第3回 桜下
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「ばっちり見えてましたよ~? 息切らして走ってきてえ。文書館の横でお化粧直してるところ。事務員控え室の窓から丸見えですからねえ、今度から気をつけた方がいいっすよ」
ハンバーグのかけらを刺したフォークをふりふり、桜下は言う。
鏡子の顔は恥ずかしさで真っ赤に染まっている。
「言うなよ、葵くんに絶対言うなよ」
「それ、『言って欲しい』というフリですかあ? ま、鏡子さんが葵くんに惚れてようが別にどうでもいいんすけど~。もっと早くわたしに相談してくれてたら、どうにかしてあげたのに」
「余計なことしなくていいからっ。葵くんの司法試験が終わってからが勝負だからっ」
大学の近くの洋食屋「魔女の大釜」に場所を移し、鏡子と桜下は話を続けていた。夕食時とあって、店内は学生客で騒々しい。うるさくて隣のテーブルの会話の内容も聞きとれないほどなので、密談にはむしろ適している。
「んでえ、飯までおごって、わたしに何をやらせようって言うんです?」
話のお題は、葵のことではない。この店の会計が鏡子持ちなのは、葵のことを知られたからではなく、研究室の怪文書の件で桜下に協力してもらう必要があるからだ。
桜下は、鏡子の探偵活動の、いわばコーディネーターだった。友だちがほとんどいないにも関わらず、鏡子への依頼が絶えなかったのは、彼がそのだだっ広い人脈を駆使して事件をかき集めてきていたからなのである。
助手みたいなもの、と言いたいところだが、桜下は事件を持ってくるだけ持ってきて、実際の捜査活動はめったに手伝ってくれない。案件が解決した後になってから、その顛末をまとめて聞くのが楽しみなのだそうだ。
「久しぶりに鏡子さんの探偵っぷりが見られるのはうれしいんですけどぉ、観客席の見物人としては、あんまり舞台に上がりたくないんすよねえ」
「たまにはゲストとして参加してくれ。ちょっと聞き込みしてもらうだけだから」
「ご自分でやればいいじゃないすかあ。コミュ障ぼっちのくせして、初対面の人と話すのはお上手なんだから」
「べつに僕はコミュ障じゃないからっ。そりゃ自分でやってもいいけど、文学研究棟の中で聞き込みをするなら桜下さんの方がいいんだ。ほら、桜下さんは、どこの研究室にも顔が利くだろう?」
桜下は不満そうに口をとがらせる。
「どこでも、ってわけじゃないすよ。日文学科の連中と、後はせいぜい、西洋史とか仏文とか、研究棟で同じフロアの連中だけです。ご近所づきあいってとこっすね。フロアが違う、美史やら考古やら社会学やらの連中は知らないっすよ」
「それで十分だ。目立たず穏便に、というのが諏訪路先生の意向なんだ。たぶん、桜下さんがいてくれた方が、自然な感じで進むと思う。犯人に気付かれることなく、な」
ははあ、と桜下は何かを察した顔で、ハンバーグを口に放り込んだ。鏡子も自分のポークソテーを一枚、口に運ぶ。
「つまりい、鏡子さんは、犯人は同じフロアの他の研究室の中にいる、と考えてらっしゃるわけっすね」
「そうね。研究室に隠れて現場を押さえる、というのが手っ取り早いんだけど、複数犯だから、できれば一網打尽にしたいところだ」
桜下が片手を広げて先を急ぐ鏡子をとどめる。
「ちょっと、わたしにも考えさせてくださいよ。どうやって絞り込むのか、ヒントくださいヒント」
鏡子は封筒からファイルを取り出した。怪文書の束に付けられた付箋を見せる。
「複数犯だと思う理由はこれ。諏訪路先生が日付順に整理してくれてたんだが」
「はあ。その日付から、何かがわかるんです? 特に規則性はなさそうですけどねえ。休日も平日もまんべんなく……これまで合計十九枚、一日に一枚ずつ、ってとこすかね?」
「ほい、ヒント終わり。三十秒、と言いたいけど三分な」
桜下が考えている間にポークソテーをもう一枚、片付ける。
あっさり降参した桜下に一つうなずき、鏡子はさらりと自分の見通しを語った。
思わせぶりな前置きは趣味ではない。
