第6回 解決(?)

「それで、全部読んだんすか」

「うむ。寝る前の軽い読書としては、ちょうど良かったな。大正文士の息づかいが感じられる、なかなかの良書だったナ」

「鏡子さんが一般書をほめるなんて珍しいっすねえ」

「葵くんと話す時のネタにもなるかもしれないしね。作品の引用も多かったから、あれ一冊ですませてもいいんだけど、ちゃんと原本も読んでみることにした。特に、諏訪路先生ごひいきの羽生蝉耳はぶぜんじって作家の作品は、ちょっとミステリとして読めなくもなくて、なかなか面白そうだ」

「孫引きで知ったかぶるよりは一次資料にあたっといた方がいいでしょうねえ。葵くんの方はちゃんと全部読んでるんすから」


さていきますか、と桜下は手にしている、半分ほど中身が残っているペットボトルのキャップを締める。

 二人はベンチから立ち上がり、研究科棟の正面ドアへと向かう。


 例の聞き込みである。

 「魔女の大釜」で打ち合わせをした、すぐ翌日だった。

 面倒な要件はさっさとすますに限る。


 まだ午前の早い時間だった。二限の講義が始まったくらいだろうか。

 鏡子は、昨年にはもう修了単位をそろえてしまっているので、講義に拘束されない。いくつか興味がある講義には出ているが、欠席してもとがめられることはない。大学院生は、そのあたり自由なのである。出たい講義に出ればよい。自分の研究に必要そうな講義に出ていれば、必要単位数など自然と超過してしまうものだ。


 二人は文学研究科棟の三階、近代専修コース室のあるフロアへと向かった。

 エレベーターを出ると、そこは小さなホールになっている。上下の階に続く階段と、廊下が一本延びている。

 白い壁に白い柱、十年前に建て替えられたばかりの研究科棟は、病院のように殺風景な内装だ。三階から五階までが学生たちの使う専修コース室・学科室にあてられており。教授室はそのさらに上階に固められている。

 窓から光が差し込んでいて、廊下は明るい。そして静かだ。ドアを閉めてしまえば研究室の中の音が漏れることはない。


 鏡子はエレベーターホールから一番近い、西洋史専修コース室のドアをのぞいた。ドアのガラス張りの部分から、室内の様子は丸わかりだ。今は二人の学生が在室していて、何か話し合っている。

 桜下を振り返る。

「じゃあ、やろうか。よろしく頼む」

「はいはい、さっさと片付けましょ」

 



 鏡子の立てた方針は、たった一つ。

 「キャリアリスクを怖れない人物を探すこと」。それだけである。


 近代専修コースに所属する人間のみならず、文学研究科内の学生や教員がこんな怪文書を配布することは、普通はありえないのだ。万が一、現場を取り押さえられてしまったら、大学院の中で生きていくことが難しくなるからだ。

 教授は、大学組織の中で階級的には一番偉い。私立大学では事務局の権力が強いが、教授が階級として最上位であるという建前は不動だ。どんな理由があれ、特定の教授の著書出版を非難する怪文書をばらまくという行為は、大目に見てもらえることではない。


 学生の場合、警察に突き出されることはないだろうが、大学からはまず退学をすすめられる、最悪の場合はいきなり退学処分もありうる。退学を拒否して残ったとしても、大学院の中では問題のある人物とみなされて、生きにくくなることは間違いない。修士課程の学生ならば、博士課程後期への進学は拒否されるだろうし、博士課程の後期の学生も、教授から「干されてしまう」だろう。就職も論文も一切面倒を見ない、ということだ。

 教員の場合、被害者の諏訪路先生が望むなら、警察に告発されることは全然ありうるし、任期付きの講師の場合、免職は当然、ややゆるい処分だとしても、任期の契約更新はありえない。その後、別の大学に就職するとしても、前任校で問題を起こした人物、という情報はついてまわり、大きな障害となるだろう。事実上、アカデミックキャリアを絶たれるに等しい。

