第四章 明治十七年~ 妖怪撲滅セヨ

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『諸処妖怪談』という本を見つけた時には少し驚いたが、読んでみると鼻で笑っていた。

 中身は江戸の始まり頃に多く出た怪談集だろう。しかしその文章はたどたどしいというか、はっきり言ってしまえば下手くそで、ただ怪しい話を集めただけでしかない。

 しかしこのような種類の本は数多く読んできたが、『諸処妖怪談』というのは初めて見る。こういった本が流行ってから文明開化の世の中になるまで二百年は経っているのだから、時に埋めれていった本も多くあるのだろう。そう思うとこの駄文にも納得出来る。つまらないから売れなかった。売れなかったから残らなかった。それだけだ。

「お気に召しましたか」

 急に声がしたので、ぎょっとして狭い荒ら家の中を見渡す。

 隅の方に身なりのいい中年男が正座していた。莞爾とした笑みを浮かべ、こちらを――正確にはその手に持った本を見ている。

「その本は確か万治二年のものかと記憶しております」

「あ――いや、これは失敬。私は井上いのうえと申します。こちらのご主人ですか?」

「はい、この荒ら家――白沢庵の庵主をしております。手前のこともどうぞ白沢庵とお呼びください」

 そこで白沢庵はにっこりと笑い、

「いらっしゃいませ」

 と漸く挨拶をしたのだった。

 井上がここ白沢庵を訪れたのは、ただの偶然と言ってよかった。

 井上は東京大学の学生である。学んでいるのは哲学という、諸学の根拠であり、原理原則であり、政府であると井上が信じている学問だ。

 井上は哲学という学問を究めたいと願い、そのために日々邁進している。

 今年は仲間達を集め、大先輩である西にしあまねの賛同を得て、哲学会を結成した。

 哲学はまだこの国に深く根差していない。哲学という言葉自体、西周がフィロソフィの訳語としてほんの十年前に生み出した言葉なのだ。

 御一新の前には、この国には哲学と呼べる学問自体が存在しなかった。明治へと時代が移り、西洋の学問や文化を取り込もうと必死になって漸く持ち込まれた学問が哲学だった。しかしその学問は、決してないがしろにしてはならないものである。あらゆる学問はやがて哲学に行き着く。根拠であり、原理原則であり、政府――それこそが哲学。

 若き大学生は燃えていた。

 しかし、それと同時にある計画も考えていた。それは表立って言うには少し下らないというか、馬鹿げているというか――。

 そんな折、ぶらぶらと本郷の町を歩いていると、人の殆ど通らないような裏道に、今にも崩れそうな荒ら家を見つけた。禿げた藁葺きに開け放たれ閉まらないのではないかと思われる程歪んだ玄関。そこに吊るされた木の板に、活版印刷で用いられるような字で「白沢庵」と書かれている。

 井上はそれを見て小さく笑った。くだらない洒落は井上も好むところだ。それに白沢となれば、今の気分にもちょうどいい。

 それで中に入った井上だったが、そこに積みに積まれた夥しい本や浮世絵の数にまず圧倒された。しかもよく見てみればそれらは殆ど「お化け」に関したもので、これはいよいよ因縁めいてきたななどと思いながら、無造作に手に取ったのが『諸処妖怪談』だった。

 どんなものかと一通り目を通し、鼻で笑ったところで白沢庵に声をかけられた。入った時は誰もいないと思ったのだが、どうやら隅の方に引っ込んでいたらしい。

「万治二年となると、相当古いですね」

 井上が本を山の上に置くと、白沢庵はやはりにこにこと笑いながら頷いた。

「こういった怪談本ですと、『曾呂利物語そろりものがたり』がその四年後の寛文三年、寛文六年にはあの『伽婢子』が出ておりますね。その前となりますと、『義残後覚』や『漢和奇異』になりますか。しかしこの二つは写本でございまして、版本となるとなかなかございません」

「ほう、ではこれが一般に流通した怪談本の嚆矢になるのですか」

「さあ、それは手前にもよくわかりません。なにせあの頃は双紙が雨後の筍のごとく出回った時期でございますから、開板されても後の世に残らなかったものも多いのではないかと思います。その『諸処妖怪談』も、鼻で笑ってしまうような内容でございましょう?」

 見られていたのかと決まりが悪くなった井上は頭を掻いた。

「ええ。しかし、何というか――」

 白沢庵は言い淀む井上を見て、笑みを崩さずに首を傾げる。

「この題名。『諸処妖怪談』という題には何故か心が惹かれます」

「色々な場所の妖しい怪談を集めた――という意味だと思われますが」

「それだと、『諸処』、『妖』、『怪談』と区切るんですよね。でも私は、『諸処』、『妖怪』、『談』と区切るように思うのです」

「妖怪――でございますか。あまり聞き覚えのない言葉でございますね」

 妖怪という言葉は江戸以前の書物にも時々出てくるが、あまり一般的な言葉ではない。出てきても黄表紙などでは専ら「ばけもの」と読みが振ってあったりすることばかりで、「ようかい」と読む場合は少ない。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にも妖怪という言葉は連作全てを通しても数える程しか出てこない。

