エピローグ 平成二十X年~ ばけものづくりの行方
16
その日、僕はぬらりひょんと出会った。
高校の授業が終わり、最寄り駅まで歩いていると、後頭部の長い、和服を着た老人がふらふらと歩いているのが目に入った。
他の生徒や通行人には見えていない。僕だけが視認出来る、訳のわからないもの。
妖怪――そう呼称すると途端に馬鹿らしくなるが、それしか呼び表す言葉がない。
僕には妖怪が見える。他の人には見えない。
そこには、厳然たる隔たりがある。
なので妖怪に接することは極力避けるようにしている。何もないところに向かって喋っていたり、下手をすれば注視しているだけでさえ、他人の目には奇異に映る。
僕は他人とは違うことを自覚はしているが、普通の生活を求めていた。普通に学校に通って、普通に就職して、普通に年を取って、普通に死ぬ。仮令他人と違うものが見えたとしても、それを吹聴することはしないし、ましてや生業にしようなどという馬鹿げたことは絶対に思わない。
なのでいつも通り関わらないようにしようとそちらを見ないように歩く。
ところが、その老人――ぬらりひょんの方が僕に気付いてしまった。
本来人間には見えないはずのぬらりひょんの姿を一瞬でも捉えたことは、ぬらりひょんにとっても予想外のことだったらしい。
ぬらりひょんは僕目指して駆け寄ってくる。僕は目を逸らして逃げ出そうとするが、周囲の人間が歩いている中駆け出す訳にもいかない。結局早足で人ごみに紛れようとしただけで、簡単にぬらりひょんに捕まってしまった。
肩を掴まれるが、無視してさっさと駅の構内に入ろうと前に進む。
だが、ぬらりひょんの力は予想以上に強かった。振り払うことが出来ずに、僕はその場に立ち止まるしかなくなった。
周りがみんな駅に向かって歩いていく中、立ち止まればいやでも目につく。僕は仕方なく他の人には聞こえないように小声でぬらりひょんに話しかける。
「離してくれないか。君の相手をする気はない」
だが、ぬらりひょんは手を離さない。もしかするとこのまま取り殺されるとかではないだろうな、と少し不安になる。僕は妖怪を見ることが出来るが、ただ見えるだけで詳しくはない。確かぬらりひょんは妖怪の総大将とかじゃなっかったか――と人並みの知識しか持ち合わせていないから、どう対処すればいいのかなどわかるはずもない。
これまでの人生で学んだことは、無視と見ないふりである。何があろうとそれを押し通せば、大抵の妖怪は無力化出来る。だが、今回は向こうから明確に接触してきている。こうなってしまった以上、何とか話をつけて振り払わなければならない。
「わたしは? ぼくは? おれは? わしは? なんなんだ?」
ぬらりひょんはそう言って僕を見つめる。自分でも訳がかわらないような口振りだが、それを聞かされる僕としてはもっと訳がわからない。
このままではずっとこの場所に立ち尽くすことになると判断した僕は、ぬらりひょんに話を聞いてやるからと言って、駅までの道を外れて路地裏に入った。ここなら人目もないから話をしても大丈夫だろう。本当はここに来るまでの途中で隙を見て逃げようと思っていたのだが、ぬらりひょんは僕の肩から全く手を離さず、そちらの作戦は失敗に終わった。
さて、と僕はぬらりひょんに向き合う。
「まず、僕が君を視認して話が出来るからといって高望みはしないでくれ。僕はただ見えるだけだ。君が何かなんて知ったことじゃない」
「わたし……ぼく……おれ……わし……は……」
「『わし』でいいよ。それが一番合ってる」
口を開く度に一人称で迷っていられては敵わない。
「わ、わしは、自分が何なのか、わからないのだ」
「だから、そんなことを僕に言われても困るんだよ」
帰っていいかい――ぬらりひょんはもう僕の肩から手を離していたので、逃げ出そうかと足を一歩前に出す。
「ま、待て。待ってくれ。いや、その、わしが何かということは、わかっておるのだ。重々承知している」
言っている意味がわからずに僕は首を傾げる。
「今一番一般的に言われているのは、わしが妖怪の総大将だということだ」
