第2回 司法浪人・葵宏大

 2

 鏡子が在籍しているのは、京都府六星社ろくせいしゃ市にある、六星社ろくせいしゃ大学という私立大学だ。


 六星社市は山城盆地の南端に位置する。京阪奈けいはんな丘陵と生駒山地に囲まれた、京都府・奈良県・大阪府、二府一県の交わる境界の街である。

 この街は、辺境の学園都市として知られている。名実ともに、六星社大の城下町なのである。市の人口の半分は六星社大学の学生や教職員が占めているし、市の名前も、大学から取られたものである。市の名前が六星社だから六星社大、ではなくて、六星社大があるから六星社市なのだ。


 六星社大は、関東の早大・慶大、関西の同大と並ぶ、明治以来の古い歴史を有する大学で、知名度と入学難易度では全国でもトップクラスである。学生の質も私大トップクラス……ではあるが、もちろん有力な国立大学には及ばない。関西地方の場合、国立では京大と阪大が抜群の存在感を持っている。受験生は京大と六星社大に合格したら、迷わず京大へ進学する。阪大となら、自宅から近いから、という理由で六星社大を選ぶ学生もちらほらいる、という程度である。

 ともあれ、なかなか優秀な若者たちが集う大学であることには違いがない。


 鏡子が向かった六星社大学出版局付属文書館は、文学研究科棟から最も遠い建物の一つである。文学部キャンパスから本部キャンパスの東南端まで、大学敷地内を対角に横切らなくてはならない。

 出版局の裏手には、葉を真四角に刈り込まれた庭木が建ち並ぶ、英国風庭園が広がる。その中央に建つ、三階建ての小さなビルが文書館。ここには、大学出版局ゆかりの出版物が保管されている。もちろんそのほとんどは文学部図書館や中央図書館にも収蔵されているのだが、一部の、戦前の希少な書物の原本だけはここでしか閲覧できない。


 ここまで、鏡子の足で走って十分。

 学究の徒にありがちなことだが、鏡子は大学に入って以降、およそスポーツには無縁であり、その小さな身体は軟弱そのものである。それで準備運動もせずいきなり十分間も走ったのだから、文書館に到着したときには、顔は真っ赤、息は荒く、全身の筋肉が震え、酸欠で今にも倒れてしまいそうなほど、ふらふらの状態であった。教授に持たされた原稿の封筒が重い。


 そんなに急いで何がしたいのか、と言うと。

 実は資料の閲覧に来たわけではない。必要なものは全て、とっくにコピーを取り終わっている。

 鏡子は文書館の玄関脇の壁にもたれ、二・三分ほどかけて息を整える。乱れた髪をできるだけ整え、手鏡で化粧の具合をチェック、軽くアイラインを引き直す。鏡子のメイクはごく薄いが、あるとないとでは大違いなのだ。最後にブルゾンの内ポケットに入れておいた香水の小瓶を取り出し、首筋と手首に一吹き。

 時刻は四時四五分。これからの十五分間が大事なのである。

 一つうなづくと、キリッとした顔をつくってキャスケットをかぶり直し、鏡子は正面玄関へと向かった。


 この文書館の中には、鏡子のお目当ての男がいるのである。

 鏡子は、中・高・大・院、これまでいかなる集団に属しても、異性にモテた試しがない。ネットスラングで言うところの喪女、モテナイオンナを自認している。

 ――似非インテリ系喪女の僕が一目惚れとは!

 その男の名は、葵宏大あおい・こうだい。週に一日だけ、文書館の受け付け兼事務のアルバイトをしている、司法浪人生だ。法科大学院を出て二年目だそうだから、年齢は今年二十六、鏡子の二つ上ということになる。

 文書館は、その性質上、ごく限られた研究者や院生にしか需要がなく、決して千客万来というわけでもないが、それでも日中はちらほら来館者がいる。彼の受け付けの仕事を邪魔せずに雑談するためには、来館者が退けたこの時間がベストなのだ。