実に簡明な話である。
推理、というほど大層なものではない。
それを聞いて、桜下は拍子抜けしたような顔をした。
「……それだけなんです? 怪文書の文面も、まるっと無視なんです? 諏訪路先生の本のこととか、いろいろ背後関係ありそうじゃないすか」
「それは僕が関知することじゃないなあ。犯人を突き止めればいいだけなんだから、そんなの考える必要ないさ。桜下さんと一日聞き込みすれば、お終い」
「せっかくいただいたのに、それも読まないんすか?」
と、鏡子がキャスケットと共に隣の椅子に置いた、厚い封筒を指さす。
「読まないさあ。必要ないもの。僕の論文にもまず関係ないし」
大きく口を開けて、鏡子はポテトサラダを頬ばる。
「もぐ、んぐ、読んだところで、もし何かわかるとしたら犯人の動機くらいのものじゃないかな。そんなのどうでもいいよ」
「……つまんないっすねー。いつものごとく、実につまんない解法っすね」
桜下はにやにやしながら、プレートのメインである海老フライにとりかかる。
「また例によって、足だけで解決しちゃうんですかあ。たまには頭使いましょうよ」
「頭なんかなくてもいいんだよ。僕の信条は、」
「はいはい。『足で解決できない事件などない』でしたね。まったく、ミステリ好きなくせに、ロマンがない人っすねえ」
この世にはミステリ小説に出てくるような、奇抜な事件など存在しない。
人間の行為は、必ず痕跡が残る。
それをたどれるかどうかだけが問題だ。
足で解決できない事件などない――これまでのところ、このテーゼが正しいことを、鏡子は実績で証明している。学内探偵の名声は、足で築かれたのだ。
「そんなにロマンを求めるなら、桜下さんの人脈を使って、華麗な劇場型犯罪を起こしてくれる怪盗でも連れて来てくんないかな。ルパンでもモリアーティーでも怪人二十面相でも」
怪盗ですかあ、とナイフとフォークを投げ出して、大げさに両手を上げる桜下。
「でも、もうそんな機会はないけどね~。僕、探偵ごっこは卒業だから。これだって諏訪路先生に頼まれたからしかたなく引き受けたんだ。これから先は、桜下さんが何か案件持ってきても、絶対に引き受けないぞ」
「またまた、そんなこと言ってえ。本当は鏡子さんだって、期待してたんでしょ? 大学内の事件を片っ端から解決してたら、そのうち一つくらいは、謎――本物の謎がある事件に巡り会える、ってね。次がそうかもしれないですよ~?」
そうだったかもしれない。だけど今は違うな、と鏡子は内心でつぶやく。
謎に「本物」も「偽物」もない。謎というのは一時的な現象を指すものでしかない、刹那的なものだ。解けてしまえば、どんな謎も謎ではなくなるからだ。そんな一過性の快楽を追い続けるつもりはない。不毛すぎる。
「もう十分楽しんだから。これが本当に最後だよ」
一つ溜息をついて、桜下は再びナイフとフォークを取り上げた。
「ま、いいっすよ、聞き込みの件は承知しました。晩飯一食分だけは働いてさしあげますよ。ほんとは貸しにしたいくらいですけどねえ」
「なんだよ、桜下さん。引っかかる言い方するんだな」
「だってねえ。わたしら、敵同士、なんすよ?」
スパン、と桜下のナイフが、頭を外した海老フライを縦に両断した。
敵同士、という言葉の意味がとっさに思いあたらなかった。
「もしかして研究助手のこと言ってるのか?」
「ですです。十二月の審査会は、わたしらの未来を賭けた戦いになるんすよ。このご時世、人文系ではまっとうに論文書いてがんばったところで――私大の院から大学教員のポストなんて無理っすから。わたしはそこまで自分の才能を過信していませえん」
「それはそうかもしれない、が」
それとこの怪文書の件はあんまり関係ないんじゃないかな、と言おうとして遮られた。
「だからあ、もし怪文書事件を解決できなかったら、諏訪路先生が鏡子さんの推薦を取り下げるかもしんないじゃないすか。大学教授ってのは我が儘ですからね、温厚な諏訪路先生でも、いざって時はわかんないすよ」