 このように研究科内部の人間には非常にリスクの伴う行為なのである。


 しかし研究科の外部から侵入した人物が行うことはやはり考えがたい。

 目立ち過ぎるのである。


 研究室内で不審な部外者に遭遇した者はいないそうだから、犯人は研究室に誰もいない時間を選んで入ってきていることになる。ドアから在室状況を把握できる以上、それは簡単にできることなのだが、廊下から各研究室の様子が丸見えということは、廊下を通る人物も各研究室から見られてしまうということだ。

 犯人が近代専修コース室までやってきた時、中に人がいるとわかったら、どうする。不在になるまで待たねばならない。不在かどうかを確かめるためには、部屋の前まで行かねばならない。運が悪ければ、何度も廊下を往復することになる。

 近代専修コース室は廊下の中央に位置するから、犯人はいずれかの研究室の人間に目撃される危険性はとても高い。


 もちろん、一回くらいならば、外部の人間が侵入して怪文書を置いたところで、誰も気付かないだろう。だが、ほぼ毎日というハイペースで行うのは無理だ。

 例の、新入生への声かけ運動が大きな妨げとなる。見知らぬ人間が頻繁に廊下をうろついていたら、桜下のようなお節介に話しかけられてしまう。「やあやあ新入生です? なにかお困りですかあ? お名前は?」「学科は?」「誰先生の研究室?」……とそんな具合。しかし所属を言えなかったり、偽ったりすると、不審に思う者が必ず出てくる。とっくに誰かが事務局に報告し、事務局から各研究室に注意が来ていてもおかしくない。

 他のフロアの人間であっても状況は外部犯とほぼ同じだ。


 以上を踏まえると、犯人は、この三階フロアをうろついていても怪しまれない人物、フロアの住人でなければならず、かつ大学業界で生きていけなくなるというリスクをかえりみない人物、ということになる。

 


 午前中の聞き込みは順調だった。史学科の西洋史専修コース室、日本史専修コース室、さらに英文学科研究室、仏文学科研究室、とこなしていく。英文学科・仏文学科は、学科で一つの部屋しか与えられていない。同じ文学系の学科の中では、コース別の部屋が与えられている日本文学学科が例外的に優遇されているのだ。

 近年、選択と集中を促す文科省の政策に呼応して学内改革が進められており、その一環として、日本文学学科が重点強化対象に選ばれている。文学研究科の中の看板学科、ということになったわけだ。これも学科長の佐富さとみの政治力によるものだとみなされている。


 桜下の手際は鏡子が思っていたよりもさらに見事なものだった。ちょっとお茶を飲みに来た、という風情で研究室に入ると、知人がいようがいまいが、あっという間に会話の流れをつかんでしまう。研究室内の噂話やら教授のゴシップやらを手際よく聞き出して、三十分もすると退室だ。


 ちょっとした例外は、桜下のホームグラウンドである表象文化専修コース室だった。

 研究室の中には、専修コース長の佐富守さとみまもるその人がいた。他に学生の姿は見えない。佐富は部屋の中央を占める大きな長机に陣取って、なにやら書き物をしている。通常、教授はあまり研究室には顔を見せず、学生に用があれば上階の教授室に呼びつけるものだが、「佐富先生はけっこう研究室にお見えになるんですよねえ」ということだそうだ。学生がいないので後回しにしよう、と鏡子は提案したが、桜下はかまわず入室した。


「おや、桜下くんじゃないか。そちらのお嬢さんは諏訪路くんのところの学生さんだね。うん、スズキくん、スズキくんだ。昨年『シンボリズムと文化批評』の授業に出ていたはずだぞ」

 長机から目を上げた佐富が眼鏡を押し上げる。


 佐富はひょろひょろの諏訪路とは違って、がっちりと肩幅があり、堂々たる体躯の持ち主だ。角張った顔立ちに大きな目鼻、これ見よがしに高価そうなダークグレーのスーツ。きっちりとネクタイを締めているところが、文学部の教員としては珍しい。