 自動ドアを抜けると、受け付けのブースに座る鏡子の麗しの君・葵の姿が目に入った。

 目にかかる長めの黒髪と白い肌のコントラストが印象的な、長身の美青年だ。真っ白な長袖シャツがやけにまぶしく感じる。

 彼の姿を見ただけで、鏡子の胸は高鳴る。頭に血が昇るのが自分でもわかる。

 狙い通り、今日もこの時間帯の文書館は無人のようだ。


 今日は何を話そう。


 彼は物静かな青年で、鏡子が何を話しても聞いてくれる、ができることなら、彼に楽しんでもらえる話がしたい。

 ここに通い始めて四週間になるが、いまだに彼の趣味や興味の対象がわからない。共通の話題が見つからなくて、困っているのだ。最初のころは司法試験や法律の話を振ってみたが、彼がそれを望んでいないと知って、止めた。彼にとって、週に一回ここでバイトをしている時間は、試験勉強の息抜き、気分転換のようなものなので、むしろそういう話はしたくないのだという。


 じゃあどうする。

 何を話すんだ。

 諏訪路先生に頼まれた、怪文書の件?

 ないなあ。

 僕が、いい年こいて探偵の真似事やってる女だなんて知られたら……まあ変人扱いかな。普通に考えて、恋愛方面にプラスに働くことはなかろう。

 ええい、なんでもいいからとにかく話しかけろ!

 十五分一本勝負の始まりだ!


 ぎこちなく足を踏み出し、笑顔を作って笑いかける。

 鏡子に気付いた葵も、にこりと微笑み返してくる。

「錫黄さん、こんにちは。また調べものですか? もう閉館時間ですよ」

 その涼しげな声に、心臓が破裂する――死んでしまう。だがのんびり死後硬直している場合ではない。時間がないのだ。鏡子は破裂した心臓の肉片を大慌てでかき集め、息を吹き返す。

「あ、ああ。こんにち、わ。司法試験前なのに、バイトお疲れ様」

 葵の笑みが深くなった。

「お気遣いありがとうございます。四月一杯は続けようと思ってまして。けっこう気に入ってるんです、ここの仕事」

「四月一杯……」

「ええ。さすがに五月になったら、入れません」

 それはそうだろう。司法試験の本番は五月の第三週だと聞いている。

「もしかして、そのまま辞めちゃうのか?」

 どうでしょうね、と葵は小首をかしげる。

 息を飲む鏡子。だが残念ながらその続きを聞くことはできなかった。 


 カウンターの背後、ブースの奥の事務員控え室へと続くドアから、もう一人の人物が現れた。

 ジーンズにジャケット、こざっぱりとした身なりだが、どことなくうさんくさい風貌の、細身長身の男。イケメンと言うには美しくなく、インテリ風と言いきれるほど賢そうでもなく、しかしチャラ男のように頭悪そうにもガラが悪そうにも見えない……。

 男は鏡子の顔を見て、へらりとした笑顔を向けてくる。


「あらら、鏡子さんじゃないすか。奇遇ですねえ、へんなはなし、これからメールしてお誘いしようかと思ってたんですよ~。久しぶりに飯でもどうかなーなんて思ってて。いやあ手間が省けましたねえ」


「え、桜下さくらしたさん……。何でここに居るんだ……」

 鏡子は落胆した。

 その男、桜下は日本文学学科の表象文化研究専修コースのD1生。東京の早大から六星社大の大学院に入ってきた人で、もうつきあいは二年ほどになる。鏡子が去年まで顔を出していた、学部生主体のサークルで親しくなった、鏡子にとっては数少ない「友人」と呼べる人間だ。

 だから、普段なら顔を合わせることはまあ歓迎なのだが、今だけはダメである。許せない。


 何でここに居るんだ!


