第1回 諏訪路教授

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 文学研究科棟七階でエレベーターを降りると、廊下にはずらりと教授室のドアが並んでいる。鏡子きょうこはその一つのドアをノックする。許可を得て部屋に入ると、すでに部屋の主は応接用のソファに腰掛けていた。それはとても珍しいことだった。ぴょこぴょこと付箋の飛び出した学術書が山積みにされている、小さな砦のようなデスクが、教授のお決まりの居場所のはずだ。

 壁面を書架で埋めつくされた重苦しい教授室の中で、唯一そのデスクの周辺だけが、窓から差し込む春らしい光に照らされている。

 学生が訪ねてきたくらいで、教授がその砦から出てくることはまずない。少なくとも鏡子は見たことがない。決して学生を軽んじているわけではなく、むしろ文学研究科の教授陣の中では、学生への面倒見が良い方なのだが、単にものぐさな先生なのである。


「やあ、来たかね。ほら座って座って」

 はあ、と頭に乗ったキャスケットをとって、教授の向かいに座る。

 座ったとたん、鏡子は眼鏡を押し上げて、二人が挟むテーブルの上を二度見した。

 驚いたことに、テーブルの上には、急須と湯飲み、さらにお茶請けのお菓子まで並んでいた。といってもお菓子はその辺のコンビニでも売ってるようなクッキーだったが。

 教授は、痩せた手で二つの湯飲みに茶を注ぎ、一方を鏡子の方へと押しやった。

「ささ、どうぞ」

「これは、どうもいただきます」


 どうしたことだ、ずいぶん待遇がいいじゃないか――それにしても、この部屋に急須があったなんて知らなかったぞ。


 鏡子はむしろそれに驚いていた。

 普段なら、テーブルの上にはポットと紙カップ、それにインスタントコーヒーの瓶が置かれている。教授室を訪ねてきた学生は、そのインスタントコーヒーを一杯作って、デスクから動きたくない教授に差し出す代わりに、自分も一杯飲んでよいことになっている。

 教授にすすめられたら二杯目も飲んでかまわない。(鏡子はたいてい断ることにしている)

 学生以外にも来客はあるだろうから、ちゃんとしたお茶の用意くらいあって当然だろうが、鏡子にとってはあまりにも見慣れない光景であった。

 いつにない歓待の構えに、鏡子も少し居住まいを正す。


 教授と教え子は、向き合ったまましばし沈黙してお茶をすすった。

 鏡子はぱっと見、冴えない大学院生の典型のような女子である。背が低く、眼鏡をかけ、ジーンズにブルゾンというラフな服装。帽子を取った短髪の頭には寝癖がばっちりついている。キャスケットをかぶる習慣も、コンタクトにせずあえて眼鏡なのも、たぬきのような童顔を隠すためなのだが、あまり効果はない。

 諏訪路平すわじ・たいら教授は、五十代半ば。やや薄くなった頭髪も髭も真っ白、痩身中背の紳士然とした男である。ノーネクタイだが羽織っているジャケットはどことなく上品な印象のデザイン。

 学生への態度も優しく、授業がわかりやすく、単位認定も甘い、と学生から人気の先生で、鏡子の担当教官でもある。

 湯飲みをテーブルに置くと、教授は、ほっそりとした手で、あごから突き出した白い鬚を撫でた。


「いい話が来たんだよ、錫黄しゃくおうくん……。しゃくおう、で合ってたよね? スズキ、じゃないよね?」

「合ってますが? 今さらどうして」

「すまんすまん、研究室の子らが、君のことをたいていスズキと呼んでいるのを最近知ってね、ちょっと自信がなくなってしまったよ」

「自信をなくさないでください。続きどうぞ」


 鏡子の姓は少し珍しく、読みにくい。錫黄鏡子(しゃくおう・きょうこ)、がフルネームだが、鏡子と親しくない、つまり姓の読み方を聞くほどのつきあいがない人間は、たいてい音読みで「スズキ」と読んでしまうようだ。