 業績多数、政治力抜群、その力強い講義は、単位認定が辛いにもかかわらず学生から人気が高い。新聞やテレビのインタビューにも進んで応じ、ネット上でも論客として活躍している。メディア露出を好む、目立ちたがり屋の先生、と陰口を叩かれることもある。


「先生、お仕事中すみませんねえ。ちょっと研究室内の誰かに話を聞くつもりだったんですけどお。この際先生でもいいや、ってことで」

 馴れ馴れしく桜下は話しかける。佐富も気にした風ではない。普段からこんな距離感のつきあいなのだろう。

「ふふん、なんだね、研究室のゴシップかね。自慢じゃないがこの研究室のみならず、学科内のことなら何でも知ってるぞ。僕よりゴシップに詳しい人間はいないね。マスターやドクターのひよっこたちなんぞ敵じゃないさ」

 何を威張ってるんだこの先生は、と鏡子は呆れる。

 んん、と佐富の顔がほころんだ。

「君たちが仲が良いとは知らなかった。ちょっと変わった組み合わせだが……わかったぞ。諏訪路くんに頼まれたんだな。怪文書の件だ。そうだろう? スズキくん」

 さすがに三度目なので、しゃくおうです、と小声で訂正する。

 佐富は軽くうなずいただけで、話を続ける。

「なんでぼくが知ってるかって? 諏訪路くんから聞いてるんだよ。痛くもない腹を探られてこっちも迷惑してるんだ。ぼくは関係ない、って、はっきり言ってやったんだがな。君たち、犯人捜しなら、がんばってぼくの潔白を証明してくれたまえよ」

「すみませえん、ちょっと話が見えないんすけど。諏訪路先生が、佐富先生を疑っているんか?」

 話が見えないのは鏡子も同感だった。

「諏訪路先生と佐富先生は、学生時代からのおつきあいで大変仲がいい、と僕は聞いておりますが」

 ふん、と佐富は鼻を鳴らす。

「腐れ縁て奴さ。学生のころ、同じアパートに下宿していたからね。そして今は、敵同士」

 芝居がかった仕草で、両手を広げる。


 敵、とは穏やかではない。


「そうなんですか? 申し訳ありません、先生方の事情には疎いものですから。差し支えなければ、お教えいただきたいのですが」

 ん、と佐富は目を丸くする。

「知らないのかね。話してなかったっけ」これは桜下に向けた言葉のようだ。

「まあいい、隠すことでもなかろう。ぼかあ次の科研長選挙に立候補するんだ。ところが諏訪路くんも最近になって、立候補することが決まった。はっきり言って、担ぎ出されたんだな。まさか対抗馬が出てくるとは思っていなかったもんだから、計画が狂ってしまって僕は大弱りさ」

 朗らかな口調である。まったく弱っているようには見えない。


 科研長というのは、文学研究科の長であり学部の長も兼ねる顕職だ。大学内のポストとしては、この上はもう学長しかない。実際には、個々の研究科の科研長より、大学本部の執行役員の方が権力はあるが、名誉という点では勝るし、世間的に通りもいい。この職に就くためには、年度末に行われる選挙――文学研究科と文学部に属する常勤以上の教員全員の投票による選挙に勝たねばならない。


 なるほど、これが諏訪路の言っていた、「微妙な時期」というわけだ。


 まさか諏訪路が、そんな学内政治の主役に躍り出ているとは、鏡子はまったく知らなかった。

 はいはい、と桜下が何かを理解した様子で首を振る。

「諏訪路先生がこの時期に無理して本を出されるのも、その選挙のためっすね。業績稼ぎ、泊付け、そんなところでしょうか。それを止めさせるために、佐富先生方が嫌がらせを仕掛けてきたんじゃないか……と諏訪路先生は疑ったわけっすね」