それはない、とは言い切れないなあ、と鏡子も思う。交換条件というわけではないはずだが、諏訪路教授の持ちかけ方からすると、そういう意図がなくもないように見える。
「もしそうなったら、わたしとしては強敵が一人消えて、万々歳なんすよねえ。そこをまあ、海老フライディナープレートごときで助けてあげるんすから、わたしもなんてやさしい奴なんでしょ。我ながら泣けるっすね」
どこまで本気で言ってるのかわからない。桜下は時々、そのへらへらした笑顔の下に本音を包み隠す時がある。そういう時は、ちょっとだけ怖い。
「ずいぶん僕を過大評価するなあ。仮に僕が下ろされても、ドクターの誰かが出るだけだよ。何本も査読論文通してる先輩もいるし、そっちの方がむしろ桜下さんには強敵になるんじゃないか?」
あはははは、と桜下は笑い出した。
「ぼんくら揃いの近代に敵なんかいませんよ。鏡子さんを除いて、ね」
自分の才能を過信してない、と言いながら、ずいぶんな言いようじゃないか。
鏡子は黙って桜下の出方を見る。
「いまいちご存じないようだから、教えて差し上げますけど。近代日文の作家で修論書こうと思ってる人たちで、まともな人はみんな、近代じゃなくてうちの研究室に入って来てるんすよ。
漱石やりたい人も鴎外やりたい人も。芥川、三島谷崎川端、みーんな表象文化でやります。近代に入るのは、残りカスみたいな連中だけっすね」
「そーなの? なんでそんなに近代が不人気なんだ」
鏡子は首をかしげる。
「だって、普通は諏訪路先生になんか指導されたくないですからね」
「そうかなあ。諏訪路先生、学生からは好かれてると思ってたけど?」
「学部生にはね。ただ、院生が論文を指導してもらうとなると話は別です。……あの先生は業績がまったくないんすよ。皆無っす」
「え、業績、ないんだ……」
「ほらやっぱりご存じない。博士号もない、論文もない、著作もない、共著もない。ないないづくしの諏訪路教授、として有名ですよ。今どきありえません。ありゃあ前世紀の遺物っすね」
そんなことは、同期とまったく情報交換していない鏡子が知るはずもなかった。
専修コース長を務めてる先生なのだから、立派な業績があるはずだろうし、どうせ修論なんて勝手に書くものだし、と特に調べもせず、近代専修コースへと進んだのだ。
「諏訪路先生のまともな論文は、六星社大に准教授として、当時だと助教授でしたっけ、採用された時に出した一本きりなんですねえ。後は、たまーに学内紀要に論文の出来損ないみたいなエッセイ書いてるだけっすよ。研究内容も、最初の論文からずーっと『第三次六星社文学』一本槍っす」
キャスケットの下敷きになっている、諏訪路初の単著となるはずの原稿が入った分厚い封筒に、なんとなく目をやってしまう。
――じゃあこれは、先生にとって初めて出版する本であると同時に、大学に就職してから初の業績、いや一般向けの本だから、業績(らしきもの)、になるわけか。
教授室ではいつもデスクにへばりついているから、てっきりなにか研究しているのだと思っていたが。では毎日、授業の空き時間は何をしているのか。何かしているふりをしているだけで、何もしてなかったのか。
教授になって、燃え尽きちやったのかもなあ、とできるだけ同情的な理解をしてみる。
大学の正規教授のポストには終身在職権が付いてくる。一度なってしまえば生涯安泰ということである。念願かなって教授になった途端、勉強しなくなる人、というのは、分野を問わず一定数いるそうだ。
「なるほどねー。でもま、採用される時には一本書いてるんだろ。不正な手段で教授職に就いたわけでもないんだから、いいんじゃないの? 昔は文学の博士号なんて、持ってる先生の方が少なかったと聞くしさ」
鏡子の中で諏訪路への敬意は大幅に下落した。だが桜下のあまりに刺々しい、見下すような言葉への反感から、この場ではひとまず諏訪路の味方をしてあげることにした。
業績はともかく、指導教官としては、決して悪い先生ではないと思う……いやこれからのつきあいを考えるとそうであって欲しいと願いつつ、桜下にさらに一矢を放つ。
