15

 二十八歳で大学を卒業すると、京の東本願寺に呼び戻されるかどうかという岐路に立った。

 井上の出身は越後は長岡の慈光寺じこうじという寺である。安政五年に寺に生まれ、少年期を明治維新の激動期に過ごした。

 慶応三年、十歳の時より約一年間、井上は同じ長岡にあった石黒いしぐろ忠悳ただのりの私塾に通った。

 石黒忠悳はその二年前に江戸に出て、幕府の医学所で学んだ。維新後には再び上京し、新政府の軍医として西南戦争に従軍した。後に陸軍軍医総監にまで上り詰め、後年も井上を援助し続けた。無論、石黒が井上に与えた影響も計り知れないものがあった。

 その後長岡で新潟学校第一分校に入学、三年後には県令の推薦を受けて東本願寺の教師教校の英学科に入学した。

 英学科での逸材ぶりを見た教官は、井上のような者を本願寺に留めておくのは惜しく、是非にでも最高学府で思い切り学問をさせるべきだと力説した。それを受けた本山は井上を給費生として東京に送りだした。

 東本願寺から月に七円の給費を受けつつ、大学予備門から東京大学へと進んだ。

 そして卒業後、給費生であった身としては東本願寺に対する義務を果たさねばならない。井上は東本願寺留学生としては初の学士号取得者であった。

 東本願寺は学士となった井上に辞令を送った。

 ――印度事情取調掛。

 それは学士となった井上に対し、何の優遇も与えないものであった。

 井上は所詮慈光寺という末寺の子でしかない。僧侶の世の中ではその地位は低く、前途も決して明るくはなかった。

 結局、井上はその辞令を固辞した。母校の教員就任の辞令も同じく固辞した。

 故郷の恩師、石黒忠悳から文部省の官僚へと推薦されたが、給費生だった身で官途に就くのは申し訳が立たないとして辞退していた。

 そしてただ一人、哲学を、仏教を――そして妖怪を究めようと学校を作るべく奔走する。


 井上が三十歳の時、哲学館を創立した。文字通り哲学を教える学校である。

 この時代に出来た私立学校は皆、経済や法律――実学を教えるための学校である。その中で井上が設立した哲学館は前代未聞の学校だった。哲学を井上は全ての学問の基盤であると考えている――だから哲学館を創立した。だが世間はどうか。哲学を学ぶなどよっぽどの変わり者だと思われているのが現状なのである。

 事実、開館式を行った東京大学――その時は帝国大学――近くの寺、麟祥院の様子は、全国中の奇人変人が集まったが如くだったと井上も述懐するところである。

 ただ、哲学館は井上が――大学を出たばかりの若造が――裸一貫で創立した学校だった。当然すぐに経営難に陥ることになる。

 そんな井上を助けたのが、かの勝海舟だった。

 井上が勝海舟に初めて会ったのは、海外視察を終えて日本に帰ってきた翌年のことだった。哲学館の拡張を考えていた井上は帰国の二箇月後に新校舎の着工に取りかかった。その評判を聞いて、勝海舟は井上に面会を求めたのだ。

 井上は即座に勝海舟の許に出向き、教えを乞うた。

「哲学をやっているというから、よぼよぼの爺ぃかと思ったが、こんな青二才だとはな」

 第一声がこれだった。時に井上三十二歳、海舟六十七歳であった。井上は畏まりながら、自らの哲学への、哲学館への思いを語った。

 海舟はじっくりとそれを聞くと、哲学館の主義に賛同し、精神一到を以て励むように言った。

「いいかね、『精神一到』とは言ったが、この言葉をそう易々と成せるなどと思ってはならんよ。一年や二年で成し遂げるなどとは考えんことだ。無限の歳月をかけて達成すべきことだと心しなさい。お前さんもその心得で哲学館の目的に従事するのだ」

 井上はこの言葉を深く肝に銘じた。

 また海舟はこうも言った。

「どんな仕事にも、資金は必要になる。幕府が倒れたのも結局は財政がおじゃんになったからだ。だからお前さんもそう議論めいたことを言うばかりではなく、金を拵えることもきちんと考えなさい。及ばずながら私も賛同しよう」

