11

 下り傘問屋伊勢屋は馬喰町に店を構える、それなりの大店だ。十組問屋に名を連ねるというところからも、その大きさは大体計り知れる。十組問屋の仲間に入っているということは、菱垣廻船からの荷を待つだけの荷受け問屋ではなく、自らの才覚で品物を発注する仕入れ問屋だからだ。

 大坂から菱垣廻船で運ばれてくる傘を仕入れ、店先で売っていく。日本橋界隈には他にも下り傘問屋は多いが、伊勢屋は昔からの客を大事に長い間商売を続けてきただけあって、安定した客足がついていた。

 八兵衛から店の中を案内されている間、後藤はなんとも大変そうだと他人事のように自分の今後を思った。

 なんならいっそ自分が跡を継いだら番頭辺りに身代を全て譲ってしまおうか――などとも思う。少し話をした番頭は二十年以上勤めている頼りになる男だと八兵衛も言っていた。

 それはさておき――である。

 目下後藤が会うべき相手は八兵衛の娘、お文である。だというのに八兵衛はすっかり後藤を家に迎える気で店を案内している。

 後藤がお文の名を口にすると、八兵衛はそちらをすっかり忘れていたようにあっと声を上げ、照れるように笑った。

「すみません。お文は向こうの離れにおります」

 そう言って八兵衛は店の奥に伸びる廊下を指差す。

 二人は連れ立って廊下を歩き、店の真裏に当たる離れへと歩を進めた。

 閉め切られた唐紙が横に見え、八兵衛がそこに手を伸ばす。後藤が脇にどくと、八兵衛は何も言わずに唐紙を小さく開いた。

 中は南から陽の光をたっぷり取り込めるようになっていたが、まだ朝五ツ半ということと、何より雨戸が完全に閉め切られていることから思ったよりも暗い。

 部屋の真ん中には蒲団が敷かれていたが、中に人はいない。

「お文、お客さんだよ」

 部屋の陰になっている隅に、うずくまる人の姿があった。頭を守るためか痛めつけるためか身体の下に隠し、それを覆うように両手で押さえ付けている。八兵衛の声に気付いたのか、小さく呻き声のような音を上げる。