 弟子は師に似るというが、実に察しがいい。

「馬鹿だよなあ、諏訪路くんも。ぼくがそんなことするわけないじゃないか。大昔の学部長選挙だと、怪文書、拉致監禁吊し上げ、なんでもありだったようだけど。今どき出来っこない。コンプライアンス、コンプライアンスと事務方もうるさいしねえ。目立つ事件を起こして文科省に目をつけられたりしたら大変だ」

 それに、と得意げな顔で佐富は指を立てる。

「あの諏訪路くんが、今さら一般書を一冊出したからってどうだって言うんだ。一冊くらいで、ぼくの業績に適うようなセールスポイントになるはずないだろうに」


 それはそうだ。佐富は共著・単著、翻訳書、専門書・一般書、合わせて二十冊は本を出している。諏訪路の本がいかに力作であろうとも、量の面で見劣りするのは否めない。


「『教育の諏訪路先生』ですもんねえ」

 さすがに桜下も、佐富の前であからさまに諏訪路の業績のなさを非難したりはしない。諏訪路が学生の面倒見がよく、人気があるのは事実だから、「教育の諏訪路」というキャッチフレーズはまったく嘘というわけでもない。大学教授の仕事は研究と教育だ。研究していないなら教育をしているということにするしかない。


 ははあ、と相づちを打つ鏡子に、佐富は意地悪そうな視線を投げかける。

「他人ごとみたいな顔をしてるね、スズキくん。諏訪路くんが『教育の諏訪路』を売り文句にし続けられるかどうかは、君にかかってるんだぜ?」

「ええ! それはどういう……」

 いきなり話を振られて驚いたが、すぐに鏡子も理解した。

 研究助手の話だ。

 諏訪路の指導を受けている鏡子が研究助手のポストを取れず、桜下が取るようなことがあれば……教育の面でも佐富の方が上だ、ということになってしまう。

「なるほどお~。わたしと鏡子さんの、十二月の審査会での発表、先生と諏訪路先生の代理決闘でもあるんですねえ」


 なんということだ。しかしそんなことを教えられても、どうしようもない。


 科研長選挙なんて雲の上の話、知らんもんね、というのが鏡子の正直な気持ちである。

 佐富は声を立てて笑った。

「ははは。代理決闘、そういうこった。おっとスズキくん、もちろん君が気にすることじゃないさ。君はただ、自分の満足のいく論文を書けばいいだけだ。諏訪路くんのことなんか心配してやらなくていい」

 言われるまでもなく、僕が心配する義理が全くないのだが、と鏡子は半笑いになる。

「桜下くんも気楽にやりたまえ。もし研究助手をスズキくんに取られても、諏訪路くんはそれでやっとぼくに対抗できる……かもしれないって程度さ。君が取ってくれれば、勝利がより完全な勝利になるだけのこと。さほど大勢に影響はない」

 科研長選挙のことを話してしまうのはちょっと軽々しいのではないか、と鏡子には思えたが、学内政治に学生を巻き込まないという配慮はあるようだ。どちらも納得のいく論文を書け、というしごく真っ当なことを言っている。


 おっとそろそろ行かなくちゃ、と佐富は机の上の書類を鞄に突っ込み始めた。

「もし怪文書に携わった奴が、うちの研究室の人間だったりしたら、遠慮なく教えてくれたまえ。学内規則に則って、厳正に処分することを約束しよう」

 じゃあね、と気障な仕草で指を振って、佐富は去っていた。


 