 ところで諏訪路教授が言う「研究室」とは、教授がコース長を務め、鏡子が所属している日本文学学科近代専修コースのことを指す。

 在籍人数は多くない。近年不人気はなはだしい人文系大学院の例にもれず、博士課程前期・後期の学生を全部合わせても三十人ばかりしかいない。

 そんな少所帯であるにも関わらず、姓を正しく呼んでくれる人間があまりいないということはつまり、鏡子は専修コースの中に友だちが少ないということである。いや少ないどころかゼロである。

 コースに所属する学生たちには、研究と交流の便宜を図るため、専修コース室という部屋(「研究室」という言葉はこれを指して使われることも多い)が与えられているのだが、鏡子はそこにほとんど顔を出していないので……名前を正確に覚えられていないのも無理はない。

 学部・学科の同期たちと知りあい程度のつきあいしかないのは学部生時代からのことだから、鏡子は今さら気にしていない。


「うん、実はね。日文学科に科設研究助手の設置が認められたのだよ。えー、知ってる? この制度」

「いえ、初めて聞きましたが」

 そうだろうと思った、と諏訪路は白髪を綺麗になでつけた頭を振る。

「若くて有望な研究者志望の院生に、助教待遇の給料を出して授業料も免除する、というものさ。年俸……三百万だったかな。

 研究助手、といっても特に何か仕事があるわけじゃない。それまで通り、院の授業に出て、論文を書けばよろしい。多少は研究室の雑務を引き受けてもらうかもしれないが。

 もちろん、無期限というわけじゃなくて、規定の年限内、三年で博士号を取らなくちゃいけない。無事博士号が取れたら、本人が希望するならだが、そのまま講師として採用。授業を受け持ってもらうことになる」

「そ、それは凄いじゃないですか!」

 鏡子は目をむいた。


 助教待遇の年俸は、奨学金のようなものとして考えると、破格の待遇であるし、それに加えて将来のポストまで約束されることになる。

 大学院に在籍する学生の悩みの種は、第一に将来の進路だ。

 文学研究科などという浮き世離れした分野に進学するような学生は皆、できれば研究職に就きたい、大学に講師として就職したいと考えている。だが、どこの大学でも人文系大学院のポストは削減される一方であり、その希望を実現するのは困難極まる。

 普通は博士号を取っても、講師どころか、アカデミック業界のキャリアの第一歩、大学のパートタイマー的な扱いである非常勤講師に採用されることすら難しい。

 かつて、前世紀の後半までは、非常勤講師というものは、博士課程在籍中にアルバイト感覚で気軽に務めることができるものだったそうだが、今では経験者だけしか募集していないことが多い。経験者に限る、などと言われても、その経験をどこで積めばいいのだ、という話だ。この「最初の非常勤問題」は昨今の大学院生にとって深刻なものである。

 諏訪路に説明された研究助手制度なるものは、そんな、人文系大学院生の将来への不安をすべて解消してくれる、魔法の椅子のようなものである。


 ――んんー? わざわざ呼ばれたってことは、もしかして?


 もしかして、自分がその研究助手とやらにしてもらえるということなのか、と期待してしまう。当然だろう。

 鏡子は改めて、手元の湯飲みから立ちのぼる爽やかなお茶の香りを意識した。

 話はやや脱線する。

「これは、二〇〇六年から始まった全学対象の制度でね。予算は大学本部から降りる。文学研究科じゃないんだ。

 どの研究科が選ばれるかは、ま、持ち回りでね。一昨年は政治学研究科、昨年は工学研究科だった。今年、二〇一一年度は、元々文学研究科のはずだったんだが、いやはや難航したよ。ほら、震災があったからさ」

 一ヶ月前に東北で起きた大震災と原発事故のことは、記憶に新しいどころではない。阪神大震災以来の未曾有の大惨事として、今も毎日、テレビや新聞、ネット上で騒がれている。

 だがいまは、震災の話はどうでもいい。研究助手の話が気にかかる。

「工学研究科がごねてねえ。震災への反省と未来への貢献のため、とか言い出してね。研究助手は、自分ところの地球科学学科に譲れ、と来たもんだ。よく知らないけど、地球科学学科ってところは地震の研究もやってるんだって?

