13

「お前という奴は――一体何を考えておるのだ……」

 後藤は父の重里にお文が快復しているということを伝え、伊勢屋への婿入りの話は一旦保留にすることにしたと告げた。

 重里からしてみれば、漸く厄介払いが出来ると思っていたのにそれを留め置くなどとんでもない話である。最初に八兵衛と会った時も後藤は婿入りはお文の様子を見てからにしようと言い出した。だがお文は快復に向かっていると――つまり後藤という薬の効き目は確かだったと言っておきながら、その舌の根が乾かぬ内に婿入りの話を保留にすると言い出すのである。

「お文さんは快方に向かってはいますが、本調子に戻るにはまだ時間がかかるでしょう。それに、化物というものについてきっちりとした料簡を持つには至っていません。暫くは今まで通りの関係を続けた方がいいという判断です」

「しかし、それならさっさと所帯を持てばよかろう。わざわざ毎日牛込から馬喰町まで出かける必要もないし、その方が親身になって様子を見てやれるではないか」

「いや、実はですね、お文さんには私が婿入りする予定だということは一つも喋ってないんですよ。時機を逸してしまいまして、私はただのお化け侍ということで通っているんです。それをいきなり夫婦めおとになれと言い出すのもどうかと思うんですよねえ」

 などと言って後藤は無理矢理父を丸め込んでしまった。

 馬喰町に向かう途中、手前の千鳥橋を渡って東へと進むと、薬研堀埋立地へと出る。この辺りにも地本問屋はあるが、今日の目当てはそこではない。

 人気のない細く暗い道へと入ると、今にも崩れ落ちそうな荒ら家がある。一見しただけでは人がいるとはとても思えない小さく汚い建物で、軒先には板が下げられ、定規で引いたような妙な字で「白沢庵」と書かれている。

「いらっしゃいませ」

 中に入ると、柔らかい声で出迎えられる。

 中は小さな土間がまずあって、そこから上は足の踏み場もない程に書物やら錦絵やらで溢れ返っている。その奥に縮こまるようにして小さな子供が正座していた。格好だけは総髪に十徳と、この薬研堀埋立地に多い医者のようなものだが、あどけない顔つきに小さい背丈からはどう見積もっても後藤より年下だ。

「白沢庵、また沢庵を売ってくれないかな。お文さんもいたく気に入ったそうで、あれがあると食が進むそうなんだ」

 白沢庵と呼ばれた子供ははいはいと笑い、落ち着いた物腰で土間に置かれた樽の中から白い沢庵を取り出す。後藤はそれを受け取ると金を払い、畳の上に腰を下ろす。

「お化け侍様はどうなさるおつもりです?」

 後藤も裸足で逃げ出す程の穏やかな笑みを浮かべ、白沢庵は訊ねる。後藤のことをお化け侍と最初に呼び出したのはこの子供だった。

「伊勢屋への婿入りの話かい?」

「ええ。手前としても、片棒を担がせていただいたので気になるところなのでございます」

 まるで悪事のような言い草だが、それも合っていると後藤は笑った。

 後藤はただの化物が好きなだけの男である。そこに難しい知識はなくとも、世に出回っている化物達を楽しむことは十二分に出来ていた。

 だからこの白沢庵という子供に出会ったのも、その道の上での出来事だった。

 薬研堀にある地本問屋まで出向いた帰りにたまたまこの道を通り、この荒ら家を見つけた。「白沢庵」と書かれた木札に秘められたくだらない洒落に惹かれて足を踏み入れたのだ。

 その中は、後藤にとってはまるで桃源郷だった。

 化物の描かれた錦絵に草双紙黄表紙、古今東西の膨大な量の書物が溢れ返っている。どうやってこの小さな荒ら家に収まっているのかと不思議になる程の、凄まじい量だった。

 中に誰もいないと思っていた後藤は夢中になって物色を始めた。それから暫く没入していると、突然、

「いらっしゃいませ」

 声がして、はたと顔を上げると隅の方にこの子供が莞爾とした笑みを浮かべて座っていたのだった。

 子供は自分のことは白沢庵と呼んでくれと言って、この中の物はどれでもお貸しいたします――と言った。しかも金は取らぬとまで言う。

「これも何かのご縁でございましょう。どうぞお気になさらず」

 もしも後藤の心根が腐っていて、欲しい物だけ借りてそのままにしておくというあくどい手段を思い付いたとしても、その欲しい物の数はあまりに膨大すぎた。いずれにせよ何回も足しげく通わなければ、後藤の中に湧き起こった欲は消えない。

