第8回 BARREL

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 窓ガラスを雨滴が絶え間なく流れて行く。雨は止む気配もない。店内には鏡子たちの他に客はいない。静かにピアノ曲が流れている。

 このままずっと止まなければいいのになあ、と鏡子は心の中でにやにやしていた。

 ストローに口をつけて、アイスコーヒーをすする。

 目の前には、葵宏大の顔がある。先ほどまでは髪から滴が垂れていたが、もうほとんど乾いたようだ。テーブルにひじをつき、黒い焼き物のコーヒーカップを両手で抱えるようにしてすすっている。

 二人は文書館からの帰り道、突然の雨に見舞われて、雨宿りのためにこの喫茶店に入った。鏡子にとっては恵みの雨である。


 六月になっていた。

 葵は文書館のバイトを辞めずに、戻ってきた。

 その理由がまた、鏡子を喜ばせた。

「錫黄さんが、王炊章一おういしょういちで論文を書くと聞きましたので。またいろいろ面白いお話を聞かせてもらえるんじゃないかと思って」

 これはあながち、お愛想でもなかったようだ。王炊章一についての話題なら、なんでも楽しそうに聞いてくれる。それをきっかけに、この二週間ばかりの間、鏡子と葵の仲は順調に接近していた。

 携帯電話の番号とアドレスも交換したし、文書館からの帰り道も一緒に歩けるようになった。とはいえ、二人で喫茶店に入るのはこれが初めてだったが。

 せっかく携帯電話の番号を入手したというのに、電話で話したこともない。メールで簡単なやりとりはしているが、それも葵のバイトの日程を聞く程度のことだ。


 電話をかけたいのは山々で、ここのところ毎晩、寝る前の一時間ばかり、鏡子は携帯電話を片手にもだえている。

 かけるべきか、かけざるべきか。

 ディスプレイに番号を表示させてはキャンセル。それを繰り返しているうちに時間が過ぎていく。


 まだ早い、まだ早いのだ!


 あれやこれやと理由をつけて、勇気が出ない自分に言い訳するばかりだ。せめておやすみメールでも送ろう、と思うのだが、文面に悩んでいるうちに時間が過ぎて、メールするにはちょっと不自然な深夜帯になってしまい、結局思いとどまる。

 昼間にそれを思い返すと、僕はこんなにも乙女だったのかああああ!と自分が恥ずかしくなってしまう。異性のことで煩悶するのは、中学生の時以来である。

 つまるところ、鏡子は本格的に恋に落ちている。


「雨、止みそうにないですね」

 葵は窓の外に視線を向けた。

「そだね。駅まで歩くのは、ちょっと大変そうだな」

「ああ、大丈夫です。七時過ぎにはバスが来るはずですから」

 喫茶店の並びにはバス亭がある。


 そーだったね、僕はバス使わないから忘れてたわ……。


 葵の家は、京田辺だと聞いている。駅から電車に乗って数駅だ。

 このまま、ここで食事を一緒にどうか、と切り出すつもりだったが、あと二十分くらいしかない。あきらめる。


「論文の方は、順調ですか?」

「うーん、うん。まあね」


 できれば違う話がしたいなあ、と鏡子は思っている。こうして、文書館の外で話すようになっても、葵は自分のことを語らない。過去のことも未来のことも。どんな学生時代を過ごしていたのか、試験に合格したらどうするのか。司法試験の出来について話を振ってみても乗ってこない。いつも、文学の話ばかりだ。鏡子は未だに、葵についてほとんどなにも知らない。


「諏訪路先生のご様子は、相変わらずですか」

 特にその話題は、今の鏡子にとっては少し重い。

「それが、ますますよろしくないんだなあ。僕の論文もろくに読んでくれなくなった。他の院生の修論を指導する時も、上の空だそうだ」


 鏡子は今、「近代國文」に向けて二本目の論文を投稿しようとしている。王炊章一の「無敗の手」の作品論の一部を切り出してまとめた、本論のための準備論文のようなものだ。

 研究助手の審査会に向けての業績づくりである。


「先生は、聞く限りかなり保守的な方のようですのに。ネットもご覧になるんですね」

「ご覧になってるのですよ、見なきゃいいのに」

 はあ、と溜息が出る。


 四月の怪文書は、鏡子が聞き込みをした日からばたりと止んだ。西洋史の川上、仏文の山田、偽学生と推定される二人は、それきり研究棟に姿を現さなかった。堀戸講師についても、証拠があるわけでなく、特に不審な言動をしているわけでもないので、おとがめはない。放置である。