 そこで海舟は紙包みを取り出し、井上に差し出した。

「ほんの寸志だ。受け取りなさい」

 後で開けてみると、百円が包まれていた。新校舎の建設費用が四千円だから、寸志と呼ぶにはあまりに大金だった。

 井上の己の精神上の師として、勝海舟を慕い続けた。


 さて、その哲学館で行った授業の中に、「妖怪学」というものがあった。

 半分井上の造語である「妖怪」の意味するところは、井上の造語である迷信とされているものを多く包含する。不思議な現象全般を指し示すのが、井上の使う妖怪という言葉だった。

 大学生の頃仲間達と起こした不思議研究会は長続きこそしなかったが、井上の妖怪研究の第一歩となったことは間違いない。この中で井上が用いた「妖怪」という言葉は、徐々にではあるが世間に認知されていった。

 だが、世間の目は決して温かいものではなかった。

 妖怪などというものが学問として成立するのか。そもそもそんな下らないものを高尚な学問と捉えているのはいかがなものか。云々。

 井上もその非難は覚悟していた。だが断固として、妖怪学は成立すると声高に言い続けてきた。

 今はまだ学問として成立出来てはいない。それは井上も認める。だが、既に出来上がったものばかりが学問なのか。井上が創始したこの妖怪学も研鑽を重ね、広く世の中に受け入れられていけば、立派な学問として成立することが出来る。

 それに――世界は妖怪で満ちている。

 文明開化が叫ばれて長いが、それでも妖怪はいくらでも世間に溢れている。新聞には江戸の頃より変わらない――いや、流通、印刷技術が発達したことによりそれより加速した妖怪記事が躍り、井上の名が広く知れ渡る頃になると、妖怪記事の末尾に「井上圓了学士の説明を乞う」などと書かれるようになる始末だった。

 そんな中、井上が最初に取り組んだのは、コックリさんだった。

 大学生の頃の不思議研究会は上手くいったとは言えなかったが、井上はその中で一人、不思議研究を推進した。

 哲学館創立の年、井上は出版社哲学書院を興した。そこから哲学会の機関誌である『哲学会雑誌』を創刊し、第一号から井上は「こッくり様ノ話」という論説を連載し始めた。

 これは不思議研究会の頃に推し進めたコックリさんの解明を文章化したものである。

 コックリさんとは三本の棒の上に乗せた飯櫃の蓋を数人で取り囲み、その蓋の上に手を置いてお伺いを立てる。すると蓋は独りでに答えを示す方向に傾くというものである。

 棒に乗せた蓋がコックリコックリと頷くように傾くことが名の由来であるとされている。また狐か狸かはたまた狗が憑いたようだと言われるので、「狐狗狸」という漢字が当てられた。

 これが明治の世に大いに流行った。

 他愛のない遊びのままならばよかったのだが――ある男が自分の妻に情夫があるかとコックリさんに訊ねたところ、「いろおとこ」と答えが出たことを理由に直ちに離縁を言い渡したという笑い事では済まないような事件も起こっている。そのあまりの流行と、お伺いからもたらされる答えによって様々な弊害が生じ、大阪府では警察がコックリさんを禁じた程であった。

 井上が日本中の有志に問い合わせ、流行の伝播を探っていくと、出所はどうやら伊豆は下田であるとわかった。それ以外にも三百年前から日本に伝わり、織田信長が初めてコックリさんを行ったという話や、徳川の代になって行われた、薩摩が発祥である、元はキリシタンの秘法だった――などなど、定説はなかったが、井上は下田伝来説を正解と見た。

 明治十七年、下田港近くでアメリカの帆走船が破船したことがあった。その破船によって長く下田に滞在したアメリカ人がおり、その法を下田の人に伝えたという。

 西洋では昔からテーブルターニングというものがあり、これはテーブル――コックリさんで言うところの飯櫃の蓋――が回転するという意味であり、正しくコックリさんと殆ど異ならない。違いは一方はテーブル、一方は三本の棒と飯櫃の蓋というだけのことである。恐らく下田に来たアメリカ人は本国でこの法を知っていて、下田でやってみせるのに手頃なテーブルがなかったことから棒と蓋で代用したのだろう。

 では何故コックリさんは独りでに傾くのか。井上はイギリスの生物学者ウィリアム・カーペンターの著書、『精神生理学原論』という本から学び、自ら「予期意向」と「不覚筋動」という言葉を作った。

 人間の意識――それも自らは意識出来ない潜在意識は、時に自らの筋肉を動かすこともある。井上はその潜在意識を「予期意向」、それによってもたらされる筋肉の動きを「不覚筋動」と名付けたのである。