 と心の中でもう一度絶叫する。

 葵との二人きりの時間のはずだったのに、その目論見は見事に崩れ去った。楽しい時間は、また一週間先までお預けだ。

 肩を落とした鏡子を見て、桜下は不思議そうな顔をする。

「何で居るんだ、とはひどいですねえ。本局の方の仕事が早く終わったから、葵くんのところに遊びに来てただけですよ」

 前々から桜下が出版局の編集部でアルバイトをしているとは聞いていた。葵も、文書館詰めとはいえ、同じ出版局に勤めているのだ、二人につきあいがあってもおかしくはない。

「はあ。そうなんだ」

 気のない返事になってしまう。

 葵が簡単に事情を説明してくれた。

「桜下さんは、文学研究科のことで、錫黄さんになにやら聞きたいことがあるそうですよ」


 聞きたいこと。なんだろうか、心当たりがない。


「研究助手の件ですよ。近代は誰が候補になったんです?」

 なんだそのことか。

「は? 僕だけどそれがなにか」

 えー、まじっすか、と大げさに両手を広げる桜下。

「それがどうかしたのかよ」

 鏡子の不機嫌さには気付いた様子もない。

「まさかまだマスターの鏡子さんが出てくるとは、へんなはなし、完全に予想外したね。あ、わたしも候補に選ばれたんでえ。お互いがんばりましょ」

「え、表象文化は、桜下さんが候補なのか!」


 やり手の佐富教授率いる表象文化専修コースは、総所属人数が七十人近く。

 伝統的な近代日文作家の研究をしてもよし、現代文学批評や文化批評をしても良し、という、実に研究の許容範囲が広いコースなので、かつてなら近代専修コースに入ってきただろう学生までもが、こぞって表象文化専修コースに進学する傾向にある。

 近代専修コースにとっては直近のライバルともいえる、その大所帯の中から選ばれたのだから、大したものである。


「はい~そうなんですよねえ。わたし、修論書いただけで、査読付き論文一本も持ってないんですけどねえ。佐富先生にこき使われてますし、そのご褒美でしょうか」

 全体、この桜下という先輩は、よく言えば社交的、悪く言えば馴れ馴れしい。鏡子とは対称的に、コミュ力の塊のような男である。六星社大学に入ってきたのは大学院からだが、いくつものサークルに顔を出し、やたらと人脈が広い。研究科の中でも、学科・研究室を問わず知り合いが多いようだ。

 佐富先生にはいろいろ雑務を押しつけられている、と日ごろからぼやいているが、それも裏を返せば目をかけられているということなのかもしれない。


「お二人がライバル、ってことですか」

 笑顔のまま、葵は二人を見比べる。

「ライバルと言っても、やってることがまあーったく違いますからねえ。それを並べて審査するわけですから、先生方も大変ですよ」

「僕は作家の系譜研究、桜下さんは現代文化批評だよな。たしか修論は、『ポストセカイ系としての厨二病――エヴァンジェリオンの呪縛とストーンズゲートが開く可能性――』」

「エヴァ? あの、アニメ……ですよねそれ」

 葵は不思議そうな顔をする。

 さいです、と桜下は大きくうなずき、その痛いタイトルの論文の内容を解説する。

「誰もが知る、九十年代の傑作にして〇年代に劇場アニメ連作シリーズとして復活したエヴァ。これと一〇年代の劈頭を飾る、傑作ノベルゲーム『ストーンズゲート』を軸に据えて、ネットが日常を侵蝕する複雑怪奇な現代社会をオートポイエーシス的概念で解釈し、これからの一〇年代を予測する野心的な試みっすよ」

 よくわからない顔をして葵はかぶりをふる。

「そういうのも文学部の論文になるんですね。へえ」

 法学の人からすると信じられない気がするのだろう。鏡子にとっても違和感ばりばりだ。さすが何でもありの表象文化専攻。

「じゃあ、錫黄さんはどんなことを」

「鏡子さんは、えー『近代國文』に載ったのは松涛しょうとう武夫でしたっけ? 大衆文学で名を馳せた松涛武夫を、横溝正史と比較しつつミステリの系譜に位置づけし直す、って感じでしたっけね」


 ああ、せっかく葵くんが話を振ってくれたのに、僕に説明させろ!

 しかも微妙に間違ってるし!


 松涛武夫、と葵は小さな声でつぶやいた。

 だがますます不機嫌になっていた鏡子は、その反応に気付かなかった。

「それで近世と中・古からは誰が出るんだ? 桜下さんのことだから、どうせもう調べはついてるんだろ」

「近世は、候補を出さないかも、という話です。中古からは西園にしぞのさん、って方ですね。D2だったはずですが、ご存じです?」

 中・古、というのは中世・古代専修コースの略だ。この二つのコースは、指導教員と所属学生が少ないので、近年になって合併されてしまった。

 一般に、日本文学の領域で中古と言えば、時代区分では古代に属する一分野で(古代は上古・中古・近古と分けられる)、主に平安文学を扱う。中・古という語を、中世・古代コースの略称として使うのは、六星社大内だけで通用するスラングである。