 いま、諏訪路を悩ませているのは、無事出版がなった初の単著、「無名文士たちの群像――羽生蝉耳(はぶぜんじ)を中心に――」への反響である。

 アマゾンにはずらりとレビューが並んでいる。一般向けとはいえ、少部数の学術書としては異例のことである。レビューの数が多いことは、基本的には喜ばしいことである。レビューの内容が著作を高く評価したものであれ、酷評であれ、数が多ければ注目度も上がる。……しかし、「無名文士たちの群像」へのレビューのほとんどに、「この本で取り上げられている作品群は、近年になってから捏造されたものだという疑義が提示されている」という内容が含まれている。


 疑義の発端は、鏡子もずっと見ている、2ちゃんねるの【近代日文研究】スレだった。諏訪路の著書で紹介されている、第三次六星社文学第二号の準備稿、というのは全て嘘っぱち、第一号の作家たちの名前を借りた贋作である……という説が声高に囁かれ、検証サイトまで作られてしまった。BARRELというハンドルネームの人物が運営するその検証サイトは、精力的に更新を続け、毎週細切れに新情報を提示していくことで、次第に注目度を高めている。


 すでに、私的なレベルではあるが、諏訪路の元へは他の大学の教員からサイトの記事の真偽のほどについて問い合わせが来ているそうだ。

 めっきりと元気をなくした諏訪路は、以前にも増して教授室に閉じこもるようになってしまった。さすがに大学院の講義は続けているようだが、学部の講義は休講続きだ。


「文書館からのデータ閲覧、第三次六星社文学だけ、ものすごく増えてるんです。自分の目で読み比べてみよう、という人がたくさんいるんですね、びっくりしました」

「それな。どうやったらネット上から作品データを読めるんだ、って、僕も他大の知り合いから聞かれたよ」


 出版局付属文書館は、図書館ではないので、大学図書館同士のデータリンクに含まれていない。文書館のサイトからログインすれば、収蔵している画像データを閲覧することができるが、そのためには利用者登録しなければならない。登録手続は、研究者番号を持っていることが必須条件になっている。研究者番号を持たない人は、文書館まで直接お越し下さい、ということである。

 これはつまり、閲覧している人間は、みな、現職の研究者かその卵であるということだ……。それだけ、BARRELのサイトの影響が大きいのだろう。日本全国でみれば近代日文の研究者など星の数ほどいるが、分野を限ればごく狭い世界である。諏訪路と同じ学会に属する研究者はほぼ全員、サイト記事を読み、原文にあたったのではないかとまで思えてくる。


「第二号の準備稿は、手書き原稿ですし、読むの大変だと思いますけどね。なかなか骨でした」

「葵くんは、読んだのか」

 鏡子は目を見開いた。

「ええ。古い小説を読むのは、好きですから。前にも言いませんでしたっけ、六星社文学は全部読んだ、って」

 にこりと葵は微笑んだ。


 好きだからって、なかなか読み通せるものじゃないぞ、あれは。


 諏訪路の本を読んでから、鏡子も画像データで原文を通読している。

 前々から思っていたのだが、葵の六星社文学への興味は、少し普通ではない。

「錫黄さんは、BARRELのサイトの記事は、悪質なデマだと断定してらっしゃいましたね」

「あれは、諏訪時先生と佐富先生を誹謗することを目的にした記事だよ」

「そうでしょうか」

 葵の目に、面白そうな色が浮かんだ。

「素人のぼくには、けっこう怪しく思えてきましたけども」

 無邪気そうな微笑みだ。

 からかっている――あるいは挑発されている?

