第2回 コーポ六辻
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その日の午後、鏡子は六星社駅前裏手にある、木造アパートを訪れていた。
正しくは、アパート跡、だ。もう住んでいる人間はいない。瓦屋根の隙間からは雑草が飛び出し、窓ガラスは危険なので取り外され、柱は朽ちかけている。
取り壊されるのを待つばかりであるその廃屋は、かつてコーポ
庭先から二階を見上げている鏡子の傍らで、一人の男が煙草を吹かしている。ひょろりとした体格で、髪はオールバック。半袖のワイシャツにネクタイ、というクールビズスタイル。明石、というその男は不動産会社の営業マンである。
鏡子の目的は、長年この廃アパートを管理している、長井という人物に話を聞くことである。葵に言われてから、自分も第三次六星社文学の真贋論争に一枚噛んでみる気になったものの、原稿が発見された京田辺市の古民家はとっくに取り壊されて駐車場になってしまっていることがわかった。
そこで、コーポ六辻に目をつけたのだ。
しかし、鏡子は警察でもなんでもない、ただの大学院生である。いきなり押しかけていっても相手が話してくれるとも思えない。そこで、仲介者を探した。
明石は桜下の学部生時代の友人で、東京の早大を出ている。就職したのも東京だが、今年から京都の営業所に赴任させられたのだそうだ。
明石の務めている不動産会社は、京都府一帯で手広く物件を扱っている。その伝手をたどっていけば、コーポ六辻の現在の所有者を紹介してもらえるのではないかと考えたのだが、運が良いことに、明石の務めている会社がコーポ六辻の売却を扱っていた。
普段、京都市内で勤務している明石は、わざわざ六星社市まで出向いてきて、長井という人物との会合をセッティングしてくれた。
「桜下も面倒なこと言ってきやがる。や、いいんすけどね、こうして可愛い大学生とお話できるんですし」
「ははあ。僕は大学院生ですが」
ついでに可愛くもないと思いますが。
「どっちでも同じですよ。学生さんは学生さんです」
こんな具合に、明石は鏡子に対してややぞんざいな物言いをする。あまり好きになれないタイプの社会人だなあ、と思っている。
お、と呟いて、明石は煙草を投げ捨てた。吸い殻を靴で踏みつぶす。
アパートの隣に建つ、平屋――六辻出流とその家族が住んでいた場所らしい――の後ろから、老人が一人現れた。スラックスにポロシャツというラフな格好だ。手にはビニール袋をぶら下げている。
これが長井だった。明石は手早く挨拶を交わす。鏡子もキャスケットを脱いで頭を下げる。
「というわけで、こちらが六星社大の錫黄さん。なんでも、論文の下調べだとかで、当時のことをお伺いしたいんだそうです」
「よろしくお願いします」
「はいはい、なんでも聞いてください。ここは暑いですから、母屋の下へ行きましょう」
長井に案内されるまま、平屋をぐるりと周る。裏手には縁側が付いていた。
三人はそこに並んで腰掛けた。長井は手にしていたビニール袋を開けて、中に入っていたお茶のペットボトルを二人に差し出した。
ありがたくそれを受け取る。
長井老人は、懐かしそうに庭を見渡す。
「わたしゃ、亡くなるまで六辻さんのお世話をしておりましたから。大抵のことはわかると思いますよ。どうぞご遠慮なさらず」
それは意外だった。
「ということは、長井さんは六辻さんに雇われていた、ってことでしょうか」
いやいや、と長井は手を振る。
「わたしゃね、安宅家に雇われていたんですよ」
六星社市随一の資産家で、大学とも深い関係のあるその名家の名は、もちろん鏡子も知っている。
「安宅家? 六辻さんて安宅家の人なんですか?」
「奥様が安宅家の人間なんですよ。本家筋じゃございませんがね」
それは初耳だった。
「なにせ、六辻さんは『作家先生』でいらっしゃいまして。文章を書くこと以外は何一つやりたくない、って人でしたし。奥様もお嬢様育ちですから。ご実家が心配なさったんですね。それでわたしが、お世話係として」