 やはり文学研究科は舐められてるんだろうなあ。二年連続で取ろうなんて工学研究科は図々しいにもほどがあるよ。さすがに、執行部で否決されたね。震災を言い訳にすればなんでも通ると思ったら大間違いさ」


 んん? とまたも疑問が生じる。


「あの、今お聞きした話だと、その研究助手というのは、うちの学科じゃなくて大学院全体に一つ、ということみたいですが?」

 ああ、とうなづき、諏訪路は説明を付け加えた。

「うん、そうだよ。大学執行部は、研究科に予算を下ろして終わり。研究科の中のどの学科が取るかは、研究科内で決めていいんだ。佐富さとみくんががんばってくれたようでね、結局うちの学科に落ち着いた」


 はあはあ、と納得する。

 佐富というのは、日本文学学科の学科主任を務めている教授で、表象文化専修コース担当。やり手、切れ者、と評判らしい。論文や著書の数といった学問的業績もさることながら、学内行政の手腕、政治力に長けているともっぱらの評判だ。諏訪路とは学生時代からの長いつきあいだという。


「その、それで、僕が呼ばれたのは……」

 鏡子が女性なのに「僕」という一人称を使うのは、二十三歳になっても直らない、中学校時代以来の癖である。ネット上では、オタク系サブカル系女子を中心に、それほど珍しくない「僕っ子」だが、リアルで使っているとやはり「変だ」と「オタクっぽい」と笑われることが多い。諏訪路にはこれまで、そのことを格別に指摘されたことがないので、彼の前では遠慮なく使うことにしている。


「うん、うちの研究室からは、君を候補に推薦することにしたんだ。どうだろう、やってみないかい?」


 予想は半ばあたり、半ば外れた。

 なるほど、無条件でそんな好待遇が得られるほど甘くはないらしい。

 やってみないかい、ということは。何かハードルがあるということだ。


「他の研究室からも候補が出るってことですか、ふむふむ。お受けしますよ、もちろん。それで、何をすればいいんですか? 論文か発表か……」

 柔和そうな目を細めて、諏訪路は大きくうなずいた。

「まず論文を書きたまえ。

 十二月に審査会が開かれる。論文はそこで口頭発表をしてもらう。簡単な質疑応答があって、それから選考会。選考委員は、うちの学科の先生全員。他に、大学本部と文学研究科の執行部からも二、三人入るけども、基本的に門外漢だからね。ほとんど私たちで審査するようなものだな。

 まだ八ヶ月もあるから、大丈夫だよね?」

「ははあ。でもいいんですか? 僕で。僕はまだマスター……M2になったばかりですよ? ドクターの先輩たちの中には、既にたくさん論文書いてる方もいらっしゃいますが」

 と今さらな質問。


 鏡子はまだ修士号も持っていない。

 学位は持っていなくても、博士課程前期、つまり修士課程に在籍する学生はマスター、後期課程に在籍する学生はドクター、と通称されるのが一般的である。

「うんうん。基本的にはD1以上の子を推すんだけど、できるだけ若くて優秀な人を、というのが制度の趣旨だからね。ほら、えーと。君は昨年、『近代國文きんだいこくぶん』に論文が載ったじゃないか。M2で査読付き論文の業績持ってる子なんてそうそういないからねえ。インパクトファクター込みで君を選んだんだ」


 マスターの学生は、一年目で所定の卒業単位を取り切り、二年目は修論に集中するのが通例である。だから一年目は授業に追われて、自分の論文を書く時間がとれないのが普通だ。その環境で論文を書いた鏡子は、ちょっと異例である。

 書き上がったその論文を権威ある学会誌に投稿してみたところ、無事査読をパスして掲載された。鏡子自身としては、かなりの僥倖、ラッキーなことだと思っていたが、教授からこうも評価されると悪い気はしない。


「そういうことなら。一つ、やってみます。でも修論はどうしましょう?」

 断る理由はなにもない。当然、受けるべき話だ。しかし、年内に大物の論文を二本、ということになるとけっこうきつい。

 ああ、心配しなくていいよ、と諏訪路は手をひらひらと振る。

「修論と兼ねてもらってかまわない。学位論文ではいかん、という規定はないからさ。ただし、見事選ばれたら、その論文は公刊されるからそのつもりでね」


「公刊、ですか」

 本にして出版されるということだ。

 通常、修士論文は、博士論文と違って公刊などされないし業績としてもカウントされない。大学内に保管されるだけの、非公開の性質のもので、その点では学士論文と変わりがない。だが出版されれば、立派な業績となる。

