第3回 明石さん

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 長井と別れた鏡子は、明石の運転するレクサスに乗せられて、京都市へ向かっていた。

 京都になにか用事があるわけでもない。ただ明石から、ドライブしませんか、と誘われたのでつきあうことにしただけだ。


 これは事前に桜下からも言われていた。

「明石クンには、『おまえ、無料で人をこき使うのか』とぶーぶー言われましたんでえ。もしお食事にでも誘われたらつきあってやってください。明石クンは、こちらに赴任したばかりで友だちもいないそうなんで、寂しいらしいんすよ」


 手間を取らせたことは確かなので御礼をするのはやぶさかではない。

 しかし自分がドライブにつきあうことが、御礼になるものだろうか? と疑問に思う鏡子であった。

 つまりは女の子を連れてデート気分に浸りたいということなのだろうが、世の一般的な男性は、綺麗な子を連れ歩きたいものだろう、しかし自分は美人ではない。


 ――誰でもいいってことなんだろうなあ。


 適当に相手してさっさと切り上げよう、と思っていたのだが、明石は京都で夕食を奢ると言って聞かない。

 明石は思いの他、饒舌だった。車中でもハンドルを握ったまま喋りっぱなしであった。

 楽しそうで何よりですなあ、と皮肉めいた感想を抱く。

 鏡子にとってはあまり楽しい会話ではなかった。明石の一方的な自分語りに相づちを打っているだけで時間が過ぎた。


 商学部の出身であること、大学時代に小説を書いていたこと(なんでも桜下に誘われて、同人誌に載せる短編を一作書いたらしい)、アマチュアレスリング部に属していたが腰を痛めて辞めたこと、ゼミ論を三日で書き上げて提出したら教授に叱られて、卒業できなくなりそうだったので泣きついて許してもらったこと、就職してからは順調で出世コースに乗っているとのこと(京都で三年務めたらまた本社に戻れることになっているそうだ)――自分史を一通り語り終えると、今度は仕事の話である。良い別荘地を判別する裏技的方法だとか、マンションを購入する場合は建替計画をチェックしろだとか、およそ鏡子には興味の持てない話を続ける。やがて、話題につまったらしい明石は、桜下のことに言及する。

「あいつもね、いい年こいてまだ学生やってんだから、呆れますよ。一体、いつまで大学にいるつもりなんでしょうね」

 桜下は学部で二年留年していて、六星社大の院に来て三年目。鏡子より三歳年上なので、現在二十七歳のはずだ。明石はストレートに新卒で就職しているそうなので、社会人五年目だろう。

「就職してたら昇進もしますし、あ、わたしもう係長待遇なんですよ、これくらいの車だって買えてます。貯金もできてる。普通は、もう結婚を考えたりする年なんですぜ」


 ああ、それはそうなんだろうなあ、と思う。

 大学の中にいると、外の世界とは時間の感覚がずれていく。鏡子も時々それを感じている。高校の同級生、特に大学に進学しなかった女子は、既に結婚している者もたくさんいる。


「ま、わたしは結婚するあてないですけど。彼女いたんですけどねえ、転勤になったら振られました。三年も待てない、ってね。まったくシビアなもんです」

 反応に困る話だ。それは、残念ですね、と口の中でもごもご言って誤魔化す。

「それにしても桜下。ああいう、フラフラしてる男はマジでダメです。いつまでも学生ノリで。電話一本でわたしにこんな用事を押しつけて平然としてる。あのね、人を動かすとお金がかかるんです。これ社会の常識。そんなこともわかんないんだから、しょうがない奴です」

「うわわ、すみませんすみません、お休みのところ、来ていただいて」

 またしても唐突な桜下ディス。それは間接的に、隣に座っている鏡子をも非難していることになるのだが、明石にとってそれは別の問題らしい。

「いいんです、いいんです、錫黄さんみたいな楽しい人とご一緒できて、うれしいですよ」


 ――楽しい人?? 僕が?? 僕のことなんか何一つ知らない、聞こうともしないくせに。自分の話に相づち打ってくれてたら「楽しい人」ですか、はあ。


 明石という男は、とにかく社会人風を吹かしたがるし、女性の扱いがお上手だとは言えない。いや鏡子でも分かるくらい、下手であるし、どこか女性を軽く見ている。長く大学にいる桜下をダメな奴とこき下ろす一方、女である鏡子が大学院生をしていることは疑問に思わないらしい。

