだが、一度だけ共著を出すという話が舞い込んでいた。プログラム言語と文学批評という異種の体系をマッチングさせる、という出版社の立てた企画だった。この本に樽田はずいぶん期待していたようだが、結局、多忙な佐富が原稿をなかなか出さなかったことでその本の出版は流れてしまった。
樽田は、その本が出れば准教授に昇格するという内諾を得ていたのだが、当然それもなかったことになってしまった。
失望した樽田は、塞ぎがちになり、病気と称して出勤しなくなった。そのままなし崩しに退職して、今にいたる。
「そりゃ怖いっすねえ」
「怖いわよ。樽田はほんとにヤバイんだから」
いつのまにか美伶は、佐富と復縁することを前提にして話している。
「えーと、美伶さんは乗り気、ってことすか」
美伶はいきなり桜下に口づけした。口移しに、酒が流し込まれる。目を白黒させて桜下はそれを嚥下する。
身体を離し、ちょっと、勘弁してください、と言おうとすると、また手にボトルを押しつけられた。
ドン・ペリニョンのボトルは、まだずしりと重い。
あはははははは、と美伶はけたたましく笑った。
ぐいっ、と手真似で飲むそぶりをされる。
「飲ーめ。飲ーめ」
苦痛を感じながら、桜下はボトルに口を付ける。
ごくりごくり、次第に酒が喉を通らなくなる。吐き出す寸前で口を離す。
「無理。無理っす」
美伶はそれをとがめず、ボトルを取り返す。
そして、一息に残りを飲み干した。顔が、ぎらぎらと火照っている。酒の油で、肌に乗った化粧が溶けて流れてしまいそうだ。
ふらふらとよろめいて、美伶はソファの反対側に倒れ込んだ。
かすれたその声は、かろうじて聞き取ることができた。
「佐富先生次第だけど。考えてあげてもいいわぁ」
「ありがとうございます」
ほっと、安堵する。目的は果たされた。
美伶はカラオケのパネルを手に取り、演奏を全て停止させた。
疲れ切った顔のホストが、うれしそうにマイクを放す。
寝そべったまま、美伶が新しいボトルを持ってくるように命じる。
また三人のホストが集まってきて、新しい酒の封が切られた。
「桜下。朝まで飲むわよ。気分がいいわぁ。いくらでも飲めそう」
「はい、おつきあいさせていただきやす」
こりゃあトイレで吐くことになりそうだ、と桜下は覚悟を固めた。
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