 飯櫃の蓋の上に手を置く。その時に「そうあってほしい」という自覚すらしていない予期意向に従い不覚筋動が起こり、蓋が思った方向に傾く。

 結局、全てはコックリさんに参加した者の心に起因するのである――。

 連載を終えると即座に一冊の本に纏められ、『妖怪玄談』の題で出版された。


 井上は哲学の普及のため、それに加えて慢性的な経営難の哲学館の資金の寄付を募るため、全国を巡行して講演を行った。

 日本国民は実に四千万人。その全てに頭を下げて回り、一人から一円ずつ寄付してもらえればそれだけで四千万円。十銭でも四百万円、一銭でも四十万円になる。井上は精力的に全国を回った。

 その中で、自然と講演の中に妖怪の話が入る。『妖怪玄談』の評判も高く、何しろ世間に「妖怪」という言葉を広めた当人なのであるから、井上は自然と「妖怪博士」、「お化け博士」と呼ばれるようになっていった。

 井上自身も、生来のお化け好きである。金のない中地方を回り、地元の者からその土地に根差した妖怪話を聞くのは楽しかった。それは妖怪学を推し進めるために有用であったのと同時に、井上の個人的な嗜好を満たすものでもあった。

 そんな井上が島根県の松江を訪れた時のことである。到着した翌日には県庁に挨拶に向かった。それから午後は松江中学校で講演し、そこから殆ど休みなしに場所を変えて講演を続けていくことになっていた。

 滞在最終日、この日井上は米子町にいた。前日に船で渡り、そこで講演や懇談会を行っていた。

 午前中は同じく米子で小学校の授業を参観したり、資金調達を依頼していた。

 午後に松江に戻り、また講演を行う。夜も地元の青年会の頼みで哲学について講演を行い、宿に戻る頃には殆ど真夜中と言ってよかった。

 夜はきちんと暗い。特に地方はそれが顕著だ。こんな暗闇の中、一人で歩いていれば妖怪を生ずるのも仕方のないことかもしれない。井上は圧倒的な闇に対してはあまりに頼りない提灯の火を見ながら超然として頬を緩めた。

 井上は妖怪をまず二つ、実怪と虚怪に区分する。その二つをさらにそれぞれ二つに区分し、実怪は仮怪と真怪、虚怪は誤怪と偽怪に。

 偽怪とは人為的妖怪。つまり人間によって意図的に引き起こされる妖怪。

 誤怪とは偶然的妖怪。つまり様々な条件が重なり合わさってたまたま見える妖怪。

 仮怪とは自然的妖怪。これをさらに区分すると、物理的、化学的に説明可能な物怪と、心理的、生理学的、社会学的に説明可能――つまりは錯覚や幻覚とされる心怪となる。

 そして真怪とは超理的妖怪。つまりどうあっても説明不可能な、本物の妖怪。

 この場合に起こり得るのは、誤怪くらいだろうか――井上は自身の学説を確認しながら闇夜を進む。妖怪博士などと呼ばれる井上に悪戯をしかける豪儀な者はいないだろうし、幻覚を体感する程井上の神経はやわではない。

 あるいは――真怪がその姿を現すか。

 ふと、暗夜の中にまばらな光が割り込んできた。よく見れば道端に荒ら家が建っていて、その中の灯りが開け放たれた玄関や、見るも無残な壁や屋根の隙間から漏れ出ているのであった。

 井上は怪訝な顔をして、その荒ら家を横目に見る。

「あっ!」

 井上は思わず声を上げていた。玄関の軒先に、活版印刷で用いるような妙な字で、「白沢庵」と書かれた木の札がかけられていたからである。

 井上は大学生時代に見つけた同じ名の荒ら家での出来事を、昨日のことのように思い出せる。それからもう一度あの荒ら家を訪れようと、本郷中はおろか東京中を探し回ったのだが、一度として同じ庵の名は見つからなかった。あの時もらった『諸処妖怪談』という本は今も井上の書庫に大切に保管してある。

 しかし――何故だ。何故本郷にあったはずの白沢庵が、今はるか遠くの松江の地に存在する。いや、確かに年月はかなり経っている。その間に東京からここへと移ったと考えることも出来るが――。