 女はどうせ結婚するんだから、大学院生でもいいんじゃないすか? くらいに思ってんだろうなあ、とその思考が透けて見える。


 その後も明石の社会人としての忙しさ自慢と、桜下への非難は止まらない。

 桜下さんもよくこんな奴に頼み事をしてくれたものだ、さぞ不愉快であったろう、と思っていたのだが、話を聞いているうちにまた別の理解が芽生えてきた。

 寂しいんですよ、と桜下は言っていた。

 それまでずっと東京で生活していた人間が、いきなり地縁もない関西に来たのだ。彼女にも振られたというし、環境の変化でストレスが溜まっていたのだろう。桜下はそこにつけ込んだのだ。鏡子とドライブする程度のことで、喜んで休日を潰してくれる、暇な男だ、と足下を見て依頼したのだろう。……なんだかどっちもどっちである。




 連れて行かれたのは京都市内の中心部だった。三条の繁華街から人気の少ない路地に入り、こじんまりとしたフレンチレストランに連れて行かれた。

「素人は鴨川を見下ろせる先斗町あたりに行きたがりますけど、ほんとに美味い店はこのあたりに集まってるんすよ」

 と得意げな明石。

 京都に赴任して半年の明石が京都通ぶるのは滑稽だった。どうせ誰かの受け売りだろう。


 「素人」である鏡子としては、せっかく京都に来たのだから、鴨川沿いのお店で京料理、といったわかりやすいコースを望んでいたのだが、明石には鏡子の希望を尋ねる気配もなかったので黙っていた。

 料理はオーソドックスなものだったが、味は申し分なかった。

 フォアグラのテリーヌを平らげ、子羊のローストが運ばれてくるころには、鏡子の気分も上向いていた。日ごろは学食や大学周辺の安い食堂で済ませている鏡子にとっては、久しぶりに舌が蕩ける体験だった。


 コースも半ばになって、明石は、ようやく鏡子に話題を振ってきた。

「ところで錫黄さんは何を調べてるんです? 長井さんと話してみて、どうでした?」


 今さらかよ! と心中突っ込みつつも、彼に対しては少し優しい気分になっていた。食事が美味しかったためもあるが、落ち着いて観察する余裕が出てきた。

 明石は明石なりに、緊張していたのだ。やたらと車中で喋っていたのも、初対面の女の子を楽しませようという(楽しくなかったが)彼なりの努力だったのだろう、と好意的に解釈してみる。


「えと……第三次六星社文学、というものについてですね。いまちょっとネット上で話題になってるんですけど、知りませんか」


 知りませんねえ、と明石は首をかしげる。

 やはり一連の騒動の認知度は、人文界隈に限られているらしい。


 鏡子は手短に、第三次六星社文学をめぐる真贋騒動について解説した。

「僕の論文は昭和中期なんで直接関係ないんですけど。王炊章一も、けっこう第三次六星社文学に傾倒してたんですよ。それで興味が出てきて調べることにしたんですよ」

 葵に頼まれたから、という話は省略する。

「ははあ。んでも、そもそもの第三次六星社文学第一号でしたっけ、そんな戦前の雑誌、残ってたんですか? 六星社大のあたりは、空襲の被害が酷かった、と桜下から聞いた気がしますけど」


 ああ、と鏡子は文書館の陳列棚に付されていた解説を思い出しながら答える。

「図書館も文書館も空襲で焼失したんですけど。主要な文書類はあらかじめ、周辺に退避させていたようですね。第一号は五十部ほど、焼失を逃れたそうです」


「五十部も。へえたくさんあったんですね」

「売れなかった分を、全部大学に寄贈してたみたいですよ」


 そりゃそんなの売れんでしょう、と明石は適当な返事をする。

「でも、六星社の街ごと焼き払われましたから、どこに退避させたのか分からなくなった文献も多くて。第三次六星社文学の退避場所が発見されたのは昭和二十二年だったかな」

「終戦から二年後ですか、はあ」

「再開発のための区画整理事業で、廃屋の地下から見つかったそうです」


 なるほどお、とまたも適当な相づちの明石。

「それから四十年も経って、第二号の原稿が発見されたわけですかあ。怪しいですねえ。うんそりゃ怪しい。そんな怪しいものをずっと研究してるんだから、文学部の教授っていいかげんだなあ」


 研究してたのは諏訪路先生だけなのだが。


「大体ね、」と明石はナイフを振る。

「文学部って、世の中に何の役に立ってるんです? 法学や経済は分かりますけど、なんか歴史だとか文学だとか、ふわふわした実体のないものばかり研究してますよね。文学部卒は就職も良くないし。時間の無駄っぽくないですか?」


 うわーお。文学部の大学院生である僕を前に、いきなり文学部ディスですか。「ふわふわした実体のないもの」なんて言ったら、経済だってそうだし、法学だって人が作ったローカルルールをいじくり回してるだけだぞ。法や経済が実学なんてのも虚像だよ。


 げんなりする気分だったが、その手の質問には慣れっこだった。学部生の頃から、何度も耳にしている批判だ。「役に立たないもの真面目に研究するところにロマンがあるんですよ」などと答えてお茶を濁すのが学部生の常道だが、大学院生として業界の一翼を担う(予定)立場になったからには、もう少し説得力のある言葉を出さねばなるまい。