 少し記憶を探る。中・古と近代では、あまり接点がない。何かの授業で一緒だったことがあるだろうか。

「単位の数合わせに取った『鎌倉文学』の授業で、TAやってくれてたような気がするな。それくらいだな、特に印象に残ってない」

「なんでも中・古の草野先生の一番弟子だそうで。査読付論文を二本持ってるらしいす」

「ふうん、三人の中では一番業績あるね」

「へんなはなし、わたしだけ修論しかない、ってのは不利そうなので、今年中にもう一本書くつもりっす。十二月までに業績作っておかないと」


 なるほど、それは確かに。自分も何かもう一本書いた方がいいかもしれない。

何を書くか、と頭の中で使えそうな論題を並べて検討を始めたところで、「いかん!」と我に返る。せっかく葵と過ごせる貴重な時間をそんなことに費やしている暇はない。

 幸い、葵の方から鏡子に話を振ってくれた。

「ところで、錫黄さん。手に持っている封筒はなんですか?」

「ん、おお、これね」

 と鏡子は手に持っていた封筒をカウンターの上に投げ出した。キャンパスの中を駆けてくる間、邪魔でしかたがなかったその封筒だが、葵の顔を見た瞬間から、すっかり存在を忘れていた。

「うちの教授が今度本を出すんだけど、その原稿のコピーだよ。役に立つから読め、といって押しつけられたんだ」

「へえ、どんなご本なんです?」

「僕もまだ見てないんだ。開けてみよう」

 桜下が、意地悪そうに口元をゆがめた。

「開けなくてもわかるっすよ。ずばり『第三次六星社文学』に関する本すね」

「ふーん。どれどれ」


 分厚いコピー紙の束を取り出すと、一番上に綴じられた表紙には普通の大きさの文字列でつつましくタイトルが印字されていた。


 

 『無名文士たちの群像―第三次六星社文学と羽生蝉耳(はぶぜんじ)を中心に―』


 

「ほんとですね。桜下さんの言うとおり、第三次六星社文学について書かれたもののようです」

「なんでわかった? ああ、そうか、諏訪路先生は第三次六星社文学の第一人者なんだっけ。近代日文概論の授業で聞いた覚えがあるな」


 「六星社文学」というのは、明治から大正中期にかけて、六星社大学の学生が中心となって断続的に発行されていた文学同人雑誌である。

 これは東大の「新思潮」と並び、明治以来の近代日本文学の発展を語る上で欠かせない重要な文学雑誌……ではまったくない。一般人ならよほどの文学史マニアでなければ知らないだろうし、研究者でも知らない人は知らない。同時代の文壇や出版業界への影響が少なすぎて、触れずともほとんど問題ない存在、ということである。

 かように重要性も知名度もない雑誌ではあるが、六星社大学の歴史を語る際には誇らしげに持ち上げられたりもする。

 戦前の文壇は、現代よりもさらに圧倒的に、東京を中心に動いていた。関西の辺境に位置し、地理的制約の大きい六星社大学にとって、文壇人を排出することは困難を極めた。そんな中、学生が自前の文学雑誌を編集し、小規模ながら出版していたのだから、大したものだ、もっと評価されるべき、というわけである。

 ちなみに、その名は一応現代に受け継がれており、大学出版局から不定期の文芸雑誌「六星社文学」として刊行されている。


 諏訪路先生の本で扱われる、最後の時期である「第三次」は、その中でもさらにマイナーな領域だ。第三次六星社文学は、大正七年に刊行が開始されたものの、一号だけで刊行停止に陥ってしまった。つまり創刊号だけで終わった雑誌なのだ。

 その直前、第二次の六星社文学が、中央の文壇にもそこそこ認知されていた(夏目漱石や正宗白鳥らの私的な書簡の中で言及されている程度だが)ことに比べると、寂しい限りである。近代日本文学の研究者や院生からは、「あってもなくても同じ」と揶揄されている……。