 三階にある八室の研究室すべての聞き込みを終えたころには、もう日が暮れていた。

 二人は文学研究科棟を出て、学部校舎の中庭のベンチに腰を落ち着けた。涼しい夜気か漂う中庭を、授業を終えて帰路につく学部生たちが通り過ぎていく。


 桜下は鏡子が買ってやった新しいペットボトルから、ごくごくとお茶を飲む。

「いやあ。さすがにしゃべり疲れましたねえ。それで、結論は出ました? リスクをおそれない人々ってのは」


 鏡子が見るところ、容疑者として挙げられる人物は三人いる。

 日本文学学科・近世専修コースの非常勤講師、堀戸(ほりと)。

 史学科・西洋史専修コースのD8生、川上。

 仏文学科のオーバードクター、山田。

 名前を数えあげると、桜下は理由を尋ねてきた。

「まず、近世の堀戸講師。この人は非常勤で、今年で任期が切れる。来年は実家に戻って家業を継ぐんだってね。もう大学業界からは引退するってことだから、アカデミックキャリアとしてのリスクなんか、ないも同然さ」

「なるほどぉ。西洋史のD8生、川上さんて人は?」

「川上さんと、仏文の山田さんの二人はね、キャリアリスクなんか最初から関係ないと思うよ。ずばり、研究科の外部の人間だ」

「え、外部の人すか?」

「『内部の人間を装っている外部の人間』である可能性が高い、ってこと」

「偽学生、ってことすか? ああ、なるほど。どちらも留学の多い学科ですもんねえ」

 はあはあ、と桜下はうなずく。


 西洋史専修コースも仏文学科も、ほとんどの学生は、留学する。研究室を利用する人数は、在籍数の半分もいない。修士号か博士号、どちらかを研究対象国で取ってこないと、まず業界では相手にされないのだ、所属している教授たちもまた、交代で研究留学を繰り返している。

 このため、研究室に名札は残っているが、誰も会ったことのない学生が存在したりする。西洋史D8の川上という人は、三月に帰国して今年度からまた研究室に顔を出すようになったとのことだが、日本にいた当時の川上に会ったことのある後輩はもはや誰もいない。古株の教授なら知っているかもしれないが、研究室に顔を出すことは滅多にない。来るのは入れ替わりの多い、任期付きの講師たちばかりである。

 この川上が「自称川上」であったとしても、誰も気付けない可能性が高いのだ。

 仏文のオーバードクター、山田もまた、似たような事情で「自称山田」ということがありうる。


 鏡子は最初から、「外部の人間」が入り込めそうな場所として、西洋史や仏文・英文学科に目星をつけていた。聞き込みの結果、「自称研究室所属の学生」の条件に適合したのはこの二人だけだった。もう一人の、非常勤講師・堀戸が協力すれば、誰になりすませば発覚しにくいかを知ることは簡単なはずだ。


「うん、そう、偽学生。この三人の中の誰か、ということはありえなくて、この三人全員だろうな。もちろん組んでいる。日替わりで交代して怪文書を置きに来ていたはずだ」

「複数人じゃないと、さすがに同じフロアの住人とはいえ、毎日は目立ちますからねえ。一昨日、怪文書の日付を見せられた時は、まさか学生一人ずつの時間割でも調べていくつもりじゃないか、なんて一瞬思いましたが。そんなはずなかったっすね。それで全員ですか? 取りこぼしはないんですかね」


 あるかもね、と鏡子は認める。

「取りこぼしてても、いいんじゃない? 三人も捕まえれば、他に仲間がいても、さすがにもうやめるんじゃないの。もしそれでも怪文書が止まらなかったら、奥の手だ」

「お、なんすか」

 それは、事務局に事情を話して、近代専修コースだけ、ドアにカーテンを掛けることを許してもらうことだ。在室状況が確認できなくなれば、犯行は止む。

「カーテン一枚で阻止できるんすかあ。それなら最初から」

「最初からこれをやっちゃうと、犯人を捕まえられないからね。あくまで最後の手段」


「じゃあ次は、偽学生を捕まえるわけっすか」

 しないしない、と鏡子は手を振る。

「なんで僕がそこまでしなくちゃいけないんだ。諏訪路先生を通じて、西洋史と仏文の研究室に注意を呼びかけてもらうよ。次に偽学生たちが研究室にやって来たときに、研究室の人たちに問い詰めてもらえばいい。堀戸講師については……諏訪路先生に一任かな。証拠もないし、ちょっと気をつけて監視するくらいしかできないと思うけど」