「妖怪――これは、使える」

「使える? もしよければお考えを聞かせていただけると後学のためになるのでございますが」

「ああ、これは失敬。そうですね、では少し自分のことを語らせてもらってもいいでしょうか?」

 白沢庵が頷くと、井上は話し始める。

「私は合理的な考えを第一と考えています。哲学の目指すところである合理的思考こそ全ての基盤となるべきなのです。ですから、非合理的な考えは否定しなければならない」

 天変地異に奇草異木奇石。妖鳥怪獣異人。鬼火狐火に火柱蓑火龍灯それに投石。毒井から奇病奇形。仙術に妙薬。食合と食忌。前兆や予言、卜筮察心、降神に口寄、禁厭魔法、巫覡。暗号、偶中に夢告。奇夢に始まり幻覚、妄覚、幻影に怪音。狐惑、狐憑に狸憑に犬神に人狐。狐遣と狐術。天狗、幽霊、鎌鼬、船幽霊に蜃気楼。天啓、感通、神通、再生。天狗筆跡と狐書狸画。

「それが――」

 頷く。どうやらこの男、最初から承知済みだったようだ。

「妖怪です」

 言って、もう一度『諸処妖怪談』を手に取る。

「この本のような、非合理的な物事を撲滅させなければならないのです。哲学を究める者として、これは絶対に譲れません。だから、『妖怪』という言葉はここからいただきます」

 そこで白沢庵は、意地の悪そうな笑みを見せた。

「それはきっと、この本を書かれた方も満足でございましょう。その本はどうぞ差し上げます。いえお気になさらず。あなたのような方が持っておられる方がその本も幸せでございましょう」

 井上は礼を言いながらその本を手に取ると、照れ臭そうに白沢庵に訊ねる。

「あの、もう少しここにある本を物色してみてもいでしょうか?」

「はい、どうぞご自由にご覧ください。しかし、ここにあるようなものはお嫌いなのでは?」

 白沢庵に言われ、井上はますます決まりが悪くなる。

「いや、実はその……こういったお化けのようなものは、好きなんですよ」

 白沢庵は暫し呆気に取られたように固まったが、すぐに快活に笑いだした。

「ほう! 妖怪――と言うのでしたね? ――を撲滅しなかればならないと言いながら、お化けが好きだと仰るのでございますか。手前も色々な方と会ってきましたが、このような御仁は初めてでございます」

 ころころと笑う白沢庵と対する井上は照れ臭いのと恥ずかしいのとで、所在なく頭を掻いた。

 やっと白沢庵が声を立てて笑うのをやめ、いつものにこにことした表情に戻ったところで、井上は弁解のような話を切り出した。

「その……ですね、妖怪と称するようにしたことや、昔から信じられているが明確な根拠のないものを、私は迷信と呼んでいます。こうした迷信を打破することが、哲学を追い求める者として必要なことだと思うのです。ただ――お化け、化け物は、迷信ではないでしょう?」

「ええ、江戸の頃から野暮と化け物は箱根から先と言われてきたものです」

「迷信は、今、この場で根拠もないのに信じられていることなのです。私はそれを合理的な思考で批判し、教養を以て取り込ませたい。前時代の迷信を合理的に解明し、これはこれこれこういった所以によることなのだと啓蒙すれば、妖怪を明治の世に取り込んで、新しい考えを持てるようになると思うのです。ですが、化け物は――そんな必要は端からない。この時代は疎か、江戸の頃にも迷信ですらなかったものを、捉え直す意味はないでしょう」

「ですが、お好きなのでございますね」

 長々と弁舌を振るった井上はしかし、白沢庵のその言葉でまた照れ臭さを覚えて委縮してしまう。

「ええ……はい。お恥ずかしい限りですが」

 白沢庵は微笑を湛えたまま、そんなことはございません――と穏やかに言う。

「ないとわかって楽しむ――ないとわかっているからこそ楽しめる。それが化け物でございます。そうでございますねえ、それを妖怪の象徴として使うというのはどうでございましょう?」

「象徴――ですか」

「はい。信じられていないモノを表に立たせるのでございます。あなたがそうしたものをお好きなように、化け物に妙な愛着を持った方は多くいらっしゃいます」

「なるほど、象徴として化け物を使って、妖怪を批判する訳ですね」

 なんだかおかしな話だが、これは上手くいくかもしれない。

 井上は一通り本に目を通すと、また来てもいいですかと訊ね、白沢庵が頷いたのを見て満足して帰っていった。

 だが翌日、言葉通りもう一度訪ねようと本郷の町を歩いたが、いくら捜してもあの荒ら家は見つからなかった。

 井上圓了えんりょうが再び白沢庵を訪れるのは、その数年後になる。

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