 そういう訳で、後藤はこの荒ら家に毎日のように顔を出していた。その中でこの白沢庵がただ者ではないことも重々わかった。それでお文の話を聞いた後で、どうしたものかと相談に応じてもらったのだ。

 お文にした小難しい話は、全てこの白沢庵の受け売りである。勿論お文と後藤を添わせてお文の気鬱をどうにかしようと最初に思い付いたのはお文の父八兵衛であるし、それを面白そうだと話に乗ったのは後藤本人である。後藤は最初は一緒に子供の遊ぶようなもので楽しんでもらえればいい程度に思っていたのだが、白沢庵に話すと待ったをかけられた。

 お文の心をほぐすには、いっそ難しく飾った話の方がいいのではないかと、白沢庵は言った。

 それで入れ知恵をしてもらい、後藤はお文と向き合うことにした。

 結果として、お文は快方に向かっている。

「そうだなあ、当分は保留にしておいてもらいたいかな」

 後藤が言うと、白沢庵はほうとやはり穏やかな笑みを浮かべたまま声を上げる。

「武士として商家は気に入りませんか」

「いやいや、そんなことは全くないよ。武士の誇りなんてものは生憎持ち合わせていないんでね。伊勢屋は大店だし、八兵衛さんも私を気に入ってくれている。お文さんだって器量よしだし、私にはもったいない程の話だ」

「では何ゆえに?」

「おいおい白沢庵、君はそんな察しの悪い奴じゃないだろうに。子供の顔をしているからといって、もう騙されないよ」

 そこで白沢庵は嫌らしい笑みを見せる。

「お化け侍様にご自分の話で恥ずかしがっていただきたいと思っただけでございますよ」

「このクソガキめ」

「まあまあそう仰らず。話せる相手がいなければ悶々としたまま日々を過ごすことになりますよ。このクソガキをいとけない子供とでも思って語って聞かせてやるのも一興かと思います」

「全く――」

 後藤は大きく息を吐いて、白沢庵に言われた通りにする。どうせこの子供には逆立ちしたって敵わないのだ。後藤は長い付き合いでそれを重々承知していた。

「そうさなあ、私はお化け侍としてお文さんと向き合ってきた。その縁故を縁談で壊したくないんだろうねえ。今のままの間柄でいた方が気が楽だ」

「惚れてらっしゃるのでございますね」

 後藤は声を立てて笑う。

「そういうところはガキだね。そんなややこしい話じゃないんだよ」

「あ、あの、お化け侍様……?」

 入口の方を見ると、お文が困ったような顔して立っていた。八兵衛程ではないが、血色は随分よくなっている。

「お――おやお文さん。どうしてここに?」

「身体もよくなりましたので、外を歩いていたのです。そうしたらこの近くでお化け侍様をお見かけして、捜しておりましたらここで声が聞こえたので……。あっ、お話は全く聞こえませんでした」

 慌てて最後の一言を付け加える様子を見て、少なくとも一部は聞こえていたとわかる。だがお文が知らぬ振りを通すならば自分もそれに合わせようと後藤は割り切ることにする。

「お化け侍様、ここは一体……?」

「いらっしゃいませ。ここは白沢庵という荒ら家でございます。手前のこともどうぞ白沢庵とお呼びください」

「子供……?」

「お文さんにした話は受け売りだと言ったでしょう? その元ですよ」

 後藤が言うと、お文は目を丸くする。

「ただの子供と侮っちゃいけませんよ」

「それは――ええ。よくわかります」

 お文を惑わし、魅了した話の出所なのだ。お文にもその子供らしからぬ落ち着いた物腰から、ある程度は察せられた。

「おや、どうしたことだろう。ここは現世でも幽世かくりよでもない」

 子供の声だが、白沢庵のものとは違う。気付くと土間の真ん中に、まだ元服前であろう子供が立っていた。入口から誰かが入ってきたはずはない。そこにはお文が立っていて、狭い玄関を通り抜けることはいくら小柄なこの子供でも無理だ。