それは僕も聞いたことがある。
「だが、これは違う。間違いなのだ。『妖怪畫談全集 日本篇 上』に書かれた『妖怪の親玉』という一文が広まり、さらにはアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』第三期で妖怪の総大将として登場したことで世間に広まった。だが『妖怪畫談全集』は昭和四年刊行で、『妖怪の親玉』というのも完全に創作なのだ」
さらに、とぬらりひょんは話し続ける。
「それに付け加えるか、ある時は否定する時に言われる『家に上がり込んで飲み食いをする』というのも、そのさらに後、昭和四十七年の『いちばんくわしい日本妖怪図鑑』で出た設定で、これも創作だ」
僕は、完全に混乱していた。
妖怪というものは、昔から自然にいるものだと、僕は認識していた。妖怪達もそうして振る舞っているように見えたし、そもそも妖怪という言葉自体の持つ雰囲気のようなものは、過去からの流れを感じさせるように思う。
それが、このぬらりひょんはどうだ。
自分が書かれた文献を語り、自分の性質を『設定』と言いのける。『創作』とも言った。まるで、自分が創作物だとでも言うような口振りだ。
「君は一体何を言っているんだ?」
混乱した中、僕はそうぬらりひょんに訊ねる。
「わしにもわからんのだ。ただ、わかることは、わしという妖怪が『妖怪の総大将』でも、『家に上がり込んで飲み食いをする妖怪』でもないということだ。つまり、わしは、わしが何なのか、まるでわからんのだ」
「いや、待ってくれよ。訳がわからないのは僕の方だ。今まで接触してきた妖怪達は、君のように自分自身のことを『設定』だなんて言わないし、自分の出自を語ることもなかった。妖怪は――妖怪として生きていたんだ」
「わしもそうありたい。出来れば、今否定した設定に則って……。だが、わしは何故か自らの設定の誤謬を知って、ここにある」
「ふざけてる――これじゃあまるで僕の世界観の否定だ!」
僕が思わず声を荒らげると、小さい含み笑いが路地裏の奥から聞こえた。
「誰かいるのか……?」
「いや、失礼。久しぶりに見鬼を見つけたと思ったら、何やら面白いことになっているようだったからね」
路地裏は薄暗いが、殆ど直線に伸びているので奥まで見通せる。だから路地裏に誰の姿もないことは確かだった。
だが、その男は闇の中から薄明かりの中に出てくるかのように、徐々に輪郭を濃くしながら現れた。本当はこの路地の先は真っ暗で、そこから顔を出したと錯覚する程自然で、妖しい現れ方だった。
男は、どれだけ見ても年齢がまるでわからない顔と服と身のこなしをしていた。穏やかな笑みを浮かべて、僕の目を覗いている。思わず見つめ返すが、すぐにはっとして目を逸らした。男の目はまるで深淵を覗き込んだかのように底が知れないのだ。
「こんにちは。君はその目で私をどう見立てる?」
「――妖怪、でしょう」
僕が言うと、男は満足げに頷いた。あの尋常ではない現れ方から察せられる答えは――今の僕には――それ一つだ。
「そう、妖怪だ。今は
「神野悪五郎?」
「マイナーだからね。その分融通も利く。その様子だと稲生物怪録も知らないね」
知らないので頷く。
「まあ、見鬼は得てして本当の妖怪に疎いものだ。自分の見るものが真実だと割り切らなければ立ち行かないからね」
「それは、どういう意味……」
男――神野は笑って、思いつめた表情の僕を一旦落ち着かせる。
「そうだなあ、
神野は僕をあの底の知れない目で見つめる。僕がどぎまぎするのを見て微笑し、紙と書く物を持っているかい――と訊いてきた。
僕は鞄の中からルーズリーフとシャーペンを取り出して神野に渡す。神野は滑らかな手の動きでルーズリーフに何かを書くと、二つに折り畳んで僕に手渡した。
「そこに書かれた場所に行くといい。今の私は妖怪という立場上あまり多くは言えないから、そこの主人が詳しく話してくれるだろう」
神野は右手を小粋に挙げて、路地の奥へと歩いていった。途中で闇に溶けるように姿が消えたが、僕はもう驚くことはなかった。