「八兵衛さん、後は二人だけで」

 後藤がそう言うと八兵衛は不安そうだったが頷いて店の方に戻っていった。

「お文さん、こんにちは」

 後藤はそう言ってお文の横に腰を下ろす。

 お文はそれを察してか少し顔を上げて後藤の顔を見る。

「すみません。このようなはしたない姿をお見せして――。ですが私は今とてもお話出来るような身ではありません。どうかお引き取りください」

 げっそりと痩せ細った顔にはまるで生気がない。後藤と同い年らしいが、その顔に落ちた影がずっと老けて見せていた。

「まあまあそう言わずに。面白いものを持ってきたんですよ」

 後藤は持ってきた風呂敷包みを広げ、中から一枚摺りの紙を取り出した。

「化物双六です。最近はあまり摺られなくなっていて、これも古いものですが、一緒に遊びませんか?」

 それは化物が一マスごとに描かれた絵双六だった。互いサイコロを振って駒を進め、先に上がった方が勝ちという遊びだが、そこに描かれているのは化物である。

「ひっ――」

 その絵を見るとただでさえ蒼白だったお文の顔がさらに蒼褪めた。

 後藤は駒を二つとサイコロを取り出すと、畳の上に双六を置いてそこに書かれた文を読み上げた。

「さあさあ振り出しは化物屋敷。『日が暮れたぞ早く出ろ』」

「やめてください!」

 お文は叫んで、また顔を身体の下に埋める。

 後藤は気を悪くするでもなく声を立てずに笑う。

「お文さんの思う幽冥界というものは、どんなものでしょう」

 お文は顔を埋めたまま声も上げない。

「化物は楽しいですよ」

「そんなものは、幽冥界のものとは呼べません」

 暫くの沈黙の後、お文は漸く返事をした。後藤が顔を上げるように優しく促すと、ゆっくりとその通りにする。

 後藤の顔を見て我に返ったのか、青白い顔を少し紅潮させ、すみません――と謝る。

「こんな姿をお見せして。自分でも恥ずかしい限りなのです。あの、お武家様――」

「私はお化け侍などと呼ばれています」

 お文はくすりともせず、逆に塞ぎ込んだように目を伏せた。

「そこは笑うところですよ」

 言って、後藤は自ら笑ってみせる。だがお文は目を伏せたままだった。

 後藤は勝手に部屋の隅に積まれていた座布団を二つ持ってきて、お文の前とそれと向き合うところに敷いた。

「そのままの格好で話すのはお文さんも恥ずかしいでしょう。一旦居住まいを正そうじゃありませんか」

 そう言って後藤は自分に近い方の座布団へと腰を下ろす。お文は立ち上がり、そろそろと目の前に敷かれた座布団に正座した。

「あの――」

「私のことはどうぞお化け侍と呼んでください。気に入ってるんですよこの呼び名。馬鹿げた呼び名で呼ぶ方が厭かもしれませんが、そこは堪えてください」

「は、はい。お化け侍――様」

 後藤はにっこりと笑って、うんうんと頷いた。

「それではお文さんのお考えになる幽冥界について、話していただけませんか」

「私の――というよりも、平田先生の仰っていることの受け売りなのですが……」

「出来ればお文さんの私見も聞きたいですねえ。そうしゃっちょこばらずに、思ったままを語ってください」

「はい。まず、本居もとおり宣長のりなが先生の仰る黄泉の国と、幽冥界は違うものです。本居先生の言うには死者は全て黄泉の国へ向かう他なしということですが、平田先生は死者の霊が向かうのは黄泉の国一つだけではないと仰っています。この現世の内に、仄かにして現世との隔たりが見えない世があって、現世からはこの幽冥界を見ることは出来ません」

 なるほど、と後藤は穏やかな顔のまま頷いた。

「しかしお文さんの私見がまだ入っていないようです。では話題を変えましょう。お文さんの思う、化物とは如何様なものでしょう?」

稲生物怪録いのうもののけろくというものをご存知ですか?」

「ええ存じておりますよ。ああ、そういえば今出回っている本の序や跋は平田先生が書いているんでしたか」

 稲生物怪録とは、芸州の武士稲生武太夫ぶだゆう――幼名平太郎へいたろうが十六歳の時、ひと月に渡り怪異に襲われたという実録記である。写本しか出回っていないが、後藤は伝手を使って読むことに成功していた。