「いらっしゃいませ」

 白沢庵は全く慌てる様子もなく、いつも通りの口上を述べた。

「ここは一体何だい。おいらはまだ現世に帰ってくるつもりはないよ」

 子供の割に鋭い目付きをしている。三白眼というやつだ。

「あの、あなたは……?」

 お文がおずおずと訊ねると、子供は腕を組んで答える。

高山たかやま嘉津間かつま。こっちでの名は寅吉とらきち

 寅吉はその鋭い目で白沢庵を睨む。対する白沢庵はにこにことした笑顔を崩さずに大様に構えている。

「あんた、何者だい」

「手前は白沢庵と名乗っております。ただの物好きなクソガキでございますよ。それよりも、こちらにいらっしゃる方達はあなたの出自の方が気になると思いますよ」

「あんたはどうなんだい」

杉山僧正すぎやまそうしょう様のお弟子様ということは存じております」

 寅吉はそれを聞くとますます鋭い目で白沢庵を睨み付ける。

「あんたがおいらをここに呼んだという訳かい」

「さあ、どうでございましょうね」

 白沢庵はずっと相好を崩しっ放しで、寅吉の脅すような目顔もまるで意に介さない。

「この方は七つの頃に神隠しに遭われて、それから杉山僧正という方の許で修行していらっしゃるのです」

「おい、勝手に話してるんじゃないよ」

 寅吉はむっとして白沢庵の言葉を遮るが、お文はそれを聞いて身を乗り出した。

「あの、神隠しといいますと、忽然と姿を消すという話ですよね。では、その間一体どこにいらしたんです?」

 後藤にはお文の訊きたい答えがわかった。

「この現世ではないどこかでございましょう」

 白沢庵が代わりに答える。寅吉は不機嫌そうにお文を睨んだ。

「幽冥界と、呼べる場所かもしれません」

「幽冥界――」

 お文はさらに身を乗り出す。寅吉は迷惑そうに身を引くが、この狭い荒ら家の中ではあまり意味をなさない。

「寅吉さん、どうか詳しくお話しください」

「いやだね。おいらはまだ現世に戻る気はないんだ」

「な、ならば、私をに連れていってはいただけませんか」

 お文は寅吉に掴みかからんかという勢いだ。寅吉はさらに身を引くが、じりじりと詰め寄られる。

「お待ちなさい。お文さん」

 後藤は、強くお文の肩を掴んだ。

 幽冥界があるかどうかは問題ではない。行けるかどうかは問題ではない。

「異界に魅かれるのは人のどうしようもない性でしょう。に行きたいと思うのも仕様のないことです。ですがお文さん、あなたは地に足を着けていなければならないのではないですか? 異界に行けば、あなたは聞く側ではなく聞かれる側になります。その領分は弁えなければなりません。あなたは今、学びの道を捨てようとしているのですよ」