「第一人者てえか、他に研究者がいるかどうかすら怪しいような分野ですしい、諏訪路先生はそれしかやってないですしい」

 桜下は皮肉っぽい調子を崩さない。

「この本のことは、出版局でも噂になってたんすよ、へんなはなし。諏訪路教授に泣きつかれた、つって書籍部の部長がぼやいてましてねえ」

 おやおや、諏訪路先生から聞いたのとはちょっと様子が違うぞ、と鏡子は苦笑する。


「ぼくはその本、ちょっと興味ありますね。出版されたら読んでみましょう。六星社文学は、第一次から第三次まで、一応目を通してますから」


 葵の発言に鏡子は驚いた。

 まさか、そんなカビの生えた文学同人誌を、司法受験生の葵が読んでいるとは思いもしなかった。

「え、まじでか。僕なんか学部のレポート書くときに、第二次六星社文学から一冊使わせてもらったけど、そんな程度だぞ」

「この文書館の二階に原本がありますし、どんな内容なのかなと気になってしまって。バイト中の暇な時間に、ちょこちょこ閲覧していました」


 もちろん、葵が閲覧したというのは画像データだ。貴重な戦前の雑誌類は、手でページをめくると毀損してしまうおそれがある。そのため、全ページをスキャンしてマイクロフィルム化されている。六星社文学も例外ではなく、原本はガラスケース越しにしか見ることはできない。


「葵くん、意外と文学好きですからねえ。へんなはなし、わたし大正期の同人誌なんて一冊も読み通せる自信ないっすね」

「いやそれ日文のドクターが言うことじゃないだろ。少しは恥じろよ」

 と桜下に突っ込みつつ、鏡子は葵の意外な一面を知って、喜んでいた。

 近代日文好きであるというなら、これからは共通の話題を探すのも容易そうである。もっと早く、そういう話を振れば良かった。

 「六星社文学」を彼がすべて読んだと言うのなら、僕も読んでやろうじゃないか、うん。

 心の中で意気込む鏡子だったが、無情にも葵は立ち上がった。

「あ、そろそろ閉館作業しなくちゃ」

 鍵の束をもって、二階へと上がっていく。

 あああああっ、と鏡子はその背中を見送った。タイムリミットだ。





 ほどなくして、三人は文書館の外へ出た。屋外から警備システムの作動パネルを操作しつつ、葵は淡々と言った。


「ちょっとお二人が羨ましいですよ。研究室の中で代表に選ばれるなんて、すごいことじやないですか。ぼくも文学の論文を書いたりしてみたいですね」


 鏡子はその言葉の意味を図りかねた。およそ司法浪人生が言いそうにない言葉だ。葵はそこまで文学に傾倒しているのだろうか、否。おそらく、昨年と同じ試験勉強を繰り返している現状への嫌気の表れなのだろう、と解釈する。

 鏡子たちの前では態度に出さないが、相当にプレッシャーが高まっているに違い。


「まじすかあ。じゃあ葵くんも、司法試験落ちたら文学研究科に来ましょうよ。へんなはなし、就職はないけど楽しいっすよ~」

「こら、試験直前の葵くんに何言ってんだよっ」

 あわてて鏡子は桜下の軽口をとがめる。

「ははは。文学研究科、行ってみたかったですね。それじゃ、ぼくはこれで」

 気にした様子もなく、葵は朗らかに笑った。


 彼はいつも、すぐ近くの法科大学院棟で深夜まで勉強するのだそうだ。そのほんの少しの距離だけでもご一緒したい。あるいは、彼の勉強が終わるまで、待っていてもいい……と鏡子は常々思っているが、これまでそうしたことはない。

 「一緒に帰ろう」と誘うのは司法試験が終わるまで我慢だ、と決めていた。

 試験本番を控えた、ナーバスになってるであろう時期にあんまりまとわりついて、うざいと思われても嫌だ、というなかなか賢明な判断でもある――というのはちょっと嘘で、単に臆病なだけである。断られたら、次にもう一度誘いかける自信はない。だから、できるだけベストの状態になるまで待とう、というわけだ。

 だが五月になったら葵はいなくなる。今日の口ぶりからすると、六月に戻ってくるかどうか、怪しい様子だ。

 チャンスは今日と来週だけ、かもしれない。


 どうするどうする。今日こそ、声をかけるべきか。


 一秒に満たない時間の間に、どうどう巡りの自問自答を繰り返した末。 

「……ああ、またね」

 鏡子は日和った。決断を先送りしたのだ。


 ところが今日に限って葵は、いったん背を向けてから、思い出したように振り返った。


「ええ、錫黄さん。また来週」


 え、っと聞き返す暇もなく、葵は去っていった。


 ――また来週! また来週って言ってくれた!

 そ、それは、僕が来るのを楽しみにしてる、と思っていいのかな? な?


 葵がそんなことを言うのは、初めてだった。たった一言で、鏡子の恋愛回路は沸騰した。

 

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