前期学期末試験期間~夏季休業期間

第1回 二人の教授

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 教授室の応接ソファで、二人の教授は向き合っていた。

 佐富が諏訪路の教授室を訪れるのは、実に半年ぶりのことである。科研長選挙の話が持ち上がってから、二人とも直接顔を合わせるのは避けていた。


 諏訪路はインスタントコーヒーの瓶を振り、二つのカップの中に茶色い小山を作る。やつれた顔つきで、目の下に隈が出来ているようだ。


 佐富はきょろきょろと部屋を見渡す。

 安っぽいスチール製の書架、書架に入りきらず、床に直に積まれている学術書、デスクの上にはファイルの山。ファイルに大量の紙を綴じて保管するという非効率さ。それが諏訪路という人間を象徴しているように思えた。

 しかし、雑然としたその部屋の雰囲気は、どこか懐かしい。学生時代に戻ったような気分になる。


 ――古色蒼然、という言葉がこれほど似合う部屋もあるまい。昭和だな。まったくもって昭和の教授室だ。


 心の中でぶつくさ呟きながらも、この部屋に来ると気分が落ち着くことは自覚していた。恩師の部屋を思い出すのだ。

「お茶、切らしちゃっててねえ。コーヒーしかないんだ。佐富くんは、インスタントは嫌いだったっけ」

「嫌いだ、と言ったところで、この部屋にはドリッパーも豆もなかっただろ。なんでもかまわんよ」

 そうかい、と諏訪路はポットを叩いてお湯を注ぐ。


 おいおい、インスタントコーヒーだからって、もう少し丁寧に入れろよ。


 諏訪路の日常生活における大らかさ、というよりおおざっぱさは佐富もよく知っているが、決して気に障らないわけではない。三十年のつきあいであっても、そこは決定的に相容れない部分であり、受け入れがたい。


「それで、どうするね」

 差し出されたコーヒーには手を付けず、佐富はじっと諏訪路を見る。 

「どうしようかなあ。君にばかり反論を任せておくのも申し訳ないから、わたしもツイッターのアカウントでも開設しようかと思うんだけどね」

 白い髭を指でこねくり回している。


 何を言うかと思えば、そんなことか。


「やめときたまえ。君はSNSに慣れていない。ツイッターなんか始めたら、たちまちアンチの餌食にされちまう。沈黙は金なり、だよ」

「そうかい? 君なんかいつもどこの誰だか分からん連中と議論してるじゃないか。ずいぶん過激な発言もしているようだが」

「あれでも一々気を配ってるんだよ。RTされた先で第三者が読んでも、理不尽ないちゃもんをつけてるのはどちらなのか、はっきり分かるようにな。学会での質疑応答よりよほどエネルギーを使うんだぜ」

「やっぱり怖いなあ、インターネットって」


 何を今さら、のんきなことを言ってるんだ。ネットを見るのが怖くて講義を放棄していた癖に。


 諏訪路は立て続けに学部の授業を病欠したことで、事務局から猛烈にお叱りを受けた。帳尻を合わせるために、七月も半ばを過ぎたというのに補講を入れさせられている。試験直前のこの時期、学生たちにとってはいい迷惑であろう。


「このままだと、ぼくたちは二人とも、ひどい汚名を着せられることになる。それどころか、六星社大の文学研究科自体が大恥だ」

「だねえ。困ったものだよ」


 まるで他人事のようだ。

 心労の果てに、諦めの境地に入ってしまったのかもしれない。


 BARRELと称する人物のサイト記事は、新しい段階に入っていた。

 六月の終わりに、佐富は自分のブログとSNSで、BARRELと称する人物の検証記事に対して反論した。自分たちの論文と、発見された第二号準備稿との関係を説明し、捏造疑惑などありえないことを主張したものだった。