ぬらりひょんは、相も変わらず僕を見つめている。まだ僕を解放する気はないらしい。連れ立って行くしかなさそうだ。
ルーズリーフを広げ、僕は思わず唸った。そこには住所は疎か、地図の一つも書かれていなかったのである。
『君の見る世界と現の世界のあわい 汚い荒ら家 すぐに見つかる』
これだけしか書かれていない。こんな訳のわからないヒントにもならないようなヒントを出しておいて、『すぐに見つかる』といかにも簡単そうに締めくくられているのがまた腹立たしい。
仕方なく、僕はぬらりひょんと一緒に路地裏を出て汚い荒ら家というものを探しに出る。『すぐに見つかる』などと書いたのだから、この近くにあるということだろう。
僕の見る世界には、いつだって何か余計なものが映り込む。僕はそれを十把一絡げにして妖怪と呼んでいる訳だが、神野はまるでそれが本当ではないような言い方をした。
僕だって自分の正気を疑ったことはある。精神がいかれているからこんな変なモノを見るのかもしれない、と。だが、僕の目に映るモノ達は物心つく前からずっと存在していた。そうなると、自分の頭を疑うことは即ち僕が生来の狂人であると認めることになる。
それに気付いてからは、もう自分を疑うのはやめた。疑念を完全に捨てた訳ではない。ただ、あるものはあるものとして受け入れ、受け流すことに決めたのだ。
何が現の世界だ。僕は夢を見ている訳ではない。僕にとっての現実はどうしたってこのあやふやな世界でしかない。
ふと、目の前を猫が横切った。疾走するその身体から伸びる尻尾は大きく揺れている。
「二本……?」
ぐっと目を凝らす。猫の尻尾が二つに裂けているように見えたからだ。
「あ! にゃんこ!」
同じ高校の制服を着た女子生徒が、走っていく猫を見て声を上げる。
――見えるのか?
だがいやでも目立つぬらりひょんには気付いていない。
尾が二つに裂けていれば、それは猫又――妖怪である。これまでにも何度か見かけたことはあるし、話をしたこともある。ならば普通の人間には見えないものなのではないか。しかしあの女子はしっかりと猫の姿を視認している。ぬらりひょんが見えないのだから、僕の同類という訳ではない。
幅は広いが交通量の少ないこの高校前の道路、僕の反対車線側で猫は動きを止めた。顔をこちらに向け、にんまりと笑ったような顔を作る。尻尾は下げており、こちらから二本かどうかを見定めることは出来ない。
猫又だとすれば、それは僕の見る世界の領分。猫として見るなら、現の世界の領分。
なるほどこの猫はあわいを漂っている。僕が猫を見つめると、くいと顔を曲げて歩き出す。
ついてこい――そう言っているのだ。
僕は駆け足で猫を追った。猫は僕を撒かないペースで前を歩いていく。
学校前の通りから外れ、先程の路地裏よりも汚く薄暗い道に入る。年季の入った家が並び、古い家特有のすえたような臭いが漂っている。
猫はその中でもとりわけ汚い建物の前で立ち止まった。戦後のバラック小屋のような有様で、トタンが壁や屋根になっている。いくら周りが古い家ばかりだといっても、ここまで酷いものはこれだけだった。
その小屋の前に向かうと、軒下に木の札が下げられ、線の細いゴシック体で「白沢庵」と書かれている。
庵と呼ぶのは憚られる程に酷い荒ら家だが、どうもここが神野が僕に教えようとした場所だとわかった。『汚い荒ら家』という言葉がその字面以上に合致している。
玄関にはドアも何もなく、開きっ放しになっている。僕をここまで案内した猫はもう中に入ったらしい。中は暗く、外から様子を窺うことは出来ない。
僕は一度ぬらりひょんに目をやって、中に入るとことを確認し合う。
ぬらりひょんが頷くと、僕は意を決して荒ら家に踏み込んだ。
狭い三和土と同じ高さに畳が敷かれている。三和土はコンクリートで固められているので、この小屋が建つ地面は全てコンクリートで固められ、その上にただ畳を敷いただけなのだろうとわかる。
畳は四枚で、この空間全てをカバー出来ていた。つまり四畳と三和土の分少しが、この荒ら家の総面積という訳だ。