「はい。私は幽冥界の化物とはああした妖しく――なものだと思うのです」

「すぴりちゅある?」

「エゲレス語です。平田先生に教えていただいて、気に入って使っています。意味は――霊的とでも言いますか……」

 なるほど、と後藤は膝を打った。

 稲生物怪録に出てくる怪異は、どれも独特で、他に例を見ないものばかりなのだ。

 例えば女の生首が逆さになり髪の毛を足にして笑いながら歩いてくる。

 蟹そっくりの目がついて指に似た足が生えた石が這ってくる。

 知り合いだと思っていたら話している内に頭がどんどん大きくなり、穴が開いて中から赤ん坊が次々這い出てくる。

 串刺しになった首が串を足代わりに跳ねまわる。

 これだけではなく、急に行灯の火が天井に届く程燃え上がったり、寝ていると蒲団から水が湧き出し溢れる、など、怪異は凄まじい量になる。

「そうしたものこそが本来あるべきものという訳ですか。世間に広まっているような卑俗なものではなく」

「私は――知りませんでした」

 お文は怒りでも堪えるようにぐっと歯を食いしばり、俯く。

「あんな――あんなものが世に広まっていることも、それを喜んで享受する愚かな人が溢れていることも!」

 後藤は穏やかな笑みを見せる。

「はは、私などはその愚かな人の骨頂のような者なんですがね」

「す、すみません」

「いやいやお構いなく。きっちり自覚しておりますので」

 お文ははあ、と半分溜め息のような返事をして、この男が一体何者なのかますます判じあぐねていた。

 父が連れてきたようだが、商人ではなく武士であるし、なによりまだ若い。

 お化け侍などと自称する辺り、もしや芸人か何かなのではないかとも思ったが、お文の知識ではそこまで見抜くのは無理だった。

「しかしですねお文さん、化物というものは、今の御時世ではお笑いのタネなんですよ」

 お文が何か言い返そうとしたのを笑みで制し、後藤は続ける。

「野暮と化物は箱根から先――ということわざを聞いたことはありますか? まず化物を笑いや遊びにしている者は皆、化物などいないと思っているのです」

「そんな! では幽冥界もないと言うのですかっ」

 後藤は笑みを崩さず、まあまあとお文を宥める。

「そんなことは言ってませんよ。我々がいないと承知しているのは、作り事としての化物です。画に描かれたり、黄表紙に出てくるようなもののことですよ。それと幽冥界ではまた話が違ってきますでしょう」

「違うのですか?」

「違うでしょう。絵空事とわかり切ったものを面白おかしく描いているのですから、それはもう低俗に映りますよ。ですがね、そんな者達でも幽冥界を否定するようなことはしませんよ。信心とでもいいましょうか、そうしたあちらのものを信じる心は、我々はまだ失ってはいないのです」

「なのに、化物はいないと言うのですか?」

「一緒くたに考えるとこんがらがっていけません。化物は化物という性質を受けて、その中で動いているのです。ですがそれはきちんとした分け方ではありません。黄表紙に狐狸の類は出てきますが、その実狐狸が人を誑かすということは普通に信じられています。〝化物〟と分けられた時に、狐狸は馬鹿で阿呆で間抜けなものとしての性質を持ちますが、そこから空事としての性分を抜く――つまり今この世の中でと考えると、途端に人を化かす獣と化すのですよ」

 お文は呆けたように後藤の言葉に聞き入っていたが、後藤はそれに照れたように頭を掻いた。

「いや失敬。実はこうした話は全くの受け売りなのです。私はただ化物が好きなだけの愚か者ですから、そんな目で見るのはやめてください」

 お文は食い入るように見つめていた後藤の顔から慌てて目を逸らす。

「難しい話になってしまいましたが、化物にこうした口上は本来いらないんです。皆口に出さずにわかり切って化物を楽しむのですから、こんな長ったらしい話をすれば興醒めでしょう」

 だが後藤はあえてお文にこの話をした。お文は勉学に没頭するあまり本来ならば得られるはずの常識を得ていない。そこに突然卑俗の極みである黄表紙を与えれば反発するのも道理だ。

 ならば相手の土俵に上がり、筋道立てて小難しく見えるように話してやれば、興味を抱いてくれるかもしれない。

「私は――ものを知らないのですね」

 お文は憮然としたように俯く。

「お化け侍様のお話はよくわかりました。ですが、私はやっぱりものを知らない。お話を飲み込んでも、認めることが出来ないのです。化物あんなふうに描くことは、どうしても許せません」

 後藤はそれを聞いても気を悪くする訳でもなく、笑いながらううむと唸った。

「やはりそう簡単にはいきませんか。ですが、外堀を埋めるくらいのことは出来たと思いますよ」

 自分の横に置きっ放しになっていた化物双六を掴み、お文との間に広げる。

「遊んでみましょう。化物は楽しんでなんぼですよ」

 駒とサイコロも取って、紙の上に並べる。

 お文は厭そうな顔をしたが、声を上げて拒否することはなかった。

「止まったところに描かれた化物を私が説明するというのはどうでしょう。さあさあサイコロを振って」

 お文は迷いながらもサイコロを振った。出た目の数だけ駒を進めるのですよ、と後藤が教えると、言われた通りにする。

「ほう! いきなり見越し入道ですか。この化物は夜道や坂道の突き当たりなどに現れて、見上げれば見上げる程大きくなるという化物です。ただ、草双紙などではもっぱら化物の頭領だとされています。ほら、この絵をよく見てください。首の伸びた大男でしょう? そもそもの姿とは違っているんですよ」

「は、はあ……」

「いい加減でしょう? これが堪らないんですよ。馬鹿馬鹿しくて、その癖正体の見えないというね。では次は私の番ですね」

 そうして後藤はサイコロを振った。

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