 瞬間、鏡子はそう感じた。

「法曹志望の葵くんの言葉とは思えないな。法律家ってのは、事実や証拠を重視するんだろ?」

「確かに。司法試験でも、法解釈の議論よりも事実認定の能力が問われる局面があるのは事実です。でも、これは裁判じゃないですから」

 ただの――ゴシップですよ、と付け足されたその声は、やけに冷ややかに聞こえた。


 てっきり、葵は、鏡子を含む文学を研究する者に敬意を払ってくれていると思っていたのだが、そうでもなかったのだろうか。


 BARRELの検証記事の手法は、俗悪ジャーナリズムそのものだった。BARRELも【近代日文研究】スレッドの住人だったはずだが、鏡子にはとてもこの人物が人文学徒だとは思えない。


 BARRELがセンセーショナルに書き立てた記事の要点は、問題の原稿が発見された京田辺市の古民家と、若き日の諏訪路・佐富両名の間に、浅からぬ関係があるというだけのことだ。

 まず、原稿の発見者は六辻出流ろくつじいずるという人物だ。問題の古民家を所有していたのは、六辻の妻の実家である。その古民家の敷地内に、戦災を逃れた古い土蔵があり、取り壊す予定で六辻が中を調べたところ、偶然にもその原稿類を発見した。その原稿は、当時の六星社大文学部の教授たちによって検証され、第三次六星社文学の準備稿である、と認められた。


 当時、博士課程の学生であった諏訪路・佐富の二人は、六星社市郊外の同じ下宿屋に住んでいた(佐富は京大の院生であったが、この時は六星社大に研究生として籍を置いていた)。その下宿を経営していたのが六辻であり、二人とも親交があった。

 二人はそれぞれ、この公開されたばかりの資料を利用して論文を書き、高く評価された。諏訪路は六星社大で助教授として採用され、佐富は母校である京都大学で博士号を取った。


 果たして、これは偶然だろうか、とBARRELは煽る。

 ここからは憶測にすぎないが、と何度も断りを入れつつ、BARRELは贋作捏造説をほのめかす。諏訪路・佐富の両名は六辻と結託して、論文を書くために都合が良いように、この原稿の全部、あるいは一部を捏造したのではないか、というのだ。その土蔵の中には、問題の原稿の他にも、大量の白紙の原稿用紙が保存されていたことは、多くの人間が確認している。これに戦前のインクを用いて手書きすれば、まずばれない。

 第一号の作家の筆跡と比べられれば発覚するかもしれないが、そもそも彼らは無名であり、その手書き原稿など残っていない。一部の作家については六星社大に保存されていたものもあるが、戦時中の空襲で図書館ごと焼失している。筆跡鑑定をされるはずもないことは、六星社大に籍を置く二人、特に諏訪路ならば十分知り得たことだろう、とも。


「もちろんぼくは、ただ作品を読んだだけですし、BARRELのサイトの記事を信じる理由もないんですけど。錫黄さんは、読んでみて違和感ありませんでしたか?」

「作品の話? 第一号と比べて、ってことか」

 ええ、と葵は笑顔を崩さない。


 それも最近の【近代日文研究】スレッドで散々議論されている。比較しやすいように、第三次六星社文学第二号準備稿を画像データからテキストに打ち直してアップロードしていく取り組みも進んでいる。


「……2ちゃんねるで言われてるように、僕もその……。一部の作家の作品については、第一号よりも明らかに上手い……。上達した、とかじゃなくて、別人のように上手い、と思ってる」


「羽生蝉耳の作品はどうです?」


 諏訪路が本のタイトルにも取り上げ、最も絶賛していた作家だ。

 第一号の作品は「砲と足」。第二号は「豆と能」――いずれも、あっと驚く鮮やかな結末で落とされる短編だった。第三次六星社文学の刊行された大正七年は、江戸川乱歩のデビューより五年前だ。まだミステリ小説そのものが日本の読書界に登場していない時代にあって、羽生の作品は、叙述ミステリ、と見ることもできる、斬新な構成の作品である。