 当時の諏訪路の論文は、従来の六星社文学第一号の作品群と、発見されたばかりの第二号の作品群を比較研究したものである。新資料とは少し距離を置いた、手堅い方法と言ってよい。佐富の論文は、第二号の作品群の中から羽生蝉耳の作品「豆と能」を大きくピックアップし、その先進性に目をつけ、ポスト・ポストモダン文学の文脈から現代的に評価する、という大胆な方法をとっている。

 いずれにしても、第二号準備稿の存在なしでは書けなかった論文だと言われればその通りだが、作品群を捏造する必要などまったくない。特に諏訪路の論文は、作品群がどのようなものだろうと――積極的に評価する必要のない凡作駄作揃いだろうと――成り立つ方法であった。

 結局、この記事は最初から結論ありきで、二人に汚名を着せようとする悪意的なものである、ということを、佐富はサイト記事を細かく引用し、論証してみせたのだ。


 しかしどうやら、BARRELにとって、佐富の反論は織り込み済みであったようだ。

 乗せられたのかもしれん、と佐富は密かに思っている。

 BARRELはあっさりと、二人が捏造したのではないか、という主張を引っ込めた。

 第三次六星社文学第二号への贋作疑惑そのものを引っ込めたわけではない。


 新たな容疑者を持ち出してきた。

 原稿の発見者である、六辻出流ろくつじいずる


 調査の結果、新しい事実が判明した。実はこの人物は、売れない作家であった。原稿を捏造したのは、両教授ではありえない、むしろお二人は被害者であろう。捏造・贋作を行ったのは、原稿の発見者であった六辻出流だと推定される……云々。


 六辻は一九九〇年に自殺した。佐富と諏訪路が彼の下宿を退去してからまもなくである。

 BARRELはその縁者と接触したそうだ。彼が贋作者であることの決定的証拠をこの目で見たのだという。

 現在、その縁者と交渉中であり、入手できれは即座に公開するつもりだとか。


「それにしても、よく六辻さんのことなんか調べ上げたもんだねえ。このBARRELって人、探偵か何かかい」

 敵に感心している場合か。

「どうだかな」

「六辻さん、亡くなってらしたんだなあ。わたしなんかまったく知らなかったよ」

「2ちゃんねるの方では、ぼくたちが殺したんじゃないか、なんてひどい書き込みも見たぞ」

「名誉毀損で訴えられないのかねえ」

「ぼくたちの実名が書かれてるわけでもないからIPの開示を請求することすら無理だろうな」


 原稿の発見者・六辻出流と二人の関係は、ただの家主と下宿人であり、それ以上のものではなかった。いくらかの交流はあった。たまに彼の住む母屋に呼ばれて雑談したり、食事をご馳走になったり、という程度である。


 佐富が六辻について知っていることは少ない。年齢が佐富たちより五つ上で、結婚していた。本人は作家だと名乗ることを好んでいた。実際、別名で文学賞を取っている。しかしながら本を出すことはできず、これといって原稿の注文も来ず、それでも毎日なにがしか原稿を書き、鬱々と日々を過ごしていたように記憶している。

 その下宿屋も家も、妻の実家に建ててもらったものであることを、六辻は自嘲気味に語っていた。作家と言いつつ、妻の実家の資力に寄生したニートのようなものであった。働かなくても食えるのだから結構なご身分だな、と佐富は内心彼を軽蔑していた。


 京田辺にある彼の妻の実家の所有する民家から、問題の原稿が発見されたのは、佐富たちが入居する一年前である。その折りは六星社大学の先生たちからずいぶん感謝された、と六辻は得意げだった。君たちの論文にも新資料を使ったらどうか、と言い出したのは、いつのことだったか。ともかく、二人が、公開されたばかりの六星社文学第二号を閲覧したのは、それがきっかけだった。

 佐富の論文は、書き上がるまでに一年しかかからなかった。諏訪路は二年。もともと、二人とも博士論文が書けなくて行き詰まっていた。思い切って方向転換してみよう、と決断したのだ。それが吉と出た。