 それに――と後藤は笑う。

「楽しむということは、醒めていなければ成り立ちません」

 ということがわかり切っているからこそ、化物は面白くなる。本来あるべき、信じられている姿を知っていながら、それを笑えるからこそ楽しめる。

「お文さんは、化物を楽しむということが出来るようになったではないですか。それはあくまでも現世にいなければ味わえない快楽なのですよ」

 お文は肩を掴んだままの後藤をじっと見上げる。暫くそのまま固まった。

「それは――」

「私の言葉ですよ」

 おっと失礼――と肩を掴んでいた手を放す。

「幽冥界は行くものではなく、考えるものではないでしょうか」

 少なくとも我々にとっては。後藤が言うと、寅吉はふんと鼻を鳴らした。

「私はやはり――馬鹿な女です」

 恥じ入るように俯くお文を、後藤は笑って励ます。

「馬鹿で結構じゃないですか。楽しむ心を忘れなければ、どれだけ馬鹿でも面白い」

 君も趣味の悪い奴だねえ――後藤は白沢庵を睨むが、目元は緩んでいる。

「お文さんを迷わすためにわざわざこの子を呼び寄せたのかい。手の込んだことをしてくれる」

「なに? この野郎、おいらを何だと思ってるんだ」

 いきり立つ寅吉だが、白沢庵は慌てる様子もなく笑う。

「いえいえ、手前が惑わせようとしたのは、お化け侍様でございますよ」

 白沢庵は後藤に笑いかける。

「手前はお化け侍様が気に入っております。あなた様ならば向こう側の世で時の流れにまつろわぬモノとなり、後の世を眺め暮らす身となっても面白いとは思いませんか」

「思わないね」

「つれない方でございますね」

 お文は一人話についていけずに立ち尽くす。話の中身だけを聞くとなんだか剣呑だが、言い合う二人はどちらも穏やかな笑みを湛えている。まるで冗談のかけ合いのように、気の張らないやり取りに見える。

「私はこの世で、ここで楽しければそれでいいんだよ。後の世など知ったことじゃない。それに、私はないものとして化物を楽しんでいる。そちら側に行く気なんてある訳がないだろう」

「お化け侍様はやはり面白いお方でございます」

 ですが――白沢庵は嫌らしい笑みを見せた。

「そうやって積み上げられた思念が、化物を生かしているのでございます。ないと断じても、馬鹿げた話と笑い飛ばしても、思念は必ず積み上がっていくのです。お化け侍様のような方――想像者かたちおもうひとが化物を生かしているのでございます」

 嘉津間様――白沢庵は不貞腐れている寅吉に声をかける。

「ここはどこでもないところ。迷い込まれたのもいたしたかないことでございましょう」

 あくまでも自分が呼び寄せたとは認めないつもりらしい。

「あと二年程で、現世にお戻りになるのがよいかと思います。仙境の話は皆聞きたがるでしょう」

 寅吉は不機嫌そうにそっぽを向くと、何事か思案するような顔になる。

 ふっ、と白沢庵が微かな息を吐くと、寅吉の姿は最初からなかったかのように掻き消えた。


「伊勢屋さんに帰るのでしたらお供しましょう。ちょうど私も伺おうと思っていたところです」

 荒ら家を出て、まだぼうっとしているお文に声をかける。

 お文は後藤の声にびっくりしたようにはっと息を呑み、慌ててすみませんと謝った。

「何も謝られることはないでしょう。さあ、行きましょうか」

 笑って言って歩き出す後藤に、お文は何も言わずについていく。暫く歩くと、今度は後藤の方がすみませんと謝った。

「お文さんをあの荒ら家に招いてしまったのは、私の過失です。あんな場所、行かない方がよかったでしょう」

「いえ……でも、とても興味深いお話を聞けました」

「はは、でもあんまり真に受けちゃいけませんよ。あそこで信用していいのは沢庵の味だけです」

「ああ! あの美味しい沢庵はあそこで買っていらっしゃるのですね」

「ええ。さっきも買ったので、帰ったらお昼に食べてください」

 後藤は笑う。お文もそれを見て笑う。

 ――この人は、きっと誰よりも人間なんだ。

 お化け侍の渾名とはまるで反対の、どこまでも人間らしい人間。だから人間の領分を出ようとはしない。現世にしっかりと足を着けて、作り事の化物を楽しんで、幽冥界からは近いようで一番遠い。

 お文はあの荒ら家の外で耳に入った話を思い出して、少し頬を染める。

 ――今は、このままでいい。

 笑いの尽きないまま、二人は伊勢屋へと歩んでいく。


 その二年後、江戸の町は神隠しにあって戻ってきたという天狗小僧寅吉の噂で持ち切りになっていた。かの平田篤胤はその寅吉を自分の家に引き取り、長い時間をかけて仙境の話を聞き出した。

 馬喰町にある下り傘問屋、伊勢屋は、相変わらず堅実に繁盛していた。長年商いをしてきた熟練の商人のおかげで、穀潰しの一人や二人を抱えたとしても店は安泰だった。

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