長井は垣根の向こう側を指した。
「隣に家をもらいましてね。アパートの掃除やら、電球の付け替えやら、お家賃が滞っている学生さんへの催促やら、それからご夫婦のお食事の用意まで。とにかく全部わたしがやっておりました」
「そりゃあずいぶんと、甘やかされたご夫婦ですなあ。アパートも、その安宅さんて家がお建てになったんでしょう?」
無遠慮な明石の言葉に、長井は苦笑する。
「……浮き世離れしたお二人だったのは確かですなあ」
諏訪路と佐富のことを覚えているか、鏡子は聞いてみた。
長井ははっきりと記憶していた。
「ええ。六辻さんと仲良くしてらしたのは、そのお二人の学生さんくらいでしたからねえ。いまはお二人とも大学教授に? へえそれは凄いですな。六辻さんは、お二人が暇そうにしているのを見はからっては母屋の方に呼んで、一緒にお酒を飲んだりしてましたね。三人で夜遅くまで話し込んでいたこともよくありました」
しかしそれ以上のことはわからなかった。三人で一緒に何か作っていたりした気配はないか、聞いてみたのだが、長井は否定した。
「そういうことは、なさらんかったでしょうな。六辻さんは、いつも自分のことで手一杯なお人でした。日がな机に向かって、原稿用紙と格闘しておりまして。それが人生で最も尊いことだと信じておられた。あるいは、そう信じてるふりをしてらしただけのことかもしれませんが。お二人のことはね。気に入ってらしたのは確かですが……」
長井は少し口ごもる。
「一方で、馬鹿にしてました。日夜、創作で苦悩しておられた六辻さんからすると、お二人は、『他人の書いた小説をあーだこーだと論じて、立身出世を図るこざかしい学者気取り』なのだそうです」
長井の声まねから、わずかに六辻という人物の残像が感じ取られた。傲慢で偏狭。つきあいにくそうな人間だろう、ということは察させられる。
――そりゃあ本も出ないし、原稿の依頼も来ないだろうなあ。
くくく、と長井は笑う。
「六辻さんはご立派だったのかもしれませんが、ご立派すぎましたなあ」
嘲笑のようにも、懐古のようにも思える笑いだった。
「一九九〇年だから……もう二十年以上になりますか」
六辻出流の自殺のことを指しているのだろう。
「亡くなった理由は、ご存じですか?」
長井はあっさり首を振る。
「わかりませんよ、そんなの。勝手に一人で行き詰まって、一人で首をくくられたんですから。お金のことじゃありませんよ。アパートのお家賃も入ってきますし、安宅家からも十分にいただいていたはずですからね。奥さんやお子さんのことはほったらかしで。最後まで我が儘なお人でした」
ああ、やはりこの人は、六辻を嫌いだったのだな。心底嫌いだったんじゃないかな、と鏡子は感じた。そうとしか思えない口ぶりだった。
それには無頓着に、明石が相づちを打つ。
「ほうほう、お子さんもいらしたんですか、そりゃ可哀相だ」
「ええ。娘さんが一人ね。奥様と娘さんは、その後ご実家に戻られました。このアパートは、その後もわたしが管理を任されてたんですけどね。もう年ですから、引退することにしました。それが三年前。安宅家の方も、どうでも良かったんでしょうね。朽ちるがままにしてあって……売りに出したのは最近ですか?」
「ええ、一年前からうちで扱わせていただいております。解体込みで、となるとどうにも買い手がつきませんようで。申し訳ない」
「いいんですよ。わたしにはもう関係ないことですから」
ぐびぐびと、長井はペットボトルから茶を飲む。
鏡子はその後も質問を続けたが、これといって成果は得られなかった。概して、長井は六辻夫妻に興味を持っていなかったようだ。下宿人である諏訪路や佐富らについての方が、よほど細かく記憶しているように思われた。