 諏訪路は博士号をもらえなかったものの、六星社大に採用が決まったし、佐富も母校の京大で博士号を得て、各々キャリアをスタートさせた。


「BARRELって奴は、疑惑を一作に絞ってきた。おそらく、最初からそのつもりだったと思うがね。文学同人誌一冊分、丸ごと贋作だなんて話は、そもそも無理がある。だがその説を撤回した後に、『検証の結果、一作だけ贋作が紛れこんでました』と言われたら、むしろ信憑性は増すかもな」

「本当に六辻さんが、あの小説書いたのかねえ? 一応、作家だったしなあ」


 いまBARRELが贋作を主張しているのは、ただ一作。諏訪路がその著書で高く評価し、また佐富が博論で題材に使った、羽生蝉耳の作品「豆と能」だ。BARRELは、六辻の縁者からその構想メモを見せてもらったのだという。

 この説は、2ちゃんねるで大いに支持されている。実際に一号の「砲と足」と二号の「豆と能」を読み比べた者たちは皆、「豆と能」が「とても大正時代に書かれたものだとは思えない」と評している。


「不安になるから、よせ。君は羽生蝉耳の専門家だろうが」


 二人は捏造疑惑の容疑者ではなくなりました、めでたしめでたし……とはいかない。

 六辻の書いたものだと気付かずに、一人はそれで論文を書き、もう一人は三十年も研究を続けて本を出したという事実は残る。それが世間からどう見えてしまうか。またそもそも、その捏造された原稿を、大正期のものと認定して大喜びで収蔵した当時の六星社大学文学部の教授たちの見識は、どうなのだ。六星社大文学部の教授の目はそろって節穴か。大正時代に書かれたものと昭和末期に書かれたものの区別もつかないのか。

 ことは、六星社大学文学研究科を揺るがす問題に発展しかねなかった。


「だんだん自信がなくなってきたねえ。仮にだよ、仮にあれが六辻さんの小説だったとしても、わたしは、古文書の鑑定家じゃないんだ、責められても困る」

 諏訪路は肩をすぼめる。

「そんなことは、わかってる。ぼくの博論だって、あくまで本論はポストポストモダンの概念を整理して定義しなおすことだ。羽生蝉耳の作品が贋作だったからといって、論旨が変わるわけじゃあない」

「論旨は変わらないが、同じように議論にはめこめる、大正期の作品が存在しないと、君の論文は成り立たないんじゃないのかなあ」

 悪意はないのだろうが痛いところを突く。

「きみだって、出たばかりの本は、羽生蝉耳の名前を表題にまで使ってるじゃないか」

 諏訪路は力なく首を振った。

「このままいけば、選挙どころじゃないぞ。ぼくらは二人とも、科研長選挙から降りなきゃならん。辞退だ」

「わたしは別にかまわないよ。元々担ぎ出されただけだもの」


 ああそうだろうよ、君は私大閥の奴らが御神輿として担ぐにはちょうどよかったんだろうよ。私大出身の連中は、文学研究科が京大閥に牛耳られるのが嫌でたまらないんだ。

 なんたって君は、今どき珍しい、学部時代からずっとここで過ごしてきた、生え抜きの六星社マンだからな。


 だがぼくは違うのだ、と腹立たしい気分になる。

 佐富には野心がある。科研長になって、その次は学長選挙を目指すつもりだった。学長の座は、大学本部の執行役員が選出するが、ここのところ二十年ばかり、文学研究科からは学長が出ていない。ある程度は各研究科の持ち回りという面もあるので、十分チャンスはある、と見ている。

 論文も著作も、忙しくネット論壇を維持しているのも、全てはそのためである。十五年前に京大から六星社大に赴任して以来、佐富はその精力を、学究としての名声を得ることよりも、大学人としての栄達へと傾けている。


「しっかりしてくれ、諏訪路くん。なんとかこの難局を乗り切ろうじゃないか。BARRELはこちらの喉元に刃を突きつけてきた。だがこちらにとっても好機だ。奴が手の内を明かして来たのだから、こっちも同じ道をたどればいいんだよ。奴が証拠をつかむより先に、六辻さんの縁者ってのを押さえればいいだけのことだ」