 つまりこれは、「修論代わりであっても、公刊に値するものを書いてね」というクオリティの要求なのだ。

 さらに気持ちが引き締まる。

「がんばってくれたまえ。教え子が研究助手を取ってくれると、私も鼻が高い」

 と諏訪路は笑う。



 話はそれだけではなかった。

 しばらく、論文のテーマについて簡単な打ち合わせをして、話が一区切りついたところで、諏訪路はこほんと咳払いを一つした。

「あのね、錫黄くん」

「まだ何かありますか?」


 鏡子はそわそわと壁にかけられた時計を見る。もうすぐ四時半になる。

 できれば、退室させて欲しい。


「うん。ちょっと、別件でね。折り入ってお願いがある」

 一瞬、諏訪路は陰鬱そうな表情を見せた。

 落ち着かない様子で立ち上がり、ファィルを一つ取って戻ってくる。

 そして鏡子が予想もしなかった言葉を発した。


「他所の先生から聞いたんだけど。君、『探偵ごっこ』が得意なんだって? 捜し物とか、身上調査とか。一部では『文学部の名探偵』なんて呼ばれてるそうじゃないか」


 うわわ、と鏡子はソファからずり落ちそうになった。

 なぜ諏訪路先生がそれを知っているのだ。


「や、ややややや、それはただ、ちょっとした遊びといいますか、知人からの悩み事の相談に乗ったりしただけですよ、はい」

 わずかに口元を緩めて、諏訪路は微笑んだ。

「そう謙遜しなくてもいいよ。お手柄がいろいろあることは聞いている。法科大学院のストーカー事件やら、文学部の盗撮事件やら。どれも君のおかげで秘密裏に解決できたそうじゃないか。

 探偵小説研究のフィールドワーク、といったところかね? 『近代國分』に載った論文も、昭和のミステリ作家の系譜を扱ったものだった……『共有される〈謎〉の源泉 松涛しょうとう武夫と横溝正史』だっけね」

 ネタは上がっているのだ、と言わんばかりだ。

「うぐぐ……ま、まあそんなところです」


 錫黄鏡子。ごくごく地味な、ぼっち気味の文学研究科の女子院生とみえてその正体は……というほどのものでもないが。鏡子は、実は学内の一部で「なんでも解決してくれる名探偵(もしくは便利屋)」として密かな名声を博しており、一時は次から次へと秘密の依頼が持ち込まれていた。大方は学生同士の色恋沙汰に絡んだくだらないものだったが、時には先生方にも知られるほどの、学内を騒がす怪事件を解決したこともある。

 もっとも、鏡子自身はもう探偵の真似事からは足を洗って研究活動に専念するつもりで、新しい依頼は全て断っている。


「その実績を見込んで、一つお願いしたい。恩に着せるつもりはないが……ほら、研究助手の候補に推薦してあげたわけだし」


 それは十分恩に着せた言い方ですよ、先生!


 と喉元まで言葉が出かかったが、ぐっとこらえる。

 駆け引きにはおよそ無縁な、学生に優しいだけが取り柄の先生だと思っていたが、こんな断りにくい頼み方をしてくるとは。やはり大人というのは甘くないもんだ、と鏡子は嘆息する。