電灯らしいものはなく、窓もないので暗い。開け放たれた玄関とトタンの隙間から差し込む光だけが光源だった。
そして、その狭い小屋の中央に、小さなノートパソコンが一つ置かれていた。画面は開かれてこちらを向いており、黒い画面に「いらっしゃいませ」という文字が横に流れるというスクリーンセーバーが表示されている。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声がして、僕は思わずびくりと身体を震わす。最初に中に入った時点で人はいないとばかり思っていたからである。
だが、暗い小屋の隅に、それはいた。
服装は僕と同じようなブレザー姿なので、高校生なのかもしれない。だが近隣の高校でこれと同じ制服は見かけたことがない。
顔を見るに年も僕と同じくらいだろう。にこにこと微笑みながら正座している。
「どうぞ、汚いところですがお上がりください」
年もそう変わらないのに馬鹿丁寧な口調で言う。
僕は靴を脱いで畳の上に上がる。ぬらりひょんも同じく畳に上がるが、少年はそちらに視線を向けることはなかった。
「君には見えないのか?」
僕が畳の上に腰を下ろしながらぬらりひょんを指差して言うと、少年は一度首を傾げ、得心したようにああと頷いた。
「見鬼でいらっしゃるのですね。残念ながら手前は『見る』ことが出来ません」
「その、『見鬼』というのはどういう意味なんだ?」
まずは手近の疑問から解決しようと、既に自分の中で半分解決している問いを訊ねる。
「
僕の予想は的中していた。これまでの話の文脈からわかっていたことだが、きちんと答えてもらったことですっきりとする。
「君は、えっと――」
「手前のことはどうぞ白沢庵とお呼びください」
そう言って少年――白沢庵は笑った。
「神野悪五郎という妖怪が、ここに来れば話をしてくれると言った」
「ほう、神野悪五郎でございますか」
白沢庵は笑みを崩さない。
「稲生物怪録という江戸時代の怪異談がありまして、それは広島の武士稲生平太郎がひと月の間連日怪異に見舞われるという話でございます。その最後の怪異として現れる魔王を、
流暢に語り、白沢庵はやはり笑顔のままだった。
「いや、悪いけど訊きたいのはそっちじゃないんだ。今、僕の隣にはぬらりひょんがいる」
「ほう、ぬらりひょん」
気を悪くする様子は微塵もなく、むしろ興味を持ったような口振りだ。
先程のように白沢庵がぬらりひょんについて説明を始める前に、僕は断りを入れる。
「ぬらりひょんについては、このぬらりひょんが僕に教えてくれた。ぬらりひょんは、自分の――その、設定について知っていた。僕はこんな妖怪に会ったのは初めてだ」
「設定と言いますと、妖怪の総大将というものでございますか? それとも――」
僕はぬらりひょんの語った設定について、覚えていない詳しい単語を抜きに白沢庵に伝えた。
「これはこれは……面白いことになっておりますね」
白沢庵は実に愉快げに顔を緩ませる。
「ちょっと待ってくれないか。僕は全く訳がわからないんだ。妖怪がこんなことを言い出すなんて、今までなかった。しかも自分を創作物だとでも言いたげな調子だ。妖怪というものは、そんなものじゃないだろう?」
白沢庵は呆れたように口を半開きにしたま首を傾げる。
「妖怪はみんな創作でございますよ」
「はあああ?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。
白沢庵はおっといけないと頭を掻いて、僕を落ち着かせる。
「いや、失礼いたしました。お客様が見鬼ということをすっかり忘れて、いつもの調子でついつい。しかし、神野悪五郎がここに案内したということは、お客様に全てを話せということでございましょうか」
僕は眩暈がする心地だった。僕がこれまで見てきた、信じてきた世界が根底から覆される。そんな恐怖がすぐそこまで迫ってきている。
「お客様? ああいけない」
白沢庵は僕の真っ青な顔を見て不安げに眉を寄せる。
「なるほど――ぬらりひょん、君の気持ちがよくわかるよ」