 諏訪路は怪訝そうな顔をする。

「……ちょっと待ってくれたまえ。それだと、もう贋作だと確定したみたいな言い方じゃないか」

「専門家の君がわからんと言ってるのだから、正面から真贋を議論するだけじゃなんともならんだろう。本当にあるのかどうかわからんが、まずはBARRELより先に、奴が手に入れようとしてる証拠って奴を見てみなきゃ」


「それは、もしその証拠が実在してて……贋作だと証明されてしまいそうだったら……それを隠蔽するってことかい?」

 むろんだ。考えるまでもない。佐富は黙ってうなずく。


 諏訪路の背筋が伸びた。甲高い声で、断言する。

「偽物だったのなら、素直にそう認めて研究をやり直せばいいだけのことじゃないか。わたしらの面子や大学の面子なんて、真実に比べれば、些細なことだ」


 その真剣そうな顔に、白けた視線を送る。

「ご立派。まさか本気で言ってないだろうね」

 にやにやと諏訪路は顔を崩した。

「もちろん、冗談だよ」

 ふう、と安心する。昔から諏訪路は、ごくたまに場違いなユーモアセンスを発揮する。


「わたしだって、そろそろ老後のことを考えないといけないからさ。情けない話だが……のんびり屋のわたしが、定年までにもう一冊本を書けるとも思えないし」


 あの本は、諏訪路にとって最後の勲章となるだろう。

 あるいは幸運にも科研長の座を射止めるかもしれないが。

 諏訪路は、学内政治にはまったく熱心ではなく、業績のなさから人望もあるとは言いがたいのだが、なんとなく流れに乗って、順当にポストを歴任してきている。今も、科研長に諏訪路を推す私大出身の教員たちは強く団結しており、佐富も切り崩しに手こずっている。諏訪路科研長の誕生も、この件さえ乗り切れば、ありえないことではない。


 ――幸運な男だよ、まったく。二十年遅く生まれてたら、講師にもなれずにヒーヒー言ってただろうにな。


 佐富は長年の友にして好敵手(不本意ながら、そう認めている)である諏訪路に向けて、胸を叩いてみせた。科研長選挙のことはひとまず休戦だ。

「やり方は任せてくれたまえ。本職の探偵を雇おう。今度は君のところの院生、スズキさんだっけ? ああいう真面目そうな女の子には頼めんからな」

 これは佐富なりの冗談。内部の人間を使えるような案件ではない。

 そりゃそうだ、と諏訪路も笑う。

「それでぼくは何を手伝えばいいんだい?」

「あくまで、あの作品は大正時代に書かれたものだ、という論証を一つ用意しといてくれ。のんびりやらないで、急いで書いてくれよ? 論証の中身は多少強引でもかまわんよ。もういっそ、羽生蝉耳を持ち上げまくってしまえ。『早すぎた天才』とでもなんとでも。

 証拠を押さえてから、そいつをぼくのブログで公表する。もちろん、ぼくも少しエッセイを書かせてもらうよ。ネットニュースでも大きく取り上げてもらえるようにしなくちゃな。こういう時のためにぼくは普段からネット上でもコネクションを広げてあるんだ。広報合戦なら負けないね。

 BARRELなんてのは、所詮、匿名の扇動屋だ。君の意見に効果的な反証が挙げられなければ誰も相手にしなくなって、そのうちネットの海に消えていくさ」


「そういうものかね」

 そういうものだ、と佐富は請け合う。

「『敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない』。ネット民を評した言葉だ。なかなか核心をついている。BARRELの人気を支えてるのはこういう連中にすぎないんだ。心配するな」

「佐富くんもネット民なのに頼りになるねえ」

 安心したように、諏訪路は冷め切ったコーヒーに口をつけた。本人には、皮肉を言っているつもりはなさそうだった。

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