 だがしかし、そこまで悪い話でもない。

 依頼の内容次第だが、その程度のことで学費免除+給料支給+将来のポスト、という素晴らしい未来に手が届くのなら、安いものだとも思えた。


 諏訪路は、鏡子が承知したものとみなしたようだった。

 ファィルがすっと差し出される。

「何を頼みたいか、もう予想がついてるんじゃないかな。四月になってから、うちの研究室に、しょっちゅう怪文書が置かれている。そろそろ三週間になるだろう?」

「へえ、そんなことがあったんですね」

「あれ? 君はこの件知らないのかね。ほとんど毎日のことなんだか……。研究室の誰かから聞いてないかい?」

 さーせん、ぼっちなもんで。

 と心の中で呟きつつ、鏡子は首を振る。

「そうかね。まあ詳しいことは、研究室で誰かつかまえて聞いてくれたまえ。怪文書の現物はこのファイルの中」

 はあはあ、と手に取る。

「つまりは、その出所を突き止めて欲しいんだ。あるいは怪文書が止まれば、それでいい」

 ファイルの中に重ねられていた、数枚の黒い紙をめくる手を止めて、鏡子は少し黙った。


 窓の外の、うららかな新緑の山々に目を向ける。

「ああ、なるほど。先生は、この件は研究室内部の人がやったのだと、考えてらっしゃるんですね」

 諏訪路は軽く拍手する真似をした。

「さすが! 察しがいいね! そうなんだよ。もちろん、研究棟の警備は形だけのものだから、部外者が棟内に入ることはいくらでも可能だ。研究室だってそうだ。施錠されることは閉館までない。だがね、今のところ、誰もその怪文書が置かれる現場を見た者はいないんだ。研究室にはたいてい誰かがいるから、うちの子たちと一度くらい鉢合わせててもおかしくないはずだよ」

「だけどそんな部外者の目撃情報はない、ということですね」

「うん、そうなんだ。しかし、うちの研究室の子を一人ずつ問い詰めるようなわけにもいかないし。私が研究室内部の人間を疑っていると知れたら、みんなだって嫌だろう」

 ふうん、と鏡子は首をひねる。

 先生が言うように、犯人を近代研究室だけに限る必然性はないなあ、と判断している。しかし一方で、外部の不審者が入ることも難しいだろう、とも。


 研究室のある、研究科棟三階フロアは、いたってシンプルな作りだ。階段とエレベーターのあるホールから廊下が一本あって、片側が窓、反対側に研究室のドアが八つ並んでる。廊下の奥は行き止まりで、自販機コーナーとトイレがある。近代専修コース室は、廊下のちょうど真ん中。

 ドアの上半分はガラス張りになっているので、在室状況は廊下から一目でわかる。ここにカーテンを吊したりすることは禁止されている。研究室のドアに日中鍵をかることも禁止。夜十時の閉館時間に、警備員がまとめて施錠しに来る。これは事務局からの指示で、近年特に徹底させられている利用ルールだ。密室状況を作るとアカハラやセクハラの温床になりやすいから、というのがその理由である。

 このような状況なので、部屋が無人であるかどうかを見はからって入室することは、誰でも可能だ。

 しかし、フロアを外部の不審者がうろつくことは考えにくい。

 第一に、フロア全体が無人になる時間は、まずない。

 各研究室の間での人の出入りは多く、所属する学生たちは互いに顔見知りだ。授業で一緒になることもあるし、特に用がなくとも遊びに来る者もいる。廊下やトイレ、自販機コーナーでも顔を合わせる。ぼっちの鏡子でさえ、同フロアの人間なら、顔だけは大体わかる。新入生も含めて、だ。

 四月頭にフロアの研究室合同で歓迎会が開かれていて、新人の顔も大体知れ渡っている。大した人数ではない。八個の研究室をあわせても、新人は六十人程度。

 その上、今年から、「在籍生は積極的に新入生に声をかけよう」という運動が教員らの指示で実施されている。防犯のためと、新人のメンタルケアを兼ねた取り組みなのだそうだ。後輩に話しかける気などさらさらない鏡子は無視を決め込んでいるが、影響がないでもない。あまり顔の知られていない鏡子も、ときどき新人と間違われて、廊下や自販機コーナーで話しかけられてしまうのだ。「やあやあ、お名前は? 誰先生についてるの? どこの研究室?」とうざいことこの上ない、迷惑な運動である。


 ――うざったい取り組みだと思っていたが、確かに防犯効果は高いナ。犯人は同フロア内の人間、というところまでは絞り込んでいいのかな? 