僕はくらくらとする頭をがくりと前に垂らして、隣に座るぬらりひょんに言った。それが白沢庵にどう受け止められようとも気にしない。
「僕はもう、自分がわからなくなりそうだ。君もそうなんだろう? 要らぬ知識を入れられてしまったために、自分が破綻していく」
「いや、そこから助かる方法はある」
ぬらりひょんは言う。
「全てを受け止め、受け入れろ。その男の言葉は悪魔の囁きかもしれん。それはお前を破滅へと導くかもしれん。だが、本来あるべき形を知ることは、世界の見方を変える。結果がどうなろうと、お前はわしに出会ったことでその権利を手にしたのだ」
僕はゆっくりと顔を上げ、難しい表情のぬらりひょんに目配せをしてから、微笑みを湛えた白沢庵の顔をじっと見つめる。
「わかったよ。じゃあ――話してもらおうか、白沢庵」
僕が腰を据えたのをすかすように笑って、白沢庵は口を開く。
「そうでございますねぇ、まず覚えておいていただきたいのは、妖怪という字は妖しく怪しいと書くということでございます。ダブルであやしいという訳でございますから、それを規定するのは本来道理から外れたことなのでございます。妖怪はもっと曖昧であやふやなものでいいのです。それでも妖怪というものはどの方面からアプローチしてもある程度の答えは返ってきますが、それは無数にある側面の一つを見たことにしかならないものなのです。なのでこれから手前のいたします話も、一つのものの見方、一方から見た側面の一つと思っていただければ幸いでございます」
僕の見る妖怪は変わらない――そう思っていた。妖怪はいつだって僕のすぐ近くにいて、ある時は遊び、ある時は騒ぎ、ある時は牙を剥いた。
だが今僕の隣にいるぬらりひょんは、僕の認識から外れた妖怪だ。こいつが現れたことで、僕の中の世界観は否定された。
そして全てを知ったような口振りで語る白沢庵。この男の言葉を受け止め、受け入れた時、僕はどうなってしまうのか――わずかな恐怖に、小さく身震いする。
「妖怪は、いつ頃生まれたと思いますか?」
白沢庵はそう僕に訊いてくる。
「それは、すごく昔なんじゃないのか? 妖怪は古いものだろう」
「どの程度だと思われます?」
「僕は歴史が得意じゃないからよくはわからないけど……平安時代くらい?」
白沢庵は愉快げに口元を緩ませている。
「江戸時代になっても、妖怪は生まれておりません」
「は?」
僕が思わず声を上げると、いや失礼いたしました――と白沢庵は笑う。
「この場合の妖怪は、現在の人々が使う『妖怪』という単語――と言った方がいいですね。妖怪という言葉が現在の意味になったのは、昭和に入ってからなのでございます。それまでも妖怪という単語はあるにはあったのですが、それは事象や存在のことを纏めて言ったものでございました。今の方達は妖怪と聞いてキャラクターを想起いたしますでしょう」
確かに、僕が思う妖怪とは存在しているものだ。
「ですが以前は――民俗学の世界では今でもですが――事象のことも妖怪と呼んでいたのでございます。例えばスナカケババという妖怪が
まあしかし、と白沢庵は一度言葉を切って笑う。
「江戸時代では『化物』という単語が機能しておりました。草双紙や黄表紙――江戸時代の漫画のようなものでございますね――、それらなどに登場する馬鹿げたキャラクターを化物と呼んでいたのでございます。ただ勘違いされる方もおられるのですが、江戸時代の人々は化物など信じておりませんでした。『野暮と化物は箱根から先』などということわざが広まるくらい、化物はいないものと思われていたのでございます」
さて――白沢庵はにっこりと笑顔を僕に向ける。僕は緊張した面持ちのまま白沢庵の言葉を待つ。
「化物――妖怪は存在しないと決められた上で草双紙や黄表紙、双六やカルタといったおもちゃ、『画図百鬼夜行』に代表される妖怪図鑑に縦横無尽に登場します。そこで生まれるのは、妖怪という存在に対する共通の想念でございます。この妖怪はこういう妖怪だ――そうした想念が世間の中で一定の一致をみるとどうなるか」