「先生の紀要論文にしても、少なくとも……『ポストセカイ系としての厨二病――うんたらかんたら』よりはましなタイトルだった気がするナ。中身は知らないけど、さ」
これはあてこすりだ。
「現代文化批評なんすから、いいじゃないすか。社会的な影響力から言っても、現代の純文作家の作品を論じたりするより、よほど意味がありやす」
むっとした顔で反論したものの、桜下はそれきり口を閉ざした。
二人は黙々と料理を平らげた。
食後のコーヒーが運ばれてくる。
「さっきはちょっと口が過ぎたっすね」
「僕も嫌らしい言い方しちゃったな」
二人はあっさり和解する。満腹すると気分も和らぐというものだ。
「それで、肝心の研究助手の論文、桜下さんは何書くんだ? またサブカル系文化批評?」
「……漱石の、『こころ』」
桜下は恥ずかしそうにつぶやいた。あまりに小さな声だったので聞き落とすところだった。鏡子的には、修論のタイトルの方がよほど恥ずかしいと思うのだが、桜下の気持ちもわかる。夏目漱石の「こころ」という本流も本流、ベタ中のベタな題材を選ぶのは、「らしくなさすぎる」と思ってるのだろう。
「い、意外だな。修論みたいなノリを期待してたのに」
「いやね、わたし的には『残念系とネト充――ネットコミュニティにおける均質化の標準』てな感じのをやりたかったんですけどね。佐富先生のすすめでちょっとテーマを変えることにしたんすよ」
ちょっと変えたなんてレベルじゃねーぞ、と鏡子は心の中で突っ込む。
「審査員受けを考えるとそっちの方がいい……のかな。それにしても、桜下さんが漱石。変化球しか投げたことないピッチャーに、直球だけで勝負させるようなもんだナ」
「まさにそれですよ。でもまあ、せっかく推薦してもらったことですし? ここはひとつ、監督の采配を信じて、どストレートを投げてみますよ、っと」
「『こころ』をどう料理すんの?」
「先生が自殺した理由に新しい解釈を立ててみようかなと。『先生』じゃなくて『わたし』を中心に読んでいくのがポイントっすね」
「めっちゃメジャーテーマだな! あー、『わたし』中心で読むのは最近の流行かもね」
「だから言ったじゃないすか。直球を投げます、って。
んで、鏡子さんは誰で書くんです? また松涛武夫?」
「んー、同年代だけど、ちょっと変えて……
「また六星社大出身の作家ですかあ。意外と愛学心強いっすねえ。系譜研究?」
「学内だけでも資料を揃えやすいから、何かと便利なんだよ。今度は作品論でやるつもり。『無敗の手』で行く」
くくく、と桜下は笑った。スプーンでコーヒーに砂糖を注ぎつつ、つぶやく。
「鏡子さんも本気じゃないすかあ。作品論はこれまで避けてたくせに。しかも『無敗の手』、王炊章一の代表作っすね。わたしでも読んでる。真っ向勝負ってことすね」
審査会を意識した題材、意識した方法論の選択であることは否定できない。「無敗の手」をすすめてきたのは諏訪路だ。
「王炊章一は純文作家ですけど、ミステリと言えばミステリ、ですかねえ。変格ミステリの走りですか。芥川賞も直木賞も獲れなかった……早すぎた天才、無冠の帝王、でしたっけ。これは葵くんからの受け売りっすけどね」
「え、葵くん、王炊章一読むんだ!?」
喜色満面の鏡子に桜下は苦笑する。
「すごい食いつきっぷりっすねえ。そのあたりの作家はかなり好きみたいですよ。ああ、
「なんと! もろに僕の分野じゃないか。もしかして今日の別れ際、いつもより愛想が良かったのはそのせいかな?? いやーなんか突破口が開けた気がするぞ」
そりゃ良かったっすね、とすげない桜下。
「葵くんのことは応援してさしあげますから、こっちのことも忘れないでくださいよね。天河さんが帰国したら、絶対に教えてくださいよ」
「ああ、連絡がついたら、な」
口に運んだコーヒーは、その芳醇な香りであるにも関わらず、教授室のインスタントコーヒーよりも苦く、チープな味に感じられた。
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