長井からすると、六辻というのはあまりにも自分とはかけ離れた精神構造の持ち主だったので、理解しようとするのは早々にあきらめていた節がある。あるいは理解に努めようと、観察すればするほど嫌いになりそうだったので、無関心で通したのかもしれない。
最後に、長井は六辻の書斎に案内してくれた。
「わたしも、まだ鍵は持っているんですよ」
立ち上がると、ポケットから鍵束を取り出す。
「もしかして、書斎の中には六辻氏の原稿があったりとか?」
鏡子はそれを期待している。
もちろん、と長井はうなずいた。
「押し入れの中は原稿用紙の山ですよ。お亡くなりになった後、奥様が全て整理して、お仕舞いなさりました。ずっとそのままのはずです」
「ほほう。六辻先生の書斎ですか。いいっすね、興味あります。見せてくださいよ」
意外にも、明石も乗り気だった。
「いやね、わたし、これでも学生時代は小説なんか書いてましてね。作家ってのに憧れがあるんですよ。いやいや、一冊も本を出してなくても、賞取ってれば六辻さんだって立派な作家さんですよ。『夭折した作家』って言葉、なんかロマンがあるじゃないすか」
うざいなあ、うざい上に失礼なんじゃないかなあ、と鏡子は心の中で、明石の俗物っぷりに眉をひそめる。学生時代、わたしもちょっと小説を書いていましてね、と自慢げに語る社会人というのは、日本中に山ほどいるのだろうか、と変な想像をかき立ててられてしまう。
長井は気を悪くした様子もなく、「素敵なお趣味をお持ちですねえ。わたしゃどうも、六辻さんのせいで、ずっと書き物にいいイメージが持てなくて」と愛想良く応じる。
裏口を開けると、中から籠もった熱気が押し寄せてきた。板張りの廊下は歩くだけでひどくきしんだ。
書斎へと通じる襖を開けると、そこは畳敷きの六畳間で、家具は何もなかった。畳の上には細長い板が渡してあった。
「畳が腐りかけてますからね。押し入れまで、この板を踏んで行ってください」
すでに板がある、ということは。鏡子は気付いた。
「あの、長井さん。これって、以前にも誰かがここに来ている、ってことでしょうか」
「うん、そうですね。あれは……いつだったかなあ。去年の冬、いや今年か。一月くらいに、安宅家からお使いの方が見えられまして」
「安宅家から。押し入れの中を見に来たということなんですか」
鏡子はゆっくりと板を踏んで進む。明石と長井は、書斎の入り口でとどまっている。
四歩で板の終端にたどりつき、押し入れを開ける。中には上下に段ボール箱が四つずつ、積み重ねられていた。下段の手近な箱を開けてみると、中には変色した原稿用紙の束と、大学ノートがぎっしり詰め込まれていた。とてもこれを検分している時間はなさそうだ。
「はい、そうですね。若い男の人が一人で見えて。探しものがあるとかで。ずいぶん長い時間かけて、調べてましたねえ」
「探しものですって? これを全部ですか?」
鏡子は振り返る。
「そうですね。一箱ずつ丁寧に開けてらしたようです。お帰りになる時は、また元通りに仕舞っていかれたようですね」
「じゃあ、探しものは見つからなかったということでしょうか」
いやいや、と長井。
「見つかったようですよ。その男の人は、ノートを一冊、持って帰られました」
ノートを一冊。
贋作の証拠。六辻が残した構想メモというものが実在するとすれば、それだ。
BARRELが交渉中であるという六辻の縁者というのは、安宅家なのだ。
だとすれば、と鏡子は口元に手をあてて考える。
もう、ここを漁っても無駄だということなのだろう。大事なものは、安宅家に回収されてしまっているということだ。
「あの、お嬢さんももしかして、これ全部調べるんですか?」
困ったなあ、という顔で長井が尋ねてくる。
「いいえ。けっこうです。それよりも」
鏡子はぴしゃりと押し入れを閉じた。
「安宅家の方に僕を紹介していただけませんか?」
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