生まれるのございますよ――底意地の悪そうな笑みを浮かべ、白沢庵は言う。
「うず高く積った思念が同じ像となれば、嘘も実になるのでございます。その存在の基盤となるのは、妖怪がいるいないを関係なく楽しむことが出来る人々――想像者と呼ばれる人々でございます」
像を想う者――。
「とは言いましても、想像者だけで全てが決する訳では当然ありません。世間で認識される妖怪を規定するには想像者だけではない、妖怪に興味もない人々の想念が必要でございます。その結果生まれるのが今お客様が見ている妖怪なのでございます」
「つまり――僕の見る妖怪は皆、作り物だというのか?」
「作り物ですが、見えているものは確かな思念の結晶――厳然たる本物でございますよ。妖怪の方も、自分達が創作物だというような顔はいたしませんでしょう。実は作られたのは割合最近のものばかりだったりするのですが、昔からいるような顔をして存在しているものです。ですがどうも、そちらのぬらりひょんは事情が違うようでございますね」
ぬらりひょんは苦い顔をして俯いている。
このぬらりひょんが、僕の常識を打ち壊した元凶だ。白沢庵の話を聞いた今でもまだ気持ちの整理がついていない。
「妖怪を想像者を初めとする方達の思念の堆積によって生まれた存在といたしますが、そうして顕れた本来見えないはずのモノを見ることが出来る方がいる以上、妖怪は妖怪という設定に則って動きます。自らの設定や書物による出自を語る妖怪というものは、江戸時代の黄表紙などに見えますが、それはフィクションをフィクションとして楽しむためのお遊びの一つでございます。メタフィクションでございますね。
しかしこの世に顕れた妖怪は、見鬼の方や、時、場所、場合が揃った人の目に映ります。それを構成するのは勿論今まで語られてきた設定や書物による由来なのですが、妖怪はそんなことは知らぬとばかりに行動いたします。設定を内包していようと、自分からはその情報に直接触れようとはいたしません。そうでなけれれば、現実に妖怪が顕れることは出来ないからでございます」
想像者に見鬼はまずいない。
見鬼が想像者になってはならない。
そういうことかと僕は神野の言葉を噛み締めた。
恐らく、想像者というのは殆どが妖怪の存在を信じていない。江戸時代と同じだ。いないとわかった上で、妖怪を楽しむことが出来る。
だが、僕のような見鬼は妖怪を現実に認識する。いないと思って像を想った結果溢れ出したその非存在を、僕は存在へと変えてしまう。
両者の間は、あまりに遠い。少しでも互いの領域に足を踏み入れようものなら、互いに反発し合い衝突し合い糞味噌になるのがオチだ。
僕はその一端に足を踏み入れてしまった。いや、それよりもはるかに酷い、妖怪のカラクリを見せられた。
小さく、白沢庵が笑う。
「神野悪五郎も罪なお方でございますねえ。まあ、元を辿ればそのぬらりひょんがお客様の目に映ったことが、最大の厄介事なのでございましょうが」
白沢庵が今語った妖怪の行動原理から、このぬらりひょんは全く外れている。
何故こんなイレギュラーが顕れてしまったのか。白沢庵は未だにそこには触れていない。
そして僕は、いつの間にやら白沢庵の語った理屈の上で考えるようになっていた。
「世間は広うございます」
白沢庵は何かを懐かしむかのように視線を上に向ける。
「ですが当然、場所場所に閉じた世間は生まれるものでございます。つまりは、お客様の通う学校のみに限定される世間」
「そこに存在する想像者が、皆ぬらりひょんに確かな設定が存在しないことを知っていて、校内にそれを広めた――とか」
何者かが、白沢庵の言葉を引き継いで言う。バラック小屋の入口に、中肉中背の少年が立っていた。僕と同じ高校の制服を着ている。
「やあ、捜したよぬらりひょん。いるといるで邪魔だけど、いないといないで心配になるね」
小屋の中に入った少年は、まるで昔からの友人のようにぬらりひょんに話しかける。
いや、それより――
「見えている――のか?」
「うん。このぬらりひょんとは腐れ縁なんだ。ああ、でも僕は見鬼という訳じゃないみたいだよ。どちらかというと想像者に近いんじゃないかな」