「文学、歴史、哲学……文化研究は、インフラ整備ですよ。文化も社会のインフラです」

「インフラねえ。社会のインフラってことなら、まず法律や会計制度でしょう」

 明石は首をかしげた。


 会計処理の制度を法律と並んで社会インフラに数えるところが、商学部卒らしい。

「法律や会計だけで世の中回ってるわけじゃありません。法律や会計が水道管なら、文化は水です。人文研究は、水を美味しくしようとしてるんですよ」

「そういうもんですか~。水の味なんて、多少美味くなっても、普通は気付かないんじゃないかなあ」


 納得いってないらしい。違う角度から説明する。

「明石さん、仕事終わった後とか休みの日は、なにしてます?」

「わたしですか?」

 途端に身を乗り出す明石。自分のことを話すのがよほど好きらしい。

 映画を観る、ブラブラ買い物をする、パチンコを打つ、琵琶湖まで出かけて釣りをする、スポーツジムに通う。

 デザートが運ばれてくるまで、明石は自分の余暇の時間の使い方について話し続けた。


「こんな感じですかね。んで、何の話でしたっけ」

「あ、はい。そういう、余暇の時間に行っている行為は全て文化活動だ、ってことですよ。生産か消費か、で言えば消費ですね。文化があるから、消費は促進されるんです。生活して生産することだけで人間が満ち足りるなら、例えば」

 鏡子は温かい生クリームをスプーンに取る。

「こんな食事は、必要ないですね。カロリーも高すぎるし、手間暇かかってるからお値段も高い。明石さんは社会人ですから、お財布に余裕があって、もしかしたら毎日ここでお食事できるかもしれないですけど」


 そりゃ無理です、と明石は苦笑する。

「文化研究はそういう、『豊かな無駄』を研究して、広がりを持たせることに貢献しているわけです」

「ピンと来ないですねえ。文学の論文とこのフルーツフランベに関係があるとは思えないすなあ」


 んー、とさらに具体例を考える。

「明石さん、パチンコ打たれるんでしたね。じゃあ『華の慶次』ってご存じなんじゃないですか? 僕は原作しか読んでないですけど」

「ええ、知ってますよ。戦国時代の傾奇者の奴ね。マンガも全巻読んでます」

「その傾奇者、って概念……いつからあるかご存じです?」

 いや、と明石は首を振る。

「高校の歴史の教科書には載ってなかったっすね。わたし別に歴史詳しくないですけど」

「あのマンガは小説を原作にしています。小説を書いた作家さんは、網野善彦というアナール学派の歴史学者の研究を大いに参考にしています。おわかりですか? 歴史学者の論文が、小説に使われ、マンガになったことで。『傾奇者』という概念が、日本史の知見の一部として広く知られるようになったわけです。今では戦国時代を舞台にした小説やマンガでは、当たり前のように『傾奇者』は出てくるでしょう。でも、『華の慶次』以前には、当たり前じゃなかったんですよ。アナール学派が、世界の見え方を少し変えたんです」

 これが文化研究が『豊かな無駄』を広げた一例です、と鏡子は話を締めくくった。


 明石は、今度は感心したように首を振った。

「いやあ、なんだか錫黄さん、まるで大学の先生みたいですねえ」

 内容に納得したのかどうかわからないが、明石はそれ以上文学部を批判しようとはしなかった。単に、この話題を鏡子に振ると面倒なことになる、と思っただけかもしれないが、それでも良い。



 

 店を出た後、もう一軒飲みにいこう、と明石はしつこく誘ってきた。それはなんとか断ったものの、携帯の番号とメールアドレスは交換させられた。


 ――僕は葵くんからメアド聞き出すまで二ヶ月かかったのに。一日で聞き出すとは。これが社会人パワーかあ。


 その図々しさに感心してしまう。

 そこでようやく気付いたのだが、どうやら明石は、鏡子のことがかなり気に入っているらしい。また遊びに行きましょうね、と何度も念押しされた。

 それが、恋人としておつきあいする前提でお友だちづきあいしましょう、という意味であることくらいは、口説かれた経験の少ない鏡子でもわかる。


 なんともうれしくない。


 帰りも六星社まで車で送る、というのを振り切って、鏡子はタクシーに飛び乗った。もちろん、タクシーで六星社まで帰るわけにはいかない。おそらく、財布の中身だけでは料金が払えないだろう。京都駅からJRに乗るのだ。


 タクシーが京都駅に着くか着かないかのうちに、明石からメールが着信した。

 めんどくせえ、と思いつつ、礼を失しない程度に短い文面を返しておく。

 もう一回返信してきたら、今度は無視しよう、と思っていたが、幸いそれきり着信はなかった。

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