 ぱちぱちぱち、と桜下が拍手した。

「あっけない……ですが、お見事ですねえ。ごくごく常識的な条件だけで、ちゃんと絞り込めるもんですね」

「だろ。現実の事件に奇抜な推理なんかいらないんだよ。『足』だけで十分」

 くっくっく、と桜下は笑う。

「へんなはなし、『オリエント急行殺人事件』みたいな展開を期待しちゃいました。諏訪路研を含む、フロア中の院生が全員共犯」

 はは、とその冗談に鏡子も半笑いする。

「その場合は発覚する可能性がゼロに近くなるから、犯人たちはキャリアリスクなんて考えなくていい。僕の方法は無意味になる、が。……そんな大規模なアンチ諏訪路ネットワークが組織されるとは思えないナ」

 鏡子は疲れていた。諏訪路から依頼された案件はつつがなく解決したわけだが、そこに満足感はなかった。作業を一つ終えた、というだけのことでしかない。


 ごもっとも、とつぶやき、桜下が立ち上がる。

「なかなか楽しかったですねえ。すんませんが、今夜はこれから下宿で飲み会があるんで失礼しやす」

「なんだ、そうなのか。今夜も飯をおごろうと思ってたのに」

 桜下へのねぎらいのつもりだった。仕方なく鏡子も立ち上がる。


 曇った空に、ぼんやりとした月が浮かんでいる。

「下宿で飲み会って、歓迎会みたいなもんか?」


 桜下が四月から新しいアパートに引っ越したことは聞いていた。

 そのアパートは、六星社大学の大学院生以上の者だけに限って部屋を貸すという方針で、「夜中に騒ぐ学部生がいないから静かなもんです」と桜下は喜んでいたはずだ。


「その続きみたいなもの、ですかねえ」

 と桜下は微妙に重い溜息をついた。

「ちょっと、やっかいなアパートなんすよ」

「うん? ……部屋は広いし、大家さんは美人だし、素晴らしい下宿だ、と絶賛してたじゃないか」

 うーん、とそのにやけた口元から、苦笑が漏れる。

「うん、へんなはなし、その美人の大家さんが一番やっかい、かもですね。わたし、困ってますねえ」


 なんなの、僕にその困った話とやらを聞いて欲しいの、それなら気をもたせるような言い方すんなよ……と思ったものの、口には出さなかった。

 桜下の声色は明らかに沈んでいた。本当に困ったことがあるらしい。


「言ってみろよ」

「止めときます」

 にやりと笑って即答された。気を遣ったつもりだったのに拒絶されてしまい、鏡子はちょっとむかついた。

「相談しよっかなあ、と思いましたけども。一つくらい、秘密を持っておくのも悪くありやせん」

「まるでそれ以外はなんでも話してくれてるみたいな口ぶりだなあ。桜下さんがそんな正直者だとは知らなかった」

「わたしはいつも正直じゃないすかあ」

 嘘つけ、と鏡子は笑う。

「例えば科研長選挙の話。桜下さんが知らなかったはずないだろ。佐富先生も隠している様子はなかったし。普段から話してるんじゃないの」

「あれはたまたまっすよ。今回の件に関係があるとは思わなかったから、話さなかっただけっすねえ」

 そのすっとぼけた口調をとがめる気はない。


「そういうことにしといてやるよ」

「下宿の話は、本当に困ってるんすよ?」

「話したいのか話したくないのかどっちなんだよ」

「もう話さないことに決めましたんで」

 うぜえ、と心の中で毒づく。


「……あっそ。好きにしろよ」


 これからどうなるのか、楽しみですねえ、と意味深な言葉をつぶやき、桜下は歩き出した。鏡子も後に続く。鈍い月光を打ち消す、照明灯の放つ人工の光に照らされて、二人は無言のまま文学部正門へと向けて歩き続けた。

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