 白沢庵の構えは、以前に訪れた時とは異なっている。それでも今にも崩れそうな荒ら家であるというところは変わっていない。

 井上は意を決し、荒ら家の中に踏み込んだ。

 相変わらず狭い。しかもその中にはやはりところ狭しと書物が積まれ、足の踏み場を探すのに一苦労する程だ。

「あっ、こんばんは」

 たどたどしい挨拶。狭い荒ら家の中のさらに狭い土間から上がった、畳の敷かれた一段高いところに、一人の男が腰を下ろしていた。

 あの時の身なりのいい中年男が今も変わらず主人である限りではないと思っていたが、中で待っていたのは全く予想だにしない風貌の人物であった。

 顔のつくりが、そもそも日本人とは違う。彫りの深い顔立ちは一目で異国の風土を感じさせる。

 そしてその身なりは紳士然としたものであったが、どこか憂いを含んだような趣があった。綺麗に整えられた口髭を見、その上にある目へと視軸を傾けると、男は咄嗟に顔を傾ける。

 井上はその瞬間にはっとした。顔を傾ける時に見えた左目は、白濁した、恐らくは使い物にならないものだと思われた。どうもその左目を見られることは好まないらしい。井上は以降そちらに目を向けないようにと自戒した。

 隻眼の異国人。松江の道端の荒ら家の中にいるには、どうにも場違いな男である。

「英語は話せますか?」

 井上は英語で訊きながら、隙間を見つけて畳に腰かける。靴は脱がず、椅子に座るような形だ。男の先程の危うげな挨拶からして、日本語が得手であるとは思えない。

「ええ。あなたも英語を話せるのですね。驚きました」

「少し外国を見て回った時期がありまして。あなたはここの……?」

 男は笑って首を横に振った。

「私はたまたま通りかかっただけです。ここは実に興味深い! 先程までご主人がおられたのですが、とても楽しいお話を聞くことが出来ました。あっ、ご主人は何やら野暮用があるとかで出ていかれました。すぐに戻るというのでこうして待っているのです」

 男はそこではっと目を剥いて、申し遅れました――と言ってから名乗った。

「私はここの中学校で英語の教師をしている、ラフカディオ・ハーンという者です。ハーンはこちらではヘルンと表記した方が通りがいいようで、ヘルン先生などと呼ばれています」

「こちらこそ申し遅れまして……私は井上圓了といいます」

 ハーンはそれを聞いてぎょっとしたように声を上げた。

「井上圓了先生! あのお化け博士の? ――あ、いや、失礼しました。つい俗称を」

 井上は笑って構わないと言った。

「いや、それにしても驚きました。確かにこちらにいらしているとは聞いていたのですが、まさかこんな場所でお会い出来るとは。先生の著書は大変興味深く読ませていただきました。講演も何回か拝聴しに伺っています」

「ありがたいことです。しかし、あなたのような西洋の方が、私の話など聞いて面白いのですか?」

 ハーンは強く頷いた。

「私はこの国は素晴らしいと思っています。風土、文化、信仰――それらが実に見事に調和しています。特に井上先生のお話で感銘を受けたのは、この国独自の哲学を作るというところです」

 井上が諸外国を見て回った時、強く感銘を受けたのはどの国も自国の学問を一番大切なものとして扱っていることだった。だが日本はどうか。文明開化を叫んでとにかく外国の学問を取り込み続け、自国由来の学問など殆ど存在しない。

 井上はそれでは駄目だと断言した。唯唯諾諾と西洋のものを受け入れていては、自国の伝統をないがしろにしてしまう。哲学館を創立したのも、哲学を究め、日本由来の東洋哲学の完成を見るためだった。