「……第二号の、『豆と能』の方が、いいね。良すぎる、かもね」

「良いですよね。ぼくも好きです。読んでて楽しかった」

 白い手がコーヒーカップをテーブルに下ろす。雨はますます激しくなっていた。名残惜しそうに、葵はコーヒーカップの中を覗く。

 バスの時間が迫ってくる。


「葵くんは、どうして六星社文学なんていうマイナーな文学雑誌を読んでみる気になったんだ?」

「それはもちろん。王炊章一からですよ。羽生蝉耳にずいぶん影響を受けてる、ってエッセイで書いてました。他にも、松涛武夫しょうとうたけお千佃哲也せんでんてつやとの対談でも、何度か言及してましたっけ」

「二度、だね。千佃哲也との対談、壺洗凱章つぼあらいがいしょうを交えての四者対談。昭和中期の六星社大出身の作家は、まだまだ文壇では少数派だったから、仲が良かったんだ。大学でもほぼ同期だし」

 その辺の資料は鏡子も既に読んでいる。

「さすが、専門家ですね」と葵は持ち上げてくれる。文学の話をする時は、いつもそんな態度だ。だか、今日はあまり嬉しく感じない。

「錫黄さんの論文には、取り上げないんですか? 第三次六星社文学」

 系譜研究をするわけではないので、今のところその必要はない。

「うん……今回はちょっと」

「興味ないんですか? 第三次六星社文学の真贋について」


 ないわけではないが。必要がないんだよ、と言いかけて止める。

 葵は期待に満ちた目で鏡子を見つめている。


 何を期待しているのだ。


 これはただのゴシップですよ、と葵は言った。

 本当に彼はそう思っているのか。鏡子には判断がつかない。


 ふふっ、と声を立てて葵は笑う。

「ごめんなさい。困らせちゃったみたいですね。錫黄さんは名探偵だから、きっと大喜びで真実を暴いてくれる……と桜下さんに教えられてたんですけど」


 桜下かっ! あの野郎、なぜ探偵のことを話したし!


 かっと顔が火照るのを感じる。

 それを見てのことか、葵の笑い声が大きくなる。手を顔にあてて、肩を震わせている。

「あははは。すみません、すみません。でも、ぼくは本気で知りたいんですよ」

「えー。それって、僕に六星社文学の真贋について調べて欲しい、ってこと?」

 ぴたぴたと、両手を頬にあてて冷ます。

 先ほどの、微妙に緊張感のあるやりとりを思い出し、なんだそういうことだったのか、と納得する。


 なんだか不本意な流れだが、葵が楽しそうなので良しとしよう??


「お暇があれば、是非お願いしたいですね」

 報酬次第では考えないでもない、もちろん報酬は僕との真面目なおつきあい、ってところでどうだ、いやとりあえずお泊まりデートというところで手を打とうじゃないか、と欲望だだ漏れの返答をしそうになって飲み込む。

「う、うーん、どうしよっかな」

「あ、いけない、そろそろバスの時間です。行きましょう」

 時計を見た葵は、伝票を手にして立ち上がった。


 せっかく乾いた服をまた濡らしながら、二人はバス亭まで歩いた。

 バス停には申し訳程度に小さな屋根が備えられている。

 大学前通りから、バスのヘッドライトと窓の光が迫ってくる。行き先表示は「JR六星社駅前」。


「ちょうど良かったな。僕は歩けばすぐだから」

「はい、それじゃ、また」

 バスに乗り込む寸前に、葵は軽く頭を下げた。 

「錫黄さんがどんな結論を出すか、ぼくはそれが知りたいんですよ」

 ドアが閉まって、バスは発車した。

 取り残された鏡子は、葵の言葉の意味を自分に都合よく解釈し、想像を膨らませるのに忙しかった。


 ――それって、真相はどうでもいいということじゃないか? ただ僕に依頼したかっただけ、とか。うーんうーん、もしかして葵くんは意外と不器用なのかも。不器用系男子、悪くないな。仮にそうだとしよう。んで、僕と距離を詰める方法がわからなくて桜下さんに相談したとしよう。そこで桜下さんの奴が、「あの子は探偵ぶってるアホなんで、何か調査を依頼すればすぐに仲良くなれますよ」などとスカポンタンなアドバイスしたとか、どうだ、ありそうじゃないか!

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