 いやいや、外部犯の可能性は、まだ捨てられない、と鏡子は首をふる。


「はあはあ。先生のご心配ももっともですね」

 教授の言葉にあたりさわりなく同意しておき、とりあえず怪文書の文面を読む。

 怪文書は、A4サイズで、真っ黒な紙に白抜き文字で印刷されている素っ気ないものだった。一枚ずつに日付の入った付箋が貼られている。これは諏訪路が付けたものだろう。内容は毎回同じ。諏訪路への警告とも脅迫ともとれる文面だ。

 

 くだらない御本の出版なんかおやめなさい。

 大恥をかくことになりますよ。

 ご自分の不明と、身の程を知って、さっさと後進に席を譲られたらいい。

 あなたの三十年は無為でした。

                  

「この、御本、というのは? 先生、何か出されるんですか?」

 よくぞ聞いてくれた、と諏訪路は大きくうなずいた。

「そうなんだよ! 六月に、大学の出版局から一冊、一般向けの本を出すんだ。私の初の単著なんだよ!」


 あれれっ!

 大学教員歴三十年近くにして、初の単著とは。

 それまで一冊も本出してないってことか?


 意外すぎる事実だった。それはおめでとうございます、と口の中でもごもご言って下を向き、お茶をもう一杯入れた。とても失礼な顔をしてしまいそうだったので、それを誤魔化すために。

 そういえば諏訪路先生名義の本て、図書館でも研究室でも見たことなかったなあ、と今さらのように思い返す。


「五年前から出版局をせっついていたのが、やっと実現したんだ。それなのに、誰かがこんなビラを撒いてケチをつけようとしてる。ああ、本の内容が事件の参考になるかもしれないよね? 印刷したものを用意してあるよ、もちろん」

 とこれまたデスクの上に置かれていた、分厚い大型封筒を手渡される。

「君の論文に使える部分もあるんじゃないかね? 家でじっくり読んでくれたまえ」

「は、はあ……」

 諏訪路の顔に得意げな笑みが浮かんでいる。怪文書の件はさておき、自著の原稿を読んで欲しくてたまらないのだ、と察せられる。


 ――使う、ったって、どこに使うのさ。


 諏訪路の研究対象は大正期、鏡子は昭和中期。ちょっと接点がない。

 受け取ったものの、鏡子は中身を見ようともしなかった。


「どうもありがとうございます。……ところで先生がこの本を出すと、何か不都合がある人がいるんですかね?」

 鏡子は首をひねる。

「……さあなあ。見当がつかないなあ」

 と教授も首をひねる。

 一瞬、教授の目が泳いだのを鏡子は見逃していない。この言葉をうのみにはしないが、追及もしない。必要がない、と判断した。

 すでに、鏡子の中では解決策が立っている。

 そんなことより、時間がないのだ。

 時計の針は四時半にさしかかっている。

 急がねばならない。


 早くしないと、文書館が閉まってしまう!


 毎週金曜日には、出版局付属文書館に行くことにしている。毎週この曜日、それも閉館間際でなければならないのだ。しかし閉まってしまったら、意味がない。


 ごくごく私的な用事だが、これは鏡子にとってきわめて重要なのである――研究助手の話も頭から吹っ飛ぶくらいに重要である。怪文書の件など、すでに鏡子にとっては解決したも同然なので、吹っ飛ぶどころかすでに頭から消失している。


「そろそろ、僕は予定があるので、ここらで失礼します。怪文書の件は、まあ。微力を尽くしますよ」

「え、もういいのかい? まだ聞きたいこととかあるんじゃないかね?」

 諏訪路は目を見開いた。


「ないです」


 さっとキャスケットを頭に乗せて、鏡子は立ち上がる。

 諏訪路はまだ話し足りない様子だ。

「そうなのかい、では頼むよ。えーと、今はいろいろ……そう、いろいろ難しい時期なんだ。なるたけ、穏便に、研究室内に波風立てずに静かに解決してくれたまえよ」

 心配そうな顔で念を押す。


 難しい時期。

 どういうことなのかな。


 疑問を心の中に記録する。

 だがそれより今は、時間が惜しい。

「ええ、ええ、やってみます。研究助手の推薦、ありがとうございました。それではっ」

 怪文書のファイルを手早く原稿の封筒に突っ込んで小脇に抱え、鏡子は教授室から飛び出した。

  

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