「これは面白うございますね」
白沢庵は穏やかな笑みを浮かべたまま、ぬらりひょんの横に立つ少年をしげしげと眺める。
「
「うん、何が言いたいのかよくわからないね」
少年は間延びした声で白沢庵の言葉を撥ね返す。
「先のお言葉、確かに説得力はございますが、あまりに無茶だと言わざるを得ません」
少年が入ってきた時に言った、白沢庵の話の二の句のことだ。
「手前が思いますに、このぬらりひょんはあなた様が一人で思い描いたものを感得した結果顕現した――と思います」
「な――なら僕は、その人の妄想を見ているというのか」
「そうなるね。うん、見鬼は大変だ」
僕が言うと、少年は完全に他人事の体で答えた。
「だけど、普通はそんなことは起こり得ないんじゃないのかい。創造者だって、実際は自分一人で妖怪の像を定めることなんて出来ない」
「左様でございます」
少年の言葉に、白沢庵は満足げに頷く。
「ですが、もし、想像者の中から全てを引きずり出し、中身を空っぽにしてしまえば、その方のみが感得出来る妖怪が溢れ出すのではないでしょうか」
「うん、なるほど。それは一理あるね」
待ってくれと僕は二人を止める。
「一体何の話をしているんだ。このぬらりひょんが何なのか、君なら知っているんじゃないのか? 君のせいで僕がどんな思いをしたと思ってる」
「悪いけど、僕は何も知らないんだ」
「は? 何を言って――」
「僕はその人が言ったように、中身が空っぽなんだよ。だからぬらりひょんが何なのかなんて知らないし、自分自身のことだって何一つ知らないんだ」
そこで僕は気付いた。
「何者かの力が働いたのか、はたまた偶然か、とにかくすっぽりと抜けてしまわれた。その結果、抜け出た一人の想像が姿を成したという訳でございますね」
「そしてそれを確かめるすべも、何もないという訳だね」
それは当然だ。
少年には自分が誰かがわからない。過去も何もない。昔はあったのかもしれないが、今はない。
顔を見れば――わかる。
「君は――」
「うん。見ての通り。僕には何も残っちゃいないんだよ。だって――」
目がない。鼻がない。口がない。それはもう、見事な。
「のっぺらぼうだからね」
少年――のっぺらぼうは、そう言って笑った。表情というものは存在しないが、何故だか僕にはそれがわかった。
これ以上あれこれ考えるのは全くの無駄だろう。当人がのっぺらぼうで、顔と一緒に全てを失ってしまったのだから。
怪異はいつだって怪異だ。そこに理由を求めるのは人の性だが、気まぐれで身勝手で突然な怪異に理由を求めるという行為があまり意味を成さないというのを、僕は経験上知っている。
常識から外れたぬらりひょんが顕れたのも怪異。
その原因となった、想像者がのっぺらぼうになることも怪異。
「手前が何故今もこうしてあるのか、わかったような気がいたします」
白沢庵は深い思案顔になって呟く。
「白沢庵という荒ら家は、時代時代に場所を変え、姿を変えてこの世に現れてきたのでございます。それは妖怪の盛衰を眺めるため――あるいは妖怪の行く末を見守るため。ですが、今この世はある意味で妖怪の一大隆盛期と呼ぶことが出来ます。想像者は無数に増え続け、妖怪はさも存在が当たり前のような顔をして見鬼の目に映る」
「白沢庵――君は一体……」
僕が訊ねようとするのを、白沢庵は目の一睨みで黙らせた。
「いないとすることで楽しむ者。その結果生まれた非存在を見る者。本来交わってはならない両者の境界が揺らごうとしているのではないでしょうか。のっぺらぼうとは、実に即物的な怪異でございますから」
いやあ、と照れるようにのっぺらぼうが頭を掻く。
「ですが、怪異を起こすために想像者を想像者ではなくしてしまう。これによって一時的に怪異は増えるでしょうが、最終的には想像者が減ることによって基盤から崩れていくのでございます」
どうか、お願いいたします――白沢庵は柔らかな笑みのまま僕とのっぺらぼう、それと恐らくはぬらりひょんに言った。