 ハーンはそうした井上の考えを、まるで自分のことのように熱く語った。

「井上先生の理念は正しくその通りです」

「いや、まさかあなたのような方からそんなことを言われるとは。全く喜ばしい限りです」

「おや、お客様でございますか」

 開け放たれた玄関から、あの時と同じ格好をした男――白沢庵が現れた。

「おお、これはこれは。井上先生――とお呼びしてよろしいでしょうか」

 白沢庵はどうやったのかするりと畳に上がり、書物に押し潰されそうな状態で正座した。

「お久しぶりです、白沢庵殿。東京中を捜しても見つからなかったこの庵を、まさか松江で見つけるとは思いませんでした。いつこちらへ?」

「そうしたことは意味のない問答でございましょう」

 白沢庵は莞爾とした笑みでその質問を突っ撥ねた。

 ハーンは二人の顔を見比べて、驚いたように訊く。

「お二人は以前にお会いになっていたのですか?」

 はいはいと笑いながら白沢庵が答える。

「本郷の町に居を構えていたことがあったのです。その時に、まだ井上先生が学生様でいらした頃でございました」

「私のことを覚えていてくださったのですね」

 井上が言うと、白沢庵は勿論と頷いた。

「あの後、井上先生のご活躍は何度も聞き及んでおります。あの時のお方がその井上先生だということも、しっかり存じておりました」

 白沢庵はそこで少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「妖怪」

 それは井上の突き詰めようとする学問。そして――この荒ら家で見つけた言葉。

「昨今は世間でもこの語が広まっているようでございますね。井上先生のお力は流石です」

「妖怪――ですか。井上先生はお化けがお嫌いですか」

 ハーンの質問に、井上ではなく白沢庵が答えた。

「そんな訳はございません。井上先生は、それはもうお化けが好きな方でございます。そうでございますよね?」

「ええ。世間では妖怪撲滅家などと呼ばれていますが」

 決まりが悪く奥歯に物の詰まったような物言いになる井上を、白沢庵はにこにこと眺めている。

「ヘルン先生は、この国の怪談話がお好きなのでございます」

 ハーンは照れ臭そうに笑った。

「実は数日前にも普門院というお寺のご住職にこの町に伝わる怪談をお聞きしたのです。いつかはこの国の怪談を集めて、世界に紹介したいと考えています」

 それを聞いて井上は思わず眉を顰めた。

「それは――我が国が無知蒙昧な者ばかりの未開の地と喧伝するのですか」

 井上の言葉に、ハーンは心底驚いたようだった。慌ててとんでもないとその言を否定し、すぐに熱く語り出す。

「怪談はこの国に根差した、崇高な文化です。私はただこの国の素晴らしい文化的豊かさを世界に紹介したいだけなのです」

 だが井上は眉を顰めたままだった。

「しかし、それはこの国の人々がまだ迷信を信じていると吹聴することになりませんか」

「そんな――ショックです……そんなふうに思われるとは」

「私は全国を行脚し、迷信を打破しようと講演を続けてきました。しかし未だに迷信の中にいる日本人は多い。それを馬鹿にするというのは――」

「馬鹿にする! そんな! 私は日本人の精神文化の素晴らしさを――」

 こほん、と芝居がかった咳払いが、危うく取り返しのつかない口論へと発展しそうになっていた二人の言葉を制した。

「まあまあお二人様。この荒ら家に訪れたということは、お二方とも同じ穴の狢ということでございますよ」

 白沢庵は穏やかに微笑みながら二人に発言を許さない。

「ここは妖怪を好き好む方の訪れる場所。小さな考えの違いなど、馬鹿げたことでございます。お化け好きという本質が同じならば、何を争う必要がありましょう」

 その言葉で、井上の毒気はあっという間に抜けてしまった。

「いや――誠に申し訳ありませんでした。ハーン先生のお考えはもっともです。そこに私情を挟んで、つい……」

「いえ、こちらこそ申し訳ありません。井上先生の理念が正しいのは自明の理ですのに、思わず熱くなってしまって」

 互いに謝った後、なんだかおかしくなって二人共笑った。

「ただ――そうですね。怪談奇談の持つ魅力というのは、私もよくわかります。こんなことをしている身ですが、その根底にはやはり、そうしたものへの愛着があるのです」

 井上が言うと、ハーンはぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。

「井上先生にそう仰っていただけると、私のこの思いが間違いではないと確信出来ます。先日お聞きした怪談はこんな話でした」

 飴屋に毎晩、顔色の悪い女が水飴を買いに訪れる。主人はその女の尋常ならざる様子を見て具合を訊ねるが女は何も答えない。主人がある日そのあとをつけてみると、女の姿は墓所で見失ってしまった。

 翌日、女がまた飴屋を訪れるが、水飴は買わず、しきりに主人を手招きする。主人がそれについていくと、昨日の墓所の小さな石塔のところで女の姿が消えた。耳を澄ますとその石塔の下から赤ん坊の泣き声がする。人を呼んで石塔をどかすと、その下から女の亡骸にしがみついた赤ん坊が泣いていた。

 女は乳が出ない代わりに、赤ん坊のために水飴を買いに毎夜飴屋を訪ねていたのだった。

「飴買い幽霊ですね」

「一般的な話なのですか」

「ええ、全国的に広まっている怪談です」

「私はこれを聞いた時、なんと美しい、そして悲しい話なのかと感銘を受けました。この情緒的な話が、民間の怪談として今もこの国に生きている。こんなに豊かな文化を持った国を、私は他に知りません」