「新しい見方を出来るようになった見鬼、全てを失った想像者の抜け殻、そしてそこより顕れた本質を見失った妖怪。面白い取り合わせではございませんか。この想像者を潰しにかかる怪異――それをどうか見極めていただきたいのでございます」
僕はのっぺらぼうと顔を――のっぺらぼうなので当然顔はない訳だが――見合わせた。ぬらりひょんも何か感じ入ったように唸る。
「わしのような妖怪がこれ以上生まれないように」
「僕のように想像者がこれ以上のっぺらぼうにならないように」
「僕のように想像者の見方をする見鬼がこれ以上現れないように――ということか」
僕達は釈然としないまま納得して、互いに頷き合った。
「やあ、どうだった?」
荒ら家を出ると、先程の年齢不詳の男――神野悪五郎がこちらに向かってきていた。
「あなたは、妖怪なんですか?」
僕は真っ先にそう訊いた。のっぺらぼうとぬらりひょんにこの男が何なのか説明するのも後回しだ。
神野は愉快げに笑った。
「言ったはずだよ。私は今は神野悪五郎という名の妖怪だと。妖怪というのは実に便利な言い回しでね、今のご時世じゃ名のあるモノも名のないモノも、何でもかんでもごちゃまぜにして妖怪と言ってしまうことが出来る。『妖怪』という単語から自然に意味が滲み出すからだろうね」
神野はのっぺらぼうを見るとおやのっぺらぼうだと感心したような声を上げた。
「例えばこの彼はなんだと思う? のっぺらぼうという妖怪なのか、あるいは顔を失ってしまった哀れな人間なのか」
「うん、自分では後者だと思うね」
「しかしそんなことは割合どうでもいいことなんだよ。怪異は受け取る側の主観で決まる。怪異に本質などないに等しいんだ」
だから私は神野悪五郎なんだ――笑いながら、神野は言った。
「そういう妖怪ということでいいじゃないか」
ぬらりひょんを見て、神野は悪戯っぽく笑う。
「まあ、このぬらりひょんなどはそう簡単に割り切れる状態ではないだろうけどね」
「わしは、己の設定の出自を知ってしまっている。知らなければ、どれだけ後付けの設定だとしても機能することが出来たというのにだ。お前のように、設定の殆どない名前を使って好き勝手やっているようなものとは違う」
「ふふふ、そこを心得ているのか。お前を感得した者は余程物好きだったようだ」
そこで神野とぬらりひょんは同時にのっぺらぼうを見遣る。
「うん、悪いけど僕は何も覚えてないよ」
もはや慣れた返答に神野は笑い、ぬらりひょんは不機嫌そうに表情を歪めた。
「それで、ものの見方は変わったかい?」
神野は僕に訊いてくる。
「まだ、完全に受け入れることは出来ませんね……。でも、僕は知ってしまった」
「そう、知るということは何より恐ろしい」
ぬらりひょんだってそうだ。自分のことを知って顕れてしまった結果、正常な妖怪として機能出来なくなった。ならば僕は正常に機能しているのだろうか。
「人は所詮、主観でしか生きられない。その人がそうだと思ったものがその人にとっての真実なんだよ。人の数だけものの見方はある。白沢庵は言わなかったかい? 君にした話はものの見方の一つに過ぎない。君は君の見方で、現世と幽世を見ればいい」
ないものをないと割り切ることも、非存在を存在へと変えてしまうのも、見方一つ。
「僕は、想像者と見鬼の間に立ちたい」
「なかなかに難しいと思うよ。すっぱりと割り切ることが出来なくなる」
「多分、大丈夫です」
のっぺらぼうとぬらりひょんを見て、僕は小さく笑う。この妖怪は、きっと僕と同類なのだ。
「妖怪を妖怪として見る。怪異を怪異として見る。それが出来ればいいだけの話でしょう」
神野は笑顔のまま無言で頷く。それを合図に、僕は神野に背を向けて歩き出した。
「行こうか、一緒に」
僕の隣にのっぺらぼうとぬらりひょんが並んだ。ぬらりひょんは相変わらず不機嫌そうで、のっぺらぼうは心なしか笑っているように見えた。
多分、気のせいではない。つられて笑顔になりながら、僕はそう確信した。
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