「わかりますとも。私はこうして全国を回っていますが、その中で村々の方々に怪談や、妖怪話を聞き取って記録しています。無論、それを理論的に解体するという目的もありますが、やはりそうした話は聞いていて楽しい」

 二人は頷き合い、同じ思いを抱いていることを確認し合った。

 だが――井上とハーンは、その理念とするところでは決定的な違いを抱えている。

 井上もハーンもそれはしっかりと自覚していた。だが、そんな違いなど気にならない程に、お互いの心が通じ合ったのを確かに感じていた。

 決定的な違いではあるが、それはこの白沢庵という場においては、ほんの些細な差でしかないように感じられる。この荒ら家は、妖怪という括りに入るものを追い求める者達を優しく包み込み、同じ穴の狢なのだと受け入れてくれる、不思議な力があった。

 もしも他の場所で会っていたら、二人は互いに絶望し、完全に決別していたかもしれない。それを防いでくれたのは、この特殊な場と、常に莞爾とした笑みを浮かべる主人。

「白沢庵殿、感謝します」

 井上は思わずそう言っていた。

 白沢庵はきょとんとした表情を浮かべたあと、穏やかに笑う。

「急に何を仰るのです。手前はただ隅にちょこんと座っていただけでございますよ。何も礼を言われる覚えはございません」

「いえ、白沢庵というこの妖怪に満ち満ちた場所。そしてあなたのあくまでも純粋なお化け好き。私はこの庵に来て本当によかったと思っています」

「私もです。ここは素晴らしい。まるで異界の案内所のような、不思議な魅力を感じます」

 白沢庵は照れ臭そうに笑う。

「こんな荒ら家を褒めていただいても何も出ませんよ」

 白沢庵の今まで見せたことのない無邪気な笑みに、井上もハーンもすっかり和んでいた。

「では、私はこれで失礼します。難儀なことに明日も早いのです」

 井上はそう言って立ち上がる。

「ああそうだ。井上先生にお願いがございます」

 白沢庵は井上を呼び止めた。

「なんでしょう?」

「この荒ら家であったことは、決して文字として残さぬように、お願いいたします」

 井上は首を傾げる。

「白沢庵という存在は、表にも裏にも、決して残ってはならぬものなのでございます。どうかご理解いただきますよう」

 すんなりと理解は出来なかったが、妙に納得出来た。現に井上は今まで書いてきた文章に、一度たりとも以前の白沢庵での出来事を記していない。それは井上がどこかで白沢庵の今言ったことを、自分でもわかっていたからではないか。

「それと、『諸処妖怪談』という本はまだお持ちですか?」

「ええ」

「もう一読してしまわれたでしょう。ならばどうか燃やしてしまってはいただけませんか」

「燃やす?」

「はい。あの悪書は本来ならば時流に従って完全に姿を消すはずのものでございました。それを手前がズルをして手元に残しておいてしまったのです。それはきっと、井上先生の手に渡るのを待つために」

 井上はこの白沢庵という存在に、果てしのない何かを垣間見た気がした。

「ですから、もう役目は終わったのでございます。あのような本を残しておくのは、きっと世のためになりません」

「――わかりました。必ず処分を――燃やしてしまいます」

 白沢庵はそれを聞くと、にっこりと笑った。

「あの本もこれで本望でございましょう」

「では、これで。またここを訪れたいのですが、これからもこの場所に?」

「さあ、それはわかりません。ひょとするとまたどこかで、ひょっこりと先生の前に姿を現すかもしれません」

 本当に起こりそうな気がして、井上は笑った。

 荒ら家を出ると、外はどこまでも暗かった。提灯を出して宿までの道を歩いている内、井上ははっと気付く。

 白沢庵は、井上とハーンの会話を理解出来ていた。

 井上はハーンに対し英語で話していた。ハーンも最初の挨拶を除けば終始英語で話していた。

 だが――白沢庵は、何を話していた。

 話を聞く限り、ハーンは日本語を聞き取ることは出来るようだ。ならば白沢庵は日本語で話していたのかと訊かれると、井上ははっきりと答えられない。白沢庵が英語を話せると仮定しても、先程の会話は明らかに何かが妙だった。

 あまりに自然に会話が成立しすぎていた。

 井上はまるで全て日本語で話していたかのように、全ての言葉に何の違和感もなくすらすらと言葉を口にしていた。

 井上はそこで苦笑する。

 案外、本当に真怪だったのかもしれない――本来ならばここに理論的な答えを導き出すはずの井上は、何故かこの時